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◆逃避の始まり




 そっと家の窓のカーテンの隙間から、外の様子を伺う。日は既に暮れかけているようだ。

 家に帰ってみると、部屋はいつもと変わりなかった。アパートの前も、部屋に至るまでの通路も、同じく。自分を探している者など誰もいないのではないか、とすら思えるほどの日常が続いている。

 だが確かにこの街には、ビラをばら撒いて、大金を賞金にかけられるほどの財力を持った者たちが、自分を探しているのだ。今自室に広がっている日常は、いつ破壊されてもなんらおかしくない。

とは言っても、この広い街の中からひとりの人間を見つけ出すのには、相当な時間を要するに違いない、というのがロクトの考えだ。自分に味方してくれる、夜の黒い闇が訪れるまで、ここにじっとしていようと、ロクトはそう決めた。



 フェックをいじめていたあの少年が大量に抱えていたあの紙――今も、さっき拾った紙が一枚、手元にある――をもう一度、顔をしかめて眺める。

 賞金が出る。生死は問わない。表情の誇張はあるものの、描かれた似顔絵は正確に描かれている。

対象は、人間たちが疎んでいる人狼。紙に描かれた文句が、やかましく人間を焚きつける。

 紙面に書かれた“ライハーク反人狼団体”という、このビラを作った団体の名前。これは、パティナを狩ろうとした集団と同じ集団のはずだ。あの森で逃した、人狼を憎む醜い集団。だが、逃がして終わるはずなどなかったのだ。

 彼らは「人狼がライハークに紛れ込んでいる可能性」に気付いた。思えば、自分の着ていた服がまずかったのかもしれない。ロクトの服は、この街で作られている、人間の服だ。ライハーク製の服を着た人間が、人狼になったことを見れば、自分たちの中に人狼が紛れ込んでいるという結論に至るのは、そう難しくない。

 彼らは街に帰還した後すぐに似顔絵を描き、夜通しでこのビラを作った。そして半日立ってロクトが街に戻る頃には、ばらまくための大量のビラを刷り始めていた、と。

 あのいじめの主犯格の少年も、ビラをばらまく手伝いをしていたのだろう。もしかすると“ライハーク反人狼団体”の関係者の身内なのかもしれない。



 ビラに書かれたことは、「人狼を捕らえれば賞金が出る」ということ。賞金は金貨三百枚。ロクトの仕事の給金で換算すれば、およそ二十年分の額。大金だ。

 それほどの大金を用意したということは、この“ライハーク反人狼団体”の人間たちがそれほど躍起になっている、ということだろう。

 ここまで考えてみて、ようやく気付いた。ロクトは自ら罠にかかりに、ライハークへ舞い戻ったことになるのだ。ロクトは息を詰めた。つまり、森からここへ戻って来たのは悪手だった、のだ。

 あのビラが配られて、外はどうなっているのだろう。そして、三百万もの大金を提示されたこの街の人間たちは、どう動くのだろう。



 家に逃げ込んでから、どれぐらい時間が経っただろう? 勢いに任せて帰宅したまではよかったが、時間が経って冷静になり始めれば、やはりビラの存在に気付いた時点で、街の外まで全力逃走すればよかったと、今更後悔する。

 今からでも、フードで顔を隠して、一度も立ち止まらずに門の外まで駆け抜ければ、無事に街を抜け出せるだろうか。人間たちに気付かれることなく、外へ逃げられるだろうか?

 閉められたカーテンの隙間から漏れこんでいた、橙のまばゆい光が後を引いて、そして部屋が暗くなる。

 いよいよ日が暮れた。もうそろそろ、外へ出て行く頃合だ。

 動くことが選べないロクトは、音のない世界で、ただひたすら時が経つのを待っていた。今この時に“時間”は何の薬にもならないと理解していても、外へ飛び出す勇気はなかなか湧かなかった。

 外へ出ることも、罠に思えた。外へ出た途端、人間たちが一斉に襲い掛かってくる気がした。人間たちは、今も扉の向こうで、ロクトが現れるのを手ぐすね引いて待ち構えている。考えてはいけないと分かりつつも、悪辣な表情を浮かべた人間たちが、自分に向けて手を伸ばす映像が、簡単に思い浮かんでしまうのだ。

 外へ、出られない。今この間にも、ビラがばらまかれ、さらに多くの人間たちがビラを見ているかもしれないというのに。一秒でも早く、この街を発たねばならないと、理解しているというのに。



 そしてやはり、ロクトが自らを奮い立たせるための時間を費やしているあいだにも、状況は刻一刻と悪い方へと転じ続けていた。

 ロクトはまだ、人間たちの恐ろしさを知らない。まだ、どこかで人間を侮っていた。

人間たちがその気にさえなれば、彼らが“敵”を見つけ出すことなど、なんら造作もないことなのだ。

 藁の山の中から針を見つけ出すことも、大きな森の中から病気の木を見つけ出すことも、ただ「この中に私たちの“敵”がいる」、それだけの情報があれば、彼らはあっという間に“敵”を見つけ出す。その能力と、意気がある。数がある。それが、人間だ。

 座り込んでいたロクトの耳に、がやがやと人の声が聞こえた。その時ようやく、その身に這い寄る危機を、察知した。


 立ち上がって耳を澄ます。

 人間たちの声。

 とても、とても嬉しそうな、狂気の声。


『こっちか!?』

『その建物だ!』


 人間たちの、嬉しそうな、狂喜の声!


 その声の主たちが発した言葉の意味を理解した時にはもう、ロクトは用意していた小さな手荷物を胸に抱えて、家の外へ飛び出していた。


「そんな、もうここまで……!」


 信じられない気持ちで通路をひた走る。人間たちの喧騒は、階下から聞こえてくる。この建物の、このアパートの階下! すぐ下だ。もう、場所を知られているのだ。顔のみならず、住居まで、彼らには伝わっている。

 非常用の螺旋階段へ差し掛かったとき、手すりからそっと顔を覗かせて下を見た。


「……!」


 人間たちが大挙して、建物の周りを取り囲もうとしていた。昨日の夜に森で見たように、みんなそれぞれの手に、剣や槍と言った武器を携えている。狙う獲物が夜の闇に紛れないようにだろう、カンテラを照らしている人間も多く見かけられた。

 その集団を主導しているらしい何人かが、顔を付き合わせて相談をしている。そのうちの一人には、見覚えがあった。


「あっ……」


 汗を拭いながら何やら話し込んでいるあの男は、このアパートの管理人だ。思わず、階下を覗きこんでいた顔を、勢いよく引っ込めて、階段の手すりの影に隠れた。

 ばらまかれたビラに描かれた人狼の顔を、アパートの管理人はよく知っている。自分のアパートに住まう、住民なのだから、当たり前だ。彼は、ロクトに気付いてすぐに、“ライハーク反人狼団体”へ通報したに違いない。

 家に住んでいたのは、たった一年と数ヶ月だけで、管理人とは付き合いの長い友人でも、明るい会話を交わせる間柄でもなかった。ただ、世間話と愛想のいい笑顔を投げかけ合うだけの、上辺だけの関係。それでもいざ今のような、裏切りめいた状況に直面すれば、なんとも遣る瀬無い気持ちになる。

 人間たちはすぐに話し合いを終えたようで、何人かの人間が手にカンテラを持って、螺旋階段を駆け登り始めた。金属を踏み鳴らす乱暴な足音が近付いてくるのを聞いて、ロクトは慌てて立ち上がり、階段から通路へと引き返した。

 焦りと驚きと恐怖とで、目の前がぐるぐる回転するのをなんとか落ち着けようと、通路を走りながら、こめかみをトントン叩く。

 冷静に、冷静になれ。下へ降りられるのは、あの螺旋階段だけで、階下へ通じる道はない。


「ここは三階……」


 迫り来る人間たちのけたたましい足音。この三階の通路まで駆け上り、到達してしまうまで、1分とかからない。

 螺旋階段以外に、下へ降りる方法。道はなくとも――。ロクトはまた、通路の手すりから身を乗り出して、下を覗いた。植木のすぐ側を、キョロキョロしながら歩く人間たちの頭頂部が見える。

 このまま螺旋階段を突破しようとしても、人間たちの物量で動きが止められてしまうだけだ。

 それなら――。


「あれだ!」


 後方から、階段を登りきった人間が、ロクトを見つけて叫んだ。ロクトは振り返らずに、ひらりと手すりの上を飛び越えて、建物の外壁に体を貼り付けるように、手すりへぶら下がった。


「待て!」


 人間たちがばたばた通路を走ってくる。

 追いつかれるよりも前に、手すりを掴んでいた手を離した。重力に従って、体は直下する。

 ロクトの体は、三階の高さから真っ直ぐに落ちたその先、高さ二メートルほどの低木の中へ、大きな音を立てて、落下した。

 低木は、大の男一人の体重と、その落下の衝撃エネルギーのクッションにはなったものの、その重みには耐え切れず、バキバキと音を立て、緑に大きな穴を開けた。


「落ちたぞ!」


 通路を走ってきていた人間たちが、階上から身を乗り出して、下にいる人間に向け、大声で叫ぶ。近くにいた人間たちが緊張の面持ちで、形を歪まされた低木へと近付いた。

 螺旋階段の登り口近くにいた人間たちも、ロクトの落ちた植木の近くへ走り寄る。そう広くない路地に、人間が詰める、詰める。アパートの前は、人間で溢れかえっていた。

 武器を構えて、植木へ。獲物が落ちたその地点をカンテラで指し、にじり寄る人間。人狼は高いところから落ちて、そして、静かになった。負傷して、動けなくなっているのかもしれない。或いは、打ちどころが悪くて、死んだか。何にせよ「追い詰めた」、その場の誰しもがそう思っただろう。

 一瞬の沈黙。人間のうちのひとりが、ごくりと喉を鳴らした。



「GwAooLLL!!」



 周りの全てが息を飲んだ瞬間、牙を剥いた真っ黒な狼は、植木を飛び出した。


「ぎゃぁ!」

「人狼だッ!!」


 いきなり現れた真っ黒な狼の姿を見た人間たちは、わっと湧き上がった。ある人間は叫び、ある人間は驚きのあまりバランスを崩して転倒した。逃げ出そうとする人間もいたし、パニックに陥る者を突き飛ばしてロクトに近寄ろうとする人間もいた。人間たちの行動は、ひとつとして指揮が取れていない。虚を突いて飛び出てきた人狼に驚くあまり咄嗟の行動を起こせない者と、それに邪魔をされて動けない者しかいない。


「殺せ!」


 大きな棍棒を振り上げた人間の男が叫ぶ。だが人間の数があまりにも多くて、振り上げた武器を振り下ろすことは出来ない。それどころか棍棒を振り上げた男は、人間の洪水にもみくちゃにされてしまった。

 路地には、人間が溢れていた。

 辺りは一瞬にして、怒声と罵声と非声が溢れる地獄と化した。

 狼の姿となったロクトは、慌てふためく人間たちの足元を無理矢理に通り抜け、狭い路地を脱した。



 路地を飛び出して表通りへ出ると、人間たちの視線がすぐにその黒い身体に刺さった。人狼を探している人間が皆、路地に集まっているわけではないらしい。日が暮れてしばらく経つが、人間たちは外にいた。そこにいる人間たちの手には、あの“ライハーク反人狼団体”のビラがあった。

 人間たちは、大きな狼を見て、大声を上げた。


「人狼だっ!」


 幾度となく聞いたセリフが、人間の一人から上がる。

 通りにいた人間たちが、ロクトを取り囲むためにわっと一斉に動き始めた。その目はどれも、金への欲と、希望に満ちた正義に染まっている。皆、己のための金を求めて、或いは己の正義を執行するために、人狼を探していた。

 ロクトは構わずに、走り出していた。


「逃がすな!」

「追え! 殺せ!」


 人間たちの雄叫びが聞こえる。背後から、人間たちが追いかけてくる。

 すごい数だった。この街の人間全てが、ロクトを殺そうとしているような、そんな数。

 追ってくるのは、後ろからだけではない。人間たちの怒号を聞きつけて、呼び寄せられたように、他の場所を探していた人間たちが、ロクトの道を塞ぐように、いたるところから現れる。

 大通りはもちろん、路地裏から、裏の通りから、建物の中からも溢れ出てきたし、数えようとしたらキリがない。

 人間たちは皆、ロクトを捕まえるためだけに武器を携え、狂喜した。一匹の人狼を追うために、大騒ぎする。皆、楽しくて仕方がないといった様子だった。


 人間たちが追いかけてくる。狼の姿のロクトの速度には、地力では到底追いつけなくても、人間の数は膨大だ。

 選ぶ道選ぶ道の先々から、その行く先を阻むように迎え出てくる、人間、人間、人間。

 もはやそれは、人間というひとつの意志だった。人狼を捕まえろ、人狼を吊るし上げろ、人狼を殺せ。現れる人々は、口々に大声を張り上げ、ロクトを咎めるような視線で刺した。

 道を切り替えて違うルートを選び、時折そのまま直進して突っ切って、次から次へとやってくる人間たちの魔手から逃れ、走り続けた。

 背後の追っ手を振り切っても、人間の姿が見えなくなるのは一瞬だ。すぐに新たな追っ手が、新たな場所から現れる。休む暇など、どこにもない。

 休めば、一瞬で捕らえられ、彼らの持つ武器で、メッタ刺しにされてしまうことだろう。

 指名手配のビラに書かれた文句に、『生死は問わない』とあった。

 捕まれば、命はない。


 逃げることだけを考えて、ロクトは無我夢中で足を駆った。








 次話ロクト編「狂気と正義と夜の街」は、明日公開です。

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