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◆狂気と正義と夜の街





「Ha……Ha……」


 息を荒げ、走った。街に敷き詰められた石のタイルの上を、黒い爪で弾く音を立てて。

 十分以上、息詰まるような全力疾走を続けると、否が応でも、体力の限界は見えてくる。だが追っ手である人間には、替えがある。追いかけることを疲れた人間が現れても、追いかけることを始める人間がすぐに現れる。ジリ貧なんて、生易しい言葉では済まされない、最後には必ず敗北が待ち受けていることを、理解せねばならない。

 毎朝仕事の後に立ち寄っていた公園があった。大きな公園だ。街の中心に位置し、ライハークで一番の大きさを誇る公園。

 公園の前に伸びた、右へ進む道を見た。そちらから、人間たちが大挙してやってくる。左の道からも、走ってきた後ろの道にも。どの道からも人間たちが、追いかけてくる。進めるのは前だけで、公園へ入る他に道はない。追い込まれた。人間たちがそれを意図していたのかは不明だが、ロクトは自らの逃げ道を絶ってしまっていた。

 毎朝見ていた大きな鉄のモニュメント。複雑に絡みつくようになった鉄塊は、一体何を表していたのだろう。一日中の時刻を表す大きな時計、それを囲むように造られた花壇に植わった花は、太陽が休んでいるせいかどれも元気がない。


 人間たちの怒声が聞こえる。


 ロクトの体力も、もはや尽きかけだ。それでも息を整えながら、速度を落とし、公園の中へと入り込んでいく。

 軽く階段を上る。逃げるように、少しでも、高い所へ逃げるように。

 真ん中の広場に出た。中央には、水の吹き出る噴水がある。仕事の疲れを癒すために使っていた、いつものベンチが見えた。


「人狼だ!」


 前方から現れた人間は、ロクトを見つけると、大きな声で叫んだ。その後ろからついてきていた人間たちも広場に出てくる。

 背後からもロクトを追って、人間の群集がロクトを追いかけてきている。

 すぐに公園の真ん中の大きな広場に、堰を切ったように大量の人間が流れ込んできた。噴水の前に立ち尽くすロクトを取り囲むように、たくさんの人間が、集まっていた。


 人間が、溢れかえる。

 囲まれている。

 どこにも、逃げ場はない。


「追い詰めたぞ!」

「よぉし!」


 群集の持った様々な光源がロクトを照らす。カンテラや、松明。赤や黄色の光が、動けずにいるロクトを、その場に留めるように光を当てる。

 ロクトは怯えながらも、どこか冷静に、辺りを見渡した。四方からぶつけられる光線が眩しい。目を細めた。笑っているみたいに、目を細めた。

 人間が、たくさん。広場の中にたくさん。

 森の中で見た、パティナを討つために集まったあの人間たちの数の比ではない。

 狂気を孕んだ双眸を、人々は一心にロクトへと捧げている。人間たちのそれぞれが、怒りや憎しみや、負の感情を、ロクトへ捧げている。「人狼とは、悪だ」、それは彼ら人間が暗に掲げる、ひとつの正義。


「君たちに……」


 僕ら人狼が、何をしたんだ?


 ロクトは、意識せずに言葉をこぼしていた。自分でもなく、自分を取り囲む人間たちでもなく。誰へ向けるでもなく、放たれた線の細い言葉は、この世界自体へ投げられたものなのかもしれない。

 果たしてここにいる人間たちのうち、人狼の被害に遭ったことがある者はどれだけいるのだろう? 直接でも間接でも、人狼が彼らを苦しめたことはどれだけあるのだろう? 親族を、殺された? 怪我を負わされた? 一体どんな理由があれば、これほど何かを恨むことが、出来るんだ?

 彼らの目は“正義”を宿している。その炎で、空を焼いている。メラメラ、パチパチ、燃え盛っている。

 だが正義の執行を行うにあたって、彼らの目はそれと同時に、愉悦を覚えていた。大勢で人狼を追い詰めて、その命を刈り取ろうとすることに、愉悦を覚えていた。数で圧倒し、叩きのめし、踏みつけることに、愉悦を覚えていた。


「殺せ!」


 群衆の中の一人の人間が、この世の者と思えない、恐ろしい声を上げた。真っ赤に燃え上がった、溶岩のようにぐつぐつ煮立った声だった。


「殺せ!」


 誰かがそれに続く。声は上ずっている。興奮と緊張、アドレナリンに塗れた、汗だらけの声。

 噴水が、水を押し流す音。ザバザバ、飛び出た水と、引っ込んでいく水が、入れ替わる音。


「殺せ!」

「殺せ!」

「殺せ!」


 群衆の声が、大きく、育っていく。熱くなっていく。熱を持って、膨らんでいく。一分も経たないうちに、広場は群衆の奏でる合唱でいっぱいになって、噴水の音はすぐに聞こえなくなってしまった。地鳴りのような合唱に囲まれて、ロクトはじっと周囲の人間たちを見回した。


 殺せ。殺せ。殺せ。


 夜のライハークに、殺害を讃える声が立ち上がる。

 ロクトとその背後の噴水を取り囲んだ人間の輪は大きかった。まっすぐ睨みつける群衆の瞳と、狂気を撒き散らすその笑みを含んだ口。大合唱がロクトの耳に、重くのしかかる。



 恐怖とは違うもっと達観した何か、複雑なようで単純な感情と、純粋にこの身に迫る明々とした危険への恐怖とのあいだで、ロクトは揺れていた。

 間違いなく、死はそこにあった。何せ、自分を殺したいと願う人間が、この場に数え切れないほど集まっているのだ。

 だがいざ死を目前にしてみると、目に見えた死は、事前に抱いていたものとは違っていた。自分を取り囲む群衆への恐怖よりも、自分を取り囲む群衆への深い憐憫があった。

 熱気と狂気に充てられた人間たち。ロクトは、人間たちを睨むことを、いつからか止めていた。四肢に篭った力を抜いて、彼らを眺めていた。


「殺せ!」


 キリキリ、と音がした。弓を引く音。音の方向を見ると、群衆の最前列に立った人間が、矢先をこちらへ向ける姿があった。


「殺せ!」


 醜い合唱が続く中、武器がカチャカチャと音を立て始めていた。温まりきった熱気が、その牙を剥き、突き立てる場所を探している。


「殺せ!」


 数人の屈強な人間たちが、前へ進み出てきた。物騒な獲物をその手に持って、ニヤつきを浮かべながら、人間たちは歩みを続ける。大きな猟銃を持った男の姿もある。剣も槍も、斧も棍棒も、弓矢も弩も――。まるで、人間の発明した武器の博覧会が開かれているみたいだ。

 進み出てきた屈強な人間たちに向け、群衆から歓声が上がる。ヤジが飛び、口笛が鳴る。広場一体が、大きく揺れていた。

 処刑が始まる。私刑が始まる。対象は、自分。

 ロクトは、噴水の前でじっとしていた。


「殺せ!」


 歓声が上がる間も、合唱は続く。

 この街の人間全てが、この公園の広場に集まっているような、合唱と歓声だった。


 ここまでか。

 

 ロクトは、ゆっくり前進する人間たちを見、目を伏せて、呟いた。

 頭の中で、自分の歩んできた道を思い浮かべた。立ちふさがった壁も、乗り切った困難も、心地よい会話も、耳触りの良い子守唄も、全部自分の道の上にあった。

 こんな最期を迎えることは、さすがに想像出来なかったが、ある意味こうなって然るべきなのだと思った。もともと、疲れてここまでやってきたのだ。ただ黙って生きたいのなら、人間の街には来なかっただろう。死は、そこにある。


 ただ心残りが一つある。


「パティ……」


 せめて君は、逃げてくれ。次に狙われるのは、きっと君だから。



「おい!」



 殺せ、殺せ、殺せ。


「くそっ!」


 殺せ! 殺せ! 殺せ!


「……!」



「うおっ!?」


 群衆の一部から、悲鳴が上がった。

 だがそれは、誰も気にしないような声だった。殺せ、殺せ、殺せ――合唱は続く。

 しかし、また別の場所で「ぎゃッ!」と悲鳴が上がった。

 その悲鳴は次々と、噴水を取り囲む群衆の中に、伝播していった。突然の出来事に、困惑に似た驚愕が、稲妻のように群衆のあいだを駆け抜ける。

 殺せ、合唱が少しずつ収まっていく。代わりに群衆は、疑問と不安の表情で、顔を見合った。

そして遂に、一人の人間が大きな声で、張り裂けんばかりの大声で、広場一体に響き渡るように叫んだ。


「人狼だーッ!」


 群衆の中のざわめきは、より一層大きなものになった。

 噴水の傍から動かない狼を、どう料理しようかと睨んでいた屈強な男たちが、その叫びを聞いて足を止め、振り返る。


「うわぁああ!」


 群衆の一部で、また悲鳴が上がった。今までのものよりも大きな悲鳴だ。ロクトだけを照らしていた、たくさんの光があちこちへ行き来して、視界がめまぐるしくちらつく。

 広場の群衆は、自分たちの身に何が起こっているのか、さっぱり理解出来ていなかった。理解が追いついていなかった。みんなで辺りを見回して、足元を見ても、何もいない。顔を付き合わせて怪訝な顔をすれば、今度は違う場所で「人狼だ」と悲鳴が上がる。

 伏せていた顔を上げ、ロクトは騒然とする群集を見た。穏やかでない空気が、どっぷりと広場に蔓延している。


「まだ人狼がいたのか!?」


 困惑の面持ちで、群集の一人が叫んだ。この群衆の中に、人狼が紛れ込んでいる――群衆の中に緊張が走る。

 そして、その時。


「コイツだ! 人狼だ!」


 高い声が響いた。群衆が大きくどよめいた。そしてその声は、十分引き金に成り得た。

だから、放たれることのないはずの弾が発射された。

 声が上がるとほぼ同時に、近くにいた人間がフードをかぶった背の曲がった男の後頭部に殴りかかった。フードをかぶった男、というだけで殴ったのかもしれない。


「お前!」


 続いて別の場所でも、重たい殴打音が響いた。金属で、肉を殴りつける音がした。殴られた誰かの口から、「ぐえ」と目を回す声が漏れた。

 疑いが刃を向けた。体の一部から痛覚、刃先が動く。悲鳴。

 カランカランと渇いた音を立てて、槍が石畳に落ちた。持ち主を失った武器が、行くあてもなく振り下ろされる。引き絞られていた弓から矢が放たれて、白羽が一直線に群衆の背中を射抜いた。

 悲惨な声が盛り上がる。


「何者だ!」


 惨殺讃美の合唱は、いつの間にか一切聞こえなくなっていた。群衆は、その熱で暴走を起こしていた。

 ロクトを私刑しようと進み出ていた男たちも、群衆の諍いを収めようと、パニックの中に身を乗り出していった。

 群衆が群衆を押し出して、押し潰して、磨り潰している。もみくちゃになって、そして行き場のない怒りに貫かれ、殴打され、沈黙する。


「貴様! 人狼か!」


 いわれのない罪を着せられて、確認するよりも前に斬りかかられるフードをかぶった男がいた。釈明する間もなく、人間が人間に襲われる。狂人は、凶刃に倒れ、呻きを上げる。

 広場はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。

 ロクトは突如始まったこの熱暴走に、驚きのあまり声を上げることもできなかった。



「人狼め! お前さえいなければ!」


 群衆の中から、怒れる禿頭の男が、茹でダコのように顔を真っ赤にして飛び出てきた。料理人なのかもしれない、エプロンをつけた男は、右手にぎらつく出刃包丁を手にしている。

 この混乱の中で、その人間は群衆の地獄の中から抜け出してきたのだ。これだけの人間がいて、もともとの目的を果たそうと行動できたのは、ある意味この男だけのようだった。


「殺してやるっ」


 煮えあがる鍋の中の食材のような、沸々とした瞳がロクトを刺した。

 だが怒りの矛先を刃に込めた茹でダコ男は、その刃を振り下ろすよりも前に、足元から崩れ落ちてその場に伸びてしまった。倒れた男の後ろには、ひとつ、人影があった。

 ロクトは目を見開いて、その人影を見た。最初は夢か、何かと思った。いや、きっと夢に違いないと思った。


「パ……」


 諦めに満ちたロクトの瞳に、火が灯る。

 噴水の水音、千歳緑の髪が揺らめく。冷ややかな目と、微笑み。


「……なに驚いてるんだ」


 驚きのあまり動けないロクトを見下ろして、口の端にどうしようもない笑みを湛えたパティナは、美しく、そして不敵に言い放った。


「逃げるぞ」


 

 広場一帯は混乱した群衆で埋め尽くされていた。

 人々はお互いを訝しみ、そして糾弾し合っていた。その混乱はまさに、混沌と呼ぶにふさわしい光景だ。

 がんじがらめになった正義の使者たちの足元を、狼の姿で駆け抜けることは、そう難しくなかった。混沌に堕ちて目が見えなくなった群集は、もはや本来の目的を見失い、ただ互いに怒りをぶつけ合うことしが出来ない。足元を往く狼に突き飛ばされた人間の「人狼が逃げた」という声高な叫びは、怒声にかき消され、収拾はつかない。

 幾つかの人間が、広場を飛び出て追いかけてきたり、公園前にいた人間が、逃げ出した狼二匹に気付き、その背中を追いかけようとしたが、狼の走る速さに、ついて来られるはずもない。

 二匹の狼は人間の追走を、許さなかった。


「まだ走れるな?」

「走るさ」


 公園から抜け出す時に気付いたことがあった。ロクトを追い詰めた群衆は、公園とその広場に大勢集っていたが、公園を抜け出してしまうと、人影は随分減った。ビラを片手にうろついている人間の姿を見かけることはあっても、ロクトが街の中を逃げ回っている最中に見たほどの大勢の人間は見当たらない。

 この広い街の中で、自分を捕まえるために躍起になった人間は、みんな広場に集まってしまった、ということなのだろうか。今も広場では、もう存在しない人狼を探すために、人間同士で諍いを起こしているはずだが、どうも釈然としない。これだけ巨大な都市に、ひとつの公園に収まり切るほどの数しか人間がいないのはおかしい。もっと多くの人間が、ロクトを探しているはずだ。

 まだ何かが待ち構えていると、ロクトは確信していた。これだけで、終わるはずがない。



「君は、なんでここに来たんだ?」


 走りながら、先行するパティナの後ろ姿に声をかけた。


「街に来るだけでも、危ないのに……。傷もまだ治ってないだろ?」


 彼女は、自分を追い詰めて盛り上がる群衆の中にいた。危険を冒して人間の街に入った挙句、怒れる群衆の中に飛び込んでくるなんて。そして混乱に陥った人間の中を掻い潜り、自分の元へ来るなんて。とてもマトモとは思えない判断だ。

「傷は治った」とだけ答えたパティナの声を聞き、先ほどの広場での混乱の引き金になった声を思い出す。


『コイツだ! 人狼だ』


 そうだ、あの時聞こえた声は、パティナのものだった。あの声が引き金を弾いたから、群集が同士討ちを始め、混乱が巻き起こった。そしてそれ以前に、彼女はあの群衆の中を、狼の姿で走り回り、かく乱した。

 一歩違えば最悪の終わりに帰結しかねないようなことを、パティナはやり遂げた。ロクトは彼女に救われた。

 しかし、彼女が危険を冒したことは、複雑だった。自分のせいで、彼女が危険を冒したことは、良くないことにしか思えない。


「……今は考えるな」

「……いや、その」

「私が好きでやったことだ。……話は街を出てからにしよう」


 振り返らずに言う彼女の背中を見て、ロクトは苦々しく口を歪めた。

自分に意志があるように、彼女にも彼女なりの意志がある。それは自身がよく分かっているはずだ。少なくとも今は、彼女の言うとおり、話をするのは後にするべきなのだろう。

 石のタイルを踏みつけて、街の出口へ向かう。ロクトの言葉を背中で受け止めたパティナは、ずっと前を見つめている。




 

 次話、ロクト編「機械仕掛け人の手」は明日公開です。

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