◇痕跡
ロクトが去った後、パティナは傷の療養に努めることにした。つまり、何もせずじっとしていることを選んだ。
半日間、ほとんどベッドの上に寝転んで、動かないまま、何度かうたた寝を繰り返していると、痛んでいた全身の傷の疼きは、次第に沈静化していった。
ロクトが施した処置と、リサキがくれた傷薬の効力も良く、傷の治りは随分早かった。併せて、此度のことが、一人ではどうにもならなかったことを痛感する。
あれだけの傷を受けたのに、この短時間で回復出来たのは、人狼の自然治癒力の高さ故だ。もし傷を受けたのが人狼でない普通の人間だったのなら、治癒には気の遠くなるような時間がかかっていたに違いない。
思っているよりもずっと早く、歩けるようになった。自然にしていれば傷が痛覚を訴えることは、ほとんどなくなっていた。もちろん、傷口のあたりを無理に動かすと痛いが、寝て起きて歩く程度なら、何の問題もない。
だからパティナは、気分転換に外へ出てみることにした。
ほとんど一日中、洞穴の中で寝たり起きたりして過ごしたせいで、体感していた時間と、実際の時間とにはズレがあった。外は、夕暮れ時。西の空の色が、気持ち悪いぐらい鮮やかな紫色に染まっていて、思わず目を細めて眺めてしまう。ホロホロと梟が鳴いているのが聞こえた。これからまた、夜がやってくる。起き上がったばかりなのに、もう夜がやって来るのが妙に思えた。
自身を襲った人間たち、迫り来る多数の矢、満ちるぎらぎらした狂気――ずっと過去のことのように思える昨日の恐ろしい出来事から、まだ一日と経っていない。死にかけたことを忘れでもしたように、呑気に夕暮れの空を眺めている自分に、パティナは我のことながら呆れた。
ほんの一秒でも長く、この世界に留まろうと足掻く夕日から目を逸らし、傷に響かないように、足を引きずって、ゆっくりと歩き出した。
どうしても外へ出て確かめたいことがあった。
ロクトは人間たちから身を挺してパティナを救った。それは事実だ。だがその際のパティナの意識は失われていて、彼が自分を救いに来たときの状況を知らない。
気付いたら洞穴のベッドの上で、いつもとは逆さに頭を向けていた。体中は軋み、太い針が刺されたみたいに痛んだ。きっとそれまで死んだように深い眠りに落ちていたんだろう。
パティナが目を覚ましたその時、ロクトは真っ赤に染まっていた。頭の先から足の指先まで、彼は赤に塗れて眠っていた。彼についた赤は、彼の流した赤ではなかった。彼は傷一つ負っていなかったのだ。
傷を負わず、赤に塗れたということは、彼の顔や髪、服や手足についた赤は、全て他の誰かから浴びたもの。
落ちかける日の下で、パティナは恐る恐る、歩を進めていた。自分が襲撃を受けたあの場所まで、進んでいた。昨日パティナが気絶して目覚めた頃から、一切森の中に敵意や悪意は残っていない。人間はもう、この森の中にいない。
でも、自分もロクトも無事でいる以上、あそこには、何かが残っているはずだ。見たくないような何かが、見なければならない何かが、あの場所に。
パティナにはそれを見る権利と義務があった。
「あれ……」
しかし、抱いていた覚悟に反し、襲撃を受けたあの場所には、惨劇の痕跡はほとんどと言っていいほど存在していなかった。
その場に残存していたのは“血の跡”だ。目を細めながら自分の倒れていたはずの近くを調べると、こまごまとした赤い痕が見えた。焦げ茶色の土にばら蒔かれるように、ぽつぽつと赤の飛沫が撒き散らされている。
残っていたのはその飛沫だけで、本当に覚悟していた一番のものは見当たらなかった。
撒き散った多数の赤痕は、驚くほど様々な場所――太い木の幹の水分を失ったざらつく表面や、何日も前に枯れた花、一部が苔むした抱えられるぐらいの大きさの岩など――に飛び散っているものの、どれもこれも“ぽたぽた落ちた”というだけで、池のように貯まっているものはない。
さらに力を入れて辺りを歩き回ってみると、その赤い飛沫は点々と痕を残しながら、一様に同じ方向へ向かっているのが分かった。顔を上げて見ると、その方向には刃物で切り拓かれた草木の跡がある。そちらは人間たちが侵入してきた方向、ライハークへ戻る方向だ。
寄りかかるように、パティナは木に手をかけた。
「死体が……ない?」
あると思っていたのは、人間たちの死骸。ロクトが浴びた赤色の分、ここが惨状に見舞われている覚悟を決めていたのに、実際は死骸などどこにも残っていない。
肉の腐る匂い、ウジが湧き、ハエが飛び交う。真っ赤な池が広がって、辺りは血に浸され、圧し掛かる鉄の苦しい匂いが鼻をつく。動かない身体がいくつも重なり合うように転がっていて、足の踏み場はない。生気を失ったガラス玉は虚ろに空を映し、力を失った四肢はあらぬ方向へ行ったり来たり。そんな情景が広がっていることを、パティナは覚悟していた。
自分の故郷が人間たちに襲撃された時の情景を。家族を探しに集落に戻った時に広がっていた情景を。おぞましい匂いと視界と、転がった死体。どこを歩いても、ピチャピチャと音がして。
でも、ここには同じものはない。鉄の――武器の――匂いはするが、あからさまな肉の匂いはない。
死体が、転がっていない。切断された体の一部が無造作に落ちていることもない。
「殺していない、のか?」
昨日、怖くて出来なかった、唯一の問いかけ。
人間を殺したのか。私を守るために、人間を殺したのか。
聞くまでもないと思っていた。どうやったって、殺さずにはいられない状況だったはずだ。夥しい数の人間に囲まれながら、パティナを守り、そして全てを退けなければならない。
血まみれのロクトを見たとき、だからぞっとした。彼が自分のために人間の命を奪ったのかもしれないと思うと、胸が締め付けられた、苦しかった。例え自分を守るためであっても、人間を皆殺しにしたのではないかと、思わずにはいられなかった。
だが、全て杞憂だった。人間を殺していたのなら、この場所はもっと赤く赤く染まり上がっている。血と肉の匂いで醜く充満していて、噎せ返るほど重たい空気に包まれているはずだ。
森の様子を見れば分かる。彼は一人として人間を殺していない。自分に憎しみを注ぐ人間たちを、武器を持ち怒り狂う人間たちを、殺していない。パティナは確信した。
彼は、パティナの殺さずの意志を尊重し、なおかつパティナを救ってみせた。
「…………」
それ以上の思考は必要なかった。
人間たちが帰った方向に少し進むと、人間の武器がいくつか落ちていた。大きな剣や槍など、きっと逃げる時に邪魔になったのだろ。
帰ろうと足先を洞穴に戻し向けたその時のこと。
押しのけるような、固い一陣の風が、パティナの頬を掠めて吹き抜けた。
風が肌を突き抜け、ぞわっと全身が総毛立つ。
「何だ……?」
立ち止まり、自分の胸に手を触れてみる。
胸の中に、正体不明のもやもやが渦巻いていた。
突如現れたもやもやは、パティナの胸中を支配し、ぐるぐると広がり始めていた。何故か、気分が落ち着かなくなってくる。
蔓延る不安感に眉をひそめる。
パティナは恐る恐る、風の吹き抜けた方向――街のある方向を見やった。血の斑点が向かっていく街の方角。ざわざわ、胸の中で嫌なものたちが囁き合う。これは、不吉の前兆なのか?
沸き立つ不安を抑え、ひとまず、洞穴に戻った。
迷っている、暇があるのだろうか。
「いや……」
この胸に渦巻く不安は、いつか必ず形を成して、悲惨な結末を迎えることを予感させた。
これが不吉兆なのならば、迷う暇はない。
パティナは紙とペンを手に取った。そして一切の迷いなくペンを走らせ、紙の上に流れるようなインクの文字を落とす。
「よし」
書き連ねられた文章を見たパティナは、口を結んで頷いた。
「これでいい」
洞穴の入口に書き上げたばかりの紙を置く。吹き込んだ風で、何かの拍子に飛ばされないように、石を錘にした。
パティナは洞穴の外へ出て、いよいよ暮れる夕日を眺め、意を決した。
神業ロクトさん。
次話ロクト編「潮時」は、明日公開です。明日も二話連続です。




