◆聞いてもらうこと
「それだけ」
パティナは、疲れたように息をついて、そして口の端を歪めて笑った。
「最悪だろ?」
ロクトは黙っていた。
想像を絶する過去。彼女の背負った罪。燃え上がる故郷。裏切ったのは、黒い人狼と、そして自分自身。
彼女は、過去に罪を犯した。罪の中身は、酷く辛く、そして悲しい。信頼したばかりに裏切られ、無知であるが故に陥れられ、そして全てを失った。無実なはずが、考えれば考えるほど、罪の比重は高くなる。彼女が背負う罪の量は増え、重くなる。
その罪は、今も彼女の両肩に、重くのしかかっているはずだ。
だがこれで、理由が分かった。ロクトと彼女が出会ったばかりの頃、パティナがロクトに対し、異常なまでに強い嫌悪感を示していた理由。それから、彼女が病から目を覚まし、その際ロクトに見せた、怯える瞳の理由も、だ。
グレヴェは、彼女の憧れだった。その憧れの対象は、人間と手を組んでいた。彼女はそれを知らず、自分の知っていることすべてを、グレヴェに話した。結果、グレヴェと人間は、彼女の故郷を滅ぼした。彼らは彼女の家族を殺し、友人を殺し、故郷を焼いた。
人狼と人間。その二つが密接しているというだけで、彼女は酷く不安で不快になる。
あの酷い熱と悪夢のなかで、彼女は彼のことを思い出していたのかもしれない。そして、彼女は、ロクトとグレヴェを重ねてしまった。それが、あの時の彼女の反応の理由なのだろう。
「私は、酷い人狼。私が決まりさえ守っていれば、私はあの人狼と出会うことはなかった。
きっと、みんなあそこで、暮らせていた。外に自由に出ることが難しくても、みんな、生きられていたんだ。でも私が決まりを破ったから、みんな、死んだんだ……」
話が進むにつれ、二人の食事の速度は徐々に落ち、話し終えた今は既に、食事には手をつけてすらいない。
目を見ながら話をしていたのは初めだけで、食事の速度が落ち、話が深くなるにつれ、パティナはロクトと目を合わせようとはしなくなった。今は反応を恐れるように、目を伏せたままだ。
「こんな話でも、あんたに話しておこうと思ってさ……」
聞いてくれてありがとう。
彼女がお礼を言う間も、彼女と目が合うことはなかった。彼女が「ありがとう」と思っているかは定かでない。感謝の気持ちよりも、過去を曝け出す事の方が、苦痛だったに違いなかった。
彼女は、自分の反応を待っている。沈黙を恐れて、ロクトは質問をしてみることにした。
「そのあと、集落には戻った?」
「ああ」
人間がいなくなったのを見計らい、ほとぼりが冷めた頃に一度だけ、集落へ戻ったことがある、そう言ってパティナは、ぐったりと項垂れた。
「全部焼け落ちていた。建物は全部真っ黒の炭だ。形を残したものが何一つ無いぐらい、集落は全壊だった。もちろん私の家も、その限りじゃない。でも建物と違って、死体はみんなそこに残ったままだった。
母も、父も、弟も、皆私があの場所から見たのと同じ場所で、同じように転がっていた」
平たい抑揚のない声が、洞穴の中に放たれる。
放置された死体の放つ異臭でいっぱいになった、集落の様子が思い浮かぶ。ぞっとした。腐った匂いに寄る虫が、小うるさく飛び回る音が、聞こえた気がした。
虫の羽音を頭から振り払い、パティナの話に出なかったことで、気になっていたことがあったので聞いてみる。
「君の妹は? さっきの話でも、その……見て、ないんだよね?」
もしかすると、という希望。彼女の妹は、一度も話に出ていないはずだ。
だが、そんな希望は、彼女が真っ先に抱いているに決まっていた。
「妹だけは私も……死ぬ瞬間を見ていなかったからな。でも、ダメだったよ。残っていたのは、焼死体で、顔も体も誰かわからないぐらい……むちゃくちゃで。あの子が、一番、酷かった」
「そうか……ごめん……」
「……いや、説明しなかった私が悪い」
パティナは、ロクトの言ったことなど、まるで気にしないように、「すっかり忘れてた」と机の上で冷える食事に手をつけた。
残っていた鶏肉を手掴みで口に運び、牙のように少し尖った犬歯で豪快に喰い千切って、美味しそうに頬張る。
今までの話など、まるで何もしなかったかのように振る舞う彼女を見て、ロクトは下唇を噛み締めた。嫌な思い出も一緒くたに喰らい尽くすかのように肉にかぶりつく彼女の姿は、少し痛々しくて、悲しいものに見えた。
彼女の姿は悲しい。しかし見方さえ変えれば、安心も出来るのだろう。
彼女は、もう自分の罪を受け入れ、精算を済ませている。負った罪の背負い方も、罰の受け方も、彼女はすべて理解し、享受している。そう思えば、この様子も「逃避」とは違うのかもしれない。
彼女の語った過去を知らなければ、彼女のことには気付けない。彼女を見て、ようやくそれを知れた気がした。
「……」
ロクトも素手で鶏肉を掴んだ。
かけるべき言葉はなかった。ロクトの言葉なしでも、彼女はもう充分に全てを理解し、しっかりと受け止めている。
彼女が求めたのは、「聞いてもらうこと」だ。彼女は、答えを求めてなどいない。言葉が要らない、それならば、黙って近くにいよう、とロクトは思った。
「美味しいよ」
漏らすように言ったパティナの声はすごく素直で、ロクトは思わず、頬を緩めて笑ってしまった。
トマトソースでコーティングされたどろどろの両手を拭って、机の上から料理が消えた。
話を終えてから、食べ終えるのに、もう時間はかからなかった。
食事も終わったところで、パティナがふいに、ロクトを見ながら口を開いた。
「……人間の街で暮らしてて、嫌になることはないのか?」
彼女から質問が飛んできて驚いた。ロクトは一瞬考えて、答えを選んだ。
「数え切れないほどあるね」
「例えば」
「そうだな。最初の頃は、特に匂いが大変だったかな。人間たちの生活の匂いが複雑に混じり合った、あの街の空気に慣れるのには、本当に苦労したよ」
「今はもう慣れているのか?」
「多分、慣れてるんじゃないかなぁ」
ずっと、誰かとこんな会話がしたかった。会話を交わしながら、ロクトは心が弾むのを感じていた。
人間の街で人間として暮らす以上、人狼の目線で味わった苦労を、誰かに伝えることは不可能だ。
しかしこうして人狼の友人がいるのならば、話は変わってくる。人目を気にせず、自分の話が出来ること。今まで有り得なかったことに、喜びを感じずにはいられない。
「この前の満月は、この森まで逃げ込んできたんだろ? じゃあそれまで満月の晩は、どう過ごしていたんだ?」
「家の中で毛布にくるまってずっとじっとしていたよ」
肩を竦めて答えると、信じられないといった様子で彼女は顔をしかめた。
「それがどうして森へ入ってきた? いつものように家でじっとしていたらよかったじゃないか」
「壁の塗装だか補修だかをするとかで、家の中にいるのは危なかったんだ。じゃあ、街を出て安全そうな場所を探そうって思って。いいところに森があるから、そこにしようって思って、この森に来た」
「……で、私と出会ったわけか」
彼女が呆れた風に言った。
「……そうだね。君と出会った」
ロクトは苦々しい表情でいた。
出逢って初めて、互いにひどい目に遭った。あの時の二人に、今こうして向かい合い、二人で話をしていると言っても、絶対に信じないだろう。ロクトは頬をかいた。
パティナは頭の上で手を組んで、それを上に引くようにして体を伸ばした。
「私じゃ真似出来ないな。人間の街に暮らすなんて」
机の上には、近くの川から汲まれた水が、コップの中でなみなみと揺れている。口につけると冷たくて、目が覚めるようだ。水を飲むと、舌の上でこの森の味がした。
パティナも同じようにコップを手に取り、水を飲んだ。深緑の目線がコップの中に落ちる。
「私は人間が怖いよ。だから余計に、人間の街で暮らせるあんたが……すごいと思う」
人間だらけの中に紛れるなんて私には絶対無理だ、と彼女は言った。
「私はライハークに近付くことすら怖くて出来ないからな」
確かに彼女はずっとこの森にいて、森から出るところは見たことがない。
当然、森の外へ出れば、この森へ侵入する数よりも遥かに多くの数の人間がいる。人間は、彼女の思い出や大切なもの全てを奪い去った、そんな生き物がいる世界へ飛び込みたいなど、彼女は思わない。
「あんたは、怖くないのか?」
人間の街にいて人間が怖くはないのか。彼女が聞きたいのは、つまりそういうことだろう。
「怖いよ」
だからロクトは迷いなく、はっきりと答えた。
人間が恐ろしい生き物なのは、どこからでも見える。人間なる生き物の生態――人狼に対する彼らの多くが持つ、否定的な考えだけではなく――を実際に見れば、人間がいかに恐ろしいかが良くわかる。
圧倒的な数で、新しいものを生み出す、技術力や発明力といった、彼ら人間の持つ力という恐ろしさ。フェックのような、弱い者が溺れていく現状に、ほとんどの者が気付かない、視野の狭さという恐ろしさ。見えていないだけで、人間にはもっと恐ろしい面はあるのだろう。
「だから君が、怖い人間の街の近くに住んでいることも、怖いと思うよ、僕は」
パティナはそれを聞くと、さもおかしそうに答えた。
「人間の街に住んでいる奴が、言うセリフじゃないね」
もっともな返答に、ロクトは笑ってごまかした。
水を飲んだ。冷たい液体が喉の奥へ入り、体の中のいたるところに冷気を伝えながら、食道を降り、そして腹部へ到達する。その頃には、冷気が体の内側のあらゆるところを冷やしていて、頭がすぅっと冴えてくる。
「あの釣り針、使ってる?」
思いついたのは、釣りの話。
“人間”とか“怖い”とか、暗い話を続けたいわけじゃない。二人に共通する好きなことの話をしよう。
釣竿を探し、洞穴の中をきょろきょろと辺りを見回す。前は地面に直接投げ出されていたが、釣竿らしきものは見当たらない。
「ああ」
パティナは洞穴の外の方向を見た。
「使ってるよ。針を変えてから、魚がよく釣れるようになった……気がする」
「やっぱり? あの釣り針はね――」
ロクトは身を乗り出した。パティナは困った顔をしながら、ロクトの話に頷いている。
今までの壁を打ち壊すように、時間の遅れを取り戻すように。
本来なるべきだった“友人”へ、二人は変わろうとしていた。
「感謝してる」
帰り際。たくさんの話をしたせいで、疲れた顔になっていた。ゆっくり立ち上がったロクトに、パティナは座ったまま、彼の顔を見上げて、そう言った。
「……どうしたの、急に」
ロクトは笑いながら、パティナの顔を見下ろす。深緑の瞳と目が合った。瞳に映った色は、戸惑いと後悔。パティナはすぐに目を逸らし、そして薄い下唇を上唇でくるむようにして、唇の色が白むぐらい強く食んだ。
「それに、すまなかった」
今まで自分勝手に、あんたに辛く当たっていた。彼女はそう言って頭を下げた。
ロクトは、ゆっくりと首を振った。
「僕は、君がそんな苦しみを背負っていることに気付かずに、君の心に土足で入りこむような真似をしてしまった。僕が、悪いことをしたんだ。君は、謝らなくてもいい」
そんな過去があったのなら、よく理解出来るから。
それと、それから……。
謝罪よりも強い気持ちは、単純でありながら、複雑な感情。思うことが出来ても、口に出すのが難しい言葉はいくつもある。だがその中でも、それは最も難しい言葉だと言えるだろう。
ロクトは顔を上げ、上目に自分を見つめるパティナに笑いかけた。
「ありがとう」
いつの間にか、日が沈んでから時間が経っていた。外は真っ暗闇。底の見えない奈落が、滲むみたいに世界へ広がって出来上がったような夜の暗闇は、重たく、ひどく不気味だ。
その暗く鬱屈とした外の世界の様相とは裏腹に、ロクトの心には雲一つなかった、青空のように、澄み切っていた。
洞穴の入口に立った。ふぅと息をついて振り返り、額にかかった千歳緑の髪を鬱陶しそうにいじるパティナを見た。
外は随分寒くなっていて、息を吐き出すと、真っ白な塊が冷たい空気に同化していく。白い吐息が暗闇に溶けるのを見てから、ロクトはそっと尋ねた。
「……また来てもいいかな」
「……いつでも」
彼女の声は、生気に満ちた柔らかい声で。
彼女の目には、以前のような暗く苦しい感情は、もう映ってなどいなかった。
重苦しいお話は(多分)これでおしまい!次回からは平和。
そんな平和な次話、パティナ編「物々交換」は明日公開です。




