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◆潮時






 少し時間を遡って、明け方の森から出て街に戻る途中。その時からすでに、ロクトは違和感を覚えていた。


「うう……」


 きっと、異常に寒い外気に気が滅入っているせいだろう、と思った。去年よりも一足先にやってきた寒い季節を象徴するように、朝方の気温の沈みようは酷い。肘を抱えて寒さから身を守るが、効果は薄そうだ。

 刺すような風が、頬を突き抜けていく。

 違和感といえば、サイズの合わないパティナのシャツにも、壮大な違和感があった。川に飛び込んだのと、そもそも返り血を浴びていたのとで、自分の服をダメにしてしまった。

 彼女から服を借りたのはいいものの、歩いているうちにサイズが合っていないことが気になって、落ち着かなくなってきた。早く家に戻って着替えてしまおう。



 明け方だというのに、ライハークの大通りは今日も人が多い。田舎から出てきた者がこの光景を見れば、目を丸くして驚くはずだ。これが、人間の商業都市、ライハーク。溢れ返る人間の海で、人間が泳ぐ街。

 みんな足早に道を行き交い、そのほとんどは顔を伏せて歩いている。道端のいかがわしい露天の前でわざわざ足を止める者の数はおらず、ただ皆は自分の目指す場所に向かって、一直線に進んだ。無論ロクトもその街の人間のひとりである。わらわらと蠢く人間たちの様子を俯瞰に眺めながら裏通りへ抜け、人の少ない道を選びながら歩いた。


「……これからどうしよう」


 ロクトは口の中で、外へ零さないようにそっと呟いた。

 昨晩人間たちを森から追い払ったことが、随分昔のことのように思えた。

 あの時――人間たちと戦った時、自分の頭の中は、強い光を浴びたように真っ白になった。だが真っ白になった頭は、そのまま光に支配されることなく、すぐに冴え渡った。ロクトは、自身を制御したのだ。もう、フィーシオの時と同じ過ちを犯すつもりはなかった。

 戦いを終えた時、人間たちは大小様々な怪我をしていても、死に絶えた者は一人もいなかった。ロクトはあの時、何も、殺めなかった。商業街で生きてきた、多少腕が立つだけの人間を相手に、殺さずに殺されずに立ち回ることは、そう難しくなかった。


「…………」


 ロクトは裏道を行きながら、濃い灰色の瞳を自分の両手に落とした。

 あの人間たちを生かした理由は、過去と同じ過ちを繰り返さないためだけではなかった。

 パティナが、自分を狩りに来た狩人を生かして帰した時、彼女は『人間とは一緒になりたくない』と言った。

 ただ過去の自らの過ちを正すだけでなく、何かを殺さずに済む理由があるのなら。過去にたくさんの人間の命を奪っておいて、今更遅いかもしれない。だが、ロクトも彼女の考えを真似ることにしてみた。

 武器を掲げて狂喜する彼ら人間のようにはならない、という考えを。



 だが昨日は、傷を負ったパティナを助けることが第一で、人間が街へ逃げ帰ったことなど気にしていられなかったが、今になって思えば、その判断が間違っていたのではないかとも思う。

 つまり、人間たちをそのまま逃がしたことは、自分にとって不利になるのではないか、ということだ。

 あの人間たちが帰ったように、自分もまたこの街に帰ってきたのだ。昨日森の中でロクトの顔を見た人間と、今ここで鉢合わせでもすれば、それだけで正体が明らかにされてしまう。

 問題は、彼らの目の前で狼の姿に成ってしまったことだった。彼らの多くはロクトの顔を見ていたはずだし、自分の顔を忘れているように願うのは、この半日も経っていない短い時間では難しいかもしれない。



 そろそろ潮時なのかもしれない、ロクトはそう思った。

現状を維持するためにライハークに居続けても、ロクトの狼への変化を見ていた人間に出くわさないよう毎日を過ごすことは、不可能だ。

 いずれ人間だけのこの街に別れを告げる時が来ることは、自分でも覚悟していたはずだ。その時が、とうとうやって来たのかもしれない。

 覚悟していたこの街への別れの告げ方は、二通りあった。一つは、人間に正体を明かされて、人間に殺されてこの街どころか、世界に別れを告げる、ということ。もう一つは、どんな理由にせよ、この街を自分から出て行く、ということ。今、ロクトが望むのは、後者の別れだ。

 ここを去る。決めたのなら、急いだ方がいい。

 だが、街を出るためには、まずは準備を始めなければ。


 街を出る前にやらなければいけないことを考えるうち、ふとフェック少年を思い出した。

 思い返せば、彼には大きな恩がある。もし彼に、人間たちが狩りに森へ向かったということを教えてもらっていなければ、今頃彼女はどうなっていただろう? 彼女を失ったことを知れば、自分はどうなっていただろう?

 ともかく彼には、きちんと礼を伝えるべきだ、ロクトはまずそれを考えた。

 それにしてもあの少年は、ロクトの家を初めて訪ねてきた時から既に――正しくは、彼が建物の三階から真っ逆さまに落っこちた時から――ロクトの正体に気付いていたということには、驚かされた。

 ロクトが人狼であるにも関わらず、彼は人狼を憎き敵とは扱わずに、敬意すら抱いてロクトに接した。ロクトの正体を誰に明かすこともなく、一人の“人”として向き合ってくれた。


 彼の家は、ロクトの家のすぐ近く。何度も見かけているし、何なら一度、気を失った彼を運んだことだってあるのだから、場所ならよく知っている。アパートからそう遠くない位置だ、ロクトはさらに足を早めた。




「おじさん、だれ?」


 フェックの家の扉を叩くと、出てきたのは少年ではなく、小さな女の子だった。年齢は十歳にも満たないぐらいで、目元はフェック少年によく似ていた。

 女の子は戸口に立ったロクトを見ると、面倒くさそうに顔をしかめた。フェックと違って随分態度の大きな子どもだ。同じ親から産まれた兄妹のはずなのに、性格というのはこうも違うものなのか。

『おじさん』と呼ばれたショックと、なにより人間が相手とで、声が震える。

 ロクトは口元だけを弛ませて、当たり障りのない笑顔を作った。


「えーと……フェックくん……? お兄ちゃん? はどこに――」


 少年の呼び方でロクトがまごついていると、女の子は待っていられないとでも言う風に家の中に引っ込んだ。扉の向こうから「おかーさーん!」と甲高い大きな声が聞こえる。


「お母さんは呼ばなくてもいいんだけどなー……」


 所在を知りたいのはフェックだったが、そうは言っていられない。ロクトはいま一度気を引き締めた。次に出てくるのは、フェックの母親、つまり大人だ。もっと用心して話をしなければならない。



 少ししてから扉の向こうに木の床板を踏みつける足音が近付いてきた。蝶番が軋んで木製の扉が開く。


「はい? 何かしら?」


 向こうから顔を覗かせたのは、疲労感を目元に滲ませる女性だった。この人がフェックの母親か、これまで姿を見かけたことはあったが、対面するのは初めてだ。

 目もとには隈が浮かんでいて、髪は頭の後ろで一つに結えただけだ。多分、三十歳かその手前ほどの年齢のはずだが、滲み出る疲労感のせいで、かなり老けて見えた。

 フェックの母は自分よりもずっと身長の高いロクトを見上げると、口を引き絞って笑った。


「フェックをお探しですって? あなたは――あの子のお友達なのかしら」

「ああ、はい。そうです。仲良くさせて頂いています」


 年は離れているが、友人だということに嘘はない。

 仕事場の人間と話すこともないし、住んでいるアパートの管理人との会話も上っ面だけのもので、市場で買い物をする際に交わす店の主人との会話も知れている。

 久々に大人の人間とまともな会話をしているが、上手く距離感が測れない。当たり障りのない笑みを浮かべた顔の裏で、ロクトはだらだらと冷や汗をかいていた。

 フェックの母は、ロクトが内面で流す冷や汗には気付く素振りを見せず、申し訳なさそうに肩をすくめた。


「あの子は今出かけているんです。多分図書館だと思うんだけど……。わざわざ来てくれたのにごめんなさいね」


 そうですか、とロクトは頷いた。

『勉強を頑張ってみることにしたんです』、という少年の言葉を思い出した。どうやら言葉通り、熱心に打ち込んでいるらしい。

 フェックの母は愛想よく頷いた。


「そうなの。だからまた訪ねてきてもらえるかしら? あの子が帰ってきたら、伝えておきますから……あー、えっと、お名前をまだ伺ってなかったわ」


「ロクトです」、出来ればしたくなかった自己紹介をして、軽く頭を下げる。


「フェックの母のブロットです」


 彼女もロクトの真似をするように軽く頭を下げる。


「あの子、迷惑かけてないかしら?」


 いえ全く、と即座に首を横に振る。


「よく出来た、素晴らしいお子さんですよ。僕も何度も救われ――あー……」


 要らないことまで言いそうになり、ごにょごにょと口を濁した。これだから、人間との会話は危ない。

 だがフェックの母、ブロットは、ロクトの反応を見ると、安心したように息をついた。それからロクトに向き直り、真剣な眼差しで口を開く。


「もし何か、あの子がご迷惑をおかけすることがあれば、私にお伝えくださると助かります……。私もあの子を見ているつもりではいるけれど、見逃していることが、たくさんあるような気がして……」


 そう思うと心配で。ブロットは疲れた顔で、自分の無力さを嘲るみたいに、力なく微笑んだ。

ロクトは「任せてください」と、口を結んで力強く頷いた。その心配はないだろうことを理解しながらも、だったが。




 目的のフェック少年がいないので、彼の家からはすぐに去った。ロクトの去り際、少年の母は言った。


『是非また訪ねてください。あの子の友達なら、大切にしなくちゃ』


 いじめられていたことや、いじめの延長線上で高いところから突き落とされたこと、ロクトがそれを助けたこと。そして何より、ロクトが多くの人間から疎まれる人狼である、ということ。

 母親のあの様子から察するに、少年は自分の母親に何も話していないらしい。

 大方あの少年のことだ。ただでさえ苦労の多い母に、今以上の心配事を増やしたくない、と気を遣っているとかそんなところだろう。

 親からすれば、その気遣いは、きっと要らぬ気遣いなのだろう。息子を心配するブロットのことを思うと、少し複雑な気持ちになる。だがそこへ口を挟むのは余計だということは、よく理解している。

 親の助けが無くとも、子どもは上手く生きられたりするものだ。


「僕も、そうだったし」


 ふと思い出された父と母を想い、軽くため息をついてみる。

 それから、目的の人物の不在に半ば肩を落としながら、自分の家へ向かう帰路を辿る。




 それからしばらくの間、ただ黙々と道を歩いていた。


「あ……!」


 そしてその時初めて、ロクトは森を出た時から覚えていた違和感の出処を、ようやく理解した。


「しまった……っ!」


 それは、フードだ。パティナに借りたサイズ感の違うこの服には、フードが無い。

 つまりこれでは、尖った耳を隠す術がない、丸見えだ。やけに外が寒く感じられたのはこのせいだった。肝が冷える。全く気が付いていなかった。間抜け、とロクトは自分を罵った。

 フードが無いことに気付いた後は、ほとんど駆け足だった。

 何人に見られた? 街へ入る時に視線は感じたか? フェックの家族は自分の耳を見たか? 違和感のある目で見ていたか?

 フードで耳を隠していないことだけで、少し尖った耳を見られただけで、正体が人狼だと明かされるわけではない。そうは分かっていても、自分の無用心さに嫌気がさす。この街へ来てから守り続けていた習慣を忘れるとは、思ってもみなかった。

 よくよく考えれば。今までの道のりを思い出す。いつも歩くときよりも、人間と目が合うことが多かったような気がする。嫌な予感が手を伸ばし、背中から這い登ってくる。

 石畳の上を駆けた。人がいないかどうかを建物の角に立つたびに確かめながら、人気の少ない裏道をひた走る。

 この時間は市場のある通りはダメだ。そこかしこに人間がいて危ない。近くでガヤつく声が聞こえる。遠回りして隣の通りへ、両手を広げたぐらいの狭い路地を走り抜けた。

 これ以上誰かにこの耳を見せるわけにはいかない。こんなことで人狼だという疑いを受けるわけにはいかないのだ。ただでさえ、生還させた人狼の討伐隊に、顔を見られる危険がつきまとっているというのに、だ。

 早く帰って暗くなるまで待とう、フェックに会うことが出来なかったのは本当に残念だが、今晩、この街を発とう、と決意する。

 善は急げ、だ――そう思いかけた、瞬間。

 家まではあともう少しだった。気持ちがはやって、曲がり角で立ち止まることを怠った。

 そんな時に限って。


「うわっ」


 ちょうど角を曲がりかけたとき、何か、誰かと、正面からぶつかってしまった。衝撃が走る。向こうも、こちらに向かって走ってきていたようだった。曲がり角で正面衝突。相手が持っていたらしい白い紙が、辺りに吹雪のように舞い散る。

 ロクトはふらついただけだったが、相手は思い切り尻餅をついて、地面に手をついていた。「痛ってぇ」と毒づいて、俯きながら頭を振るったのは、子どもだった。

 ロクトは慌てて、尻餅を付いた少年に手を差し伸べた。


「すまない、大丈夫?」


 ようやく顔を上げた少年を見て、ロクトは顔を固めた。

 見覚えのある顔、少し前に見た。覚える必要のない相手の顔は忘れられても、他の何かと結びついた顔は、嫌でも忘れられない。


「……!」


 相手もロクトの顔を見て、ロクトが誰かを思い出したようだった。

 ロクトが不可抗力ながら突き飛ばしてしまった少年は、フェックをいじめていたグループのリーダーの少年だった。あの、不遜で態度の悪い、悪童だ。フェックが何度か彼の名前を出していたが、名前までは覚えていない。

 少年は分かりやすく鼻に皺を寄せ、差し出されたロクトの手を無視して、散らばった紙を拾い始めた。

 この子どもが、人を殺しかけても反省しない、最底な人間であることに変わりはない。だが相手はまだ年端もいかない子どもであり、ましてや今回はロクトの不注意で、彼を突き飛ばしてしまった。

 腰を屈め、足元に落ちていた紙を手に取った。詫びのつもりで、紙を拾うのを手伝おうとしたのだ。その時にふと、その紙面が目に入った。


《 この男、人狼。注意されたし。

 人間による人間のための街、ライハークに潜伏の危険性有り。

 見かけた方は“ライハーク反人狼団体”にご一報を。生け捕り・死骸、どちらでも提供いただければ賞金出ます。金貨三百枚! 》


 白黒の紙の上で大袈裟なフォントの文字が誇張気味に踊っており、紙面の真ん中には似顔絵のスケッチがでかでかと載っている。

 スケッチ。似顔絵。

 黒く塗られたくせっ毛のある髪、気弱そうな目つき。そして少し尖った耳――。

 その顔は、間違いなくロクトの顔そのもの。だが似顔絵に描かれたロクトの口は醜く歪み、不機嫌そうだ。口の端からは鋭い犬歯が覗いている。

 心臓の鼓動が、ありえないぐらい早くなるのを感じた。ロクトはその紙を見ながら、固まっていた。

 ふと、視線を感じた。固まっているロクトを、少年が見ていた。少年は、紙面に載った似顔絵とロクトを見比べ、顔色を変えた。


 同じだと、気付いた。気付いてしまったようだった。


「ひっ……」


 少年が集めていた紙を手から離し、後退りする。せっかく集めた白い紙が、再度ひらひらと辺りに散らばる。すべての紙に、ロクトの似顔絵のスケッチが揃っている。地面に落ちた紙の中の人狼たちは、怒りを抱いた瞳で空を睨んでいる。

 少年が足を引っ掛けて倒れた。逃げようという意思だけが先行して、足がもつれている。



「人狼だッッ!!」



 少年はなんとか立ち上がって、ふらふらになりながら駆け出した。その体躯からはとても考えられないほど大きな声を出して、少年は立ち尽くすロクトから、全力で逃げていった。足も驚く程速かった。




「大変だ」


 ロクトは、紙から顔を上げて、声を震わせた。

 少年の声は遠ざかりながら、口々に身に起きた恐怖を喚いている。


「誰か助けて!」


 遠くからでもよく聞こえる声だった。

 子どもが助けを求める声、という異変を聞き取った人が、近くの家から顔を出し始める。

ロクトは、我に返って即座に走り出した。

 頭が、混乱していた。


 大変だ、たいへんだ、たいへんだ――ロクトは、何度も口の中で呟いた。





 ピンチだ。

 次話パティナ編「森の外へ」は、続けて公開中。短いでです。

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