02.どうしてここに
「君が、そうか……フロベール社の……」
中年の男はキャリーの身体を撫でまわすように視線を動かすと、どうでもいい話を続けた。
今日は父の命令でフロベール社とゆかりのある会社が主催している懇親会に出席している。目の前にいる小太りの中年男はどこかの会社の重役らしいので、キャリーは仕方なく、撒きたくもない愛嬌を振りまいている最中だ。
「で、普段はどうしているんだ?」
彼が何の話をしていたのか聞いてなかったキャリーは、愛想笑いをしてその場を乗り切ろうとしたけれど、男はニタニタと口を広げながら、「だから、発情期はピルで抑えるのか? それとも違う方法で……?」と聞いてくる。
――うわ、最悪だこの人、キモチワルイ……。
心の中で悪態をついていると、兄のイアンが、「あっちにいってろ」と顎で指示してくる。
二つ上の兄とは本当に仲が悪く、実家に住んでいた頃も朝の挨拶すらしたことがないほどだったが、さっきみたいな時は助かることも多かった。
どうせ、オメガであるキャリーが醜態をさらしたら困るとか思ってるのだろう。そうでなければ、あの兄が自分を庇うような態度を取るはずがないのだ。
そもそも、あの兄は――、と因縁とも呼べる出来事が脳裏を掠めそうになり、慌ててキャリーは頭を振る。その時、背後から人が近づいてくる気配がした。
「おや、こんな所でフロベール家の坊ちゃんに会えるとは」
聞いたことのある美声に、まさか? と振り向く。
「な、なんでこんな所に……」
キャリーは驚きで後ずさった。
その瞬間、上質なカーペットの毛に足を取られて体勢が崩れる。手に持っていたグラスが傾き、スローモーションのように景色も傾いた。
一瞬で様々な感情に襲われてしまい、どれを優先すべきか分からなくなる。零れそうになっているグラスの液体を死守するべきか、倒れる自分の身体を優先すべきか。
「あ……」
先ほど考えていた優先順位の中には存在しなかった第三の選択、それは目の前の男に支えられるという事態だった。
しかも、男の高そうなスーツにグラスに入っていた液体がかかってしまい、思わずキャリーの顔が引き攣る。
「ミ、ミスター・グレン……」
「大丈夫か?」
怒るでもなく平然とした態度で、こちらのことを気にかけてくれる彼に、ぼーっと見惚れていると、背後からスタイルの良い女性が、「グレン」と声をかけてきた。
「大丈夫? 着替えた方がいいんじゃないかしら」
「そうだな」
恋人だろうか? かなり親しげな様子だ。
いや、それよりも、どうしてここに彼がいるのだろう? あのお見合いから三週間ぶりに見る彼の姿に動揺して、様々な考えが頭の中を飛び交った。
お見合いを正式に断りに来てくれた? いや、断るのにわざわざ来るわけもない。ああ、仕事かな? と最終的な結論が出た時だった。
「グレン、行きましょう」
恋人らしき人物がグレンの腕を取るのを見て、こんな美人な恋人がいるのにキャリーと結婚しようとしているなんて、とんでもない男だと睨む。
けれど、自分の矛盾に気が付き、慌てて訂正をする。彼と結婚しないのだから、誰と付き合っていても関係ないことじゃないか。それなのに、どうして腹を立てる必要があるのかと、自分の矛盾を消し去り、正しい方向へと導いた。
「キャリー、何してるんだ」
いつの間にか兄が背後にいて、苛立ちの籠った厳しい目線を向けてくる。
「転びそうになったところを、あの人に助けてもらいました」
「……相変わらず、どんくせーな……」
本当に、いちいち人を蔑まないと生きていけない人なんだな、と心の中で兄に毒づく。
そんなことより、会場から出て行くグレンと、その女性の後姿を見つめる。助けてくれたのに、お礼を言うのをすっかり忘れていたのが気掛かりで、追いかけようかどうしようか悩んでいると、背後にいる兄が、「お前さ……」と言い難そうに言葉をこぼす。
「何でしょうか?」
「いや、もう帰って良いぞ」
「え、でも、父から有権者らしき人物に愛嬌を振りまくように言われてます」
まるで、それしか能がないとでも言わんばかりに、父は懇親会や創立パーティーなど大きな企業が集まる時は、必ずキャリーを挨拶回りに連れて行く。
今日は父の代わりに兄のイアンが一緒に来てくれただけのことで、自分の役割くらい分かっていた。
「お前、自分がどういう目で見られているか自覚ないのかよ」
「ありますよ、だから愛嬌を振りまいてるんじゃないですか」
さっき話しかけて来た中年の男だって、物欲しそうにキャリーを見ていたのだから、そういう目で見られているということくらい分かってる。
そもそも、こういう集まりにオメガを連れて来るには理由がある。我々オメガは円滑に話を進めるための餌だ。
高級男娼を連れて来ている人間もいるし、交渉のためにオメガをあてがうのはよくある話だった。
もちろん、だからといって身体を使ってまで愛嬌を振りまけと父から言われているわけではないし、そんなこと死んでもお断りだ。
兄の顔がさらに険しくなり、「分かっているなら帰れ」と顎で出口を指す。キャリーがどうしようかと考えていると、兄の口元が歪な形へと変わる。
「その顔を使って愛嬌を振りまくしか取り柄がないとしても、フロベール家の息子が娼婦の真似事をしてると思われても困るからな――」
何の取柄もない自分が出来ることなど、たかが知れている。なのに、それをいちいち指摘してくる兄に苛立った。
あまりの刺々しい言葉にキャリーは持っていたグラスを兄に手渡し、「帰ります」と言って急いで会場を出た。
兄とは長年顔を付き合わせているし、散々なことを言われ続けてきた。だから、攻撃的な言葉など聞き慣れているし、特に気にするようなことでもなかったけど、流石にあの言い方は嫌悪感が沸いた。
――はぁ、結局、あとで僕が怒られるんだろうな……。
あの兄が父に何を言うかを考えてげんなりする。ホテルの会場を抜けてロビーへ向かう途中で、ふとグレンのことを思い出した。
あんな高そうなスーツにソフトドリンクを散布して台無しにしたのだから、人として謝罪をしておくべきだと思った。
――お礼くらい言った方がいい……。
けれど、グレンが何処へ行ったのか分からないし、それに、恋人と一緒だったことを考えると邪魔しない方がいいのかもしれない。
何だか色々考え過ぎて一気に疲れたキャリーは、ロビーにあるソファに腰掛け、少し休憩することにした。




