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◇私の過去・後





 さて。

 私はそれまでの間、ずっと“人間”を見たことがなかった。

 人間については、そうだな。子どもの頃から、人間という生き物が、危険な生き物だってことだけはよく教えられていたんだ。実物を見たことは無かったけど、聞かされる話に出てくる悪い人間に、小さい頃の私はひどく怖がっていたな。

 で、時間が経って少しだけ大人びると、考えが変わってくる。“人間”というのは、両親や集落の大人が、子どもを躾けるために生み出した、空想上の生き物なんじゃないか、とその頃の私は疑っていた。それぐらい、見も聞きも一切しなかったからな。

 そんな私が人間を初めて見たのは、あの日――。



「明日、日が落ちる前に、ここに来てくれないか?」


 陽の沈む方角に佇む山の一角。西の山の急な斜面の途中に、平たいちょっとした広場のような空間があって、そこからなら崖の下の集落を、遠目に一望することが出来た。

 グレヴェの頼みを、私は快諾した。何も疑いもせず、考えもせず、ただ彼がそう頼んだから、私は「いいよ」と答えた。……あの時の、彼の瞳に映っていたものは、なんだったんだろう。今でも私は、そのことを考える時がある。

 愚かで無知な私は、彼の言葉の奥でゆらめく、変雑な真意には気付けない。それどころか私は、彼が駆け落ちを申し出てくるんじゃないか、と見当違いな妄想さえ抱いてしまっていた。



 次の日。日が落ちる前に、グレヴェのもとへ急ごうと家を出ようとした時。


「パティ、どこに行くの?」


 家の扉を開いた私の背に声をかけ、母が私を引き止めた。背中にかかった声は落ち着いていたけど、振り返って見た母の目は、今まで見た中で、最も悲しい光を帯びていた。


「……どこって……木の実を、拾いに」


 私は、また嘘をついた。顔には、出さなかった。頼むから邪魔をしないでくれ、としか思っていなかった。

 母は私を見ると、苦々しげに笑って、一度、二度と頷いた。


「……気を付けてね」


 母は、きっと私が“良い子”であることを、最後まで信じたかったんだろうと思う。昔と同じように、聞き分けのいい子どもだと。活発に外を走り回って、体中泥だらけになりながら帰ってきて、満面の笑みで笑う娘だと。


「……うん」


 返事をした。

 心は、痛んだ。でも、嘘をつくことも、どうってことなくなっていた。「行ってきます」と告げて、私は小走りに家を出た。少し走ってから、ふいに振り返ると、母が私に向かって手を振っていた。……私も、小さく手を振り返した。罪悪感を振り払うみたいに、手を振った。



 集落を出て、森へ出て山を上り、昨日と同じ場所へ行った。走りながら、母を騙したことに罪の意識を覚えていた。でもグレヴェに会えばきっと、嫌なことは忘れられる、そう思っていた。

 約束の場所に来たら、グレヴェは既にそこで私を待っていた。私が到着したことに気付き、ゆっくりと振り返ったグレヴェの目は真っ赤だった。泣いていたんだろうか、そんな顔を見るのは初めてだったので心配になる。でも彼は、妙に落ち着き払っていた。


「どうしたの?」


 私が駆け寄ると、彼は力なく笑ってから、私の肩を掴み、私の目を見て言った。


「パティナ、一緒に逃げよう」

「逃げるって……」


 何を言っているの、と怪訝そうに聞き返す。だが私の胸は、はちきれんばかりに鼓動を早めていた。

 まだこの時の私は、彼のことを「息苦しい閉鎖空間から連れ出してくれる運命のヒト」だと思っていたから。彼と逃げ出せば、罪の意識なんて、どこかへ飛んでいってしまって、しまいにはどうでもよくなるだろう、そう思ってた。家族や友人、故郷も何もかも全部捨てて、誰も知らない遠いところまで逃げてしまっても、それも構わないと思ってた。

 この後、どんなロマンチックなお話が私を導いてくれるのか、期待していた。



 その間私は、集落のある方へ背を向けていた。森を走って、山を登り、彼と約束したその場所に辿り着くまでの間、ずっとだ。

 彼が、私の背中の方角を見ながら、呆然と、口を開けた。

その時初めて、私はようやく、異変に気付いた。

 最初は彼が、何を見ているか分からなくて。私はその視線を追うように、ゆっくりと、振り返った。


「え……」


 視界に入ったのは、遠く崖の下に見える集落。私の故郷。私が育った場所。

 でも、私は、戸惑っていた。

 私の住んでいる集落は、燃え盛っていた。

 藁葺きの屋根には煌々と輝く赤い火が飛び散って、人狼が辺りを走り回っているのが、よく見える。火事だ、と思った。すごく冷静に、そう思った。燃えてる、家が、燃え盛っている。

 私は驚きながら、言葉を発せずに口をパクパクさせていた。



 でも、それだけじゃ終わらない。



 呆然と、遠くに燃え盛る集落を眺めていると、燃える建物の下を走り回っているのは、人狼だけでないことに気付いた。

 いや、それどころか、いたるところから、崖の下の集落に向かって、外套を羽織った黒い人影がぞろぞろと集っていくのが見えたんだ。その人影は皆、各々その手に、物を持っていた。

 私が“人間”を見たのは、その時が初めてだった……。それが、人間だとは思えなかった。この世のものには、見えなかった。



 集落に住む人狼の数を、遥かに超える大勢の人間たちは、集落全体を取り囲むようにしながら、人狼に襲いかかっていた。ひとり残らず片っ端から、襲いかかり始めた。

 巨大なナイフを振り下ろし、槍で突き、斧で切り裂いた。男も女も、子どもも、年寄りも、何もかも関係なく、全てが彼らの凶刃に、倒れていく。

 人狼たちは、自分たちの住処が燃えていることと、そして突然人間が襲いかかってきたことの両方に、全く対応出来ていなかった。牙を剥いて反撃しようとしても、数の力に取り囲まれてあっという間に沈黙させられる。

 ひとり、槍で貫かれた。またひとり、体を切られた。

 みるみるうちに人狼が、人狼が、人狼が……。

 次々に命を奪われていくのは、不特定多数の私の見知らぬひとじゃない。みんな、私の知り合いだった。私が暮らしてきた故郷に生きた、家族同然の存在だった。

 遠くであっても、誰が殺されているのかの判別はついた。隣の家のリック、料理の上手いラリおばさん、まとめ役のカリオス。まだ五歳のジャーニーも、冗談が好きなパスカルさんも。みんな、私の見ているところで、無惨に……!



 ……残酷だろう? でもまだ、話は終わらない。こんなところでは終わらない……。



 ……夢でも、見ているようだった。とてもあれが、現実に起こっているものとは、到底思えなかった。絵本やお話の中の出来ごとなんじゃないかって、それならどれだけ嫌なお話だろう、で済んだのに。

 今でも、思い出すよ。酷い、光景だった。

 地獄を見たんだ。

 私は口を開けて、その様子を眺めていた。理解が追いつかなかった。壮大な夢だな、なんて思ったりした。夢にしては残酷だったし、夢にしてはやけにリアルだった。



「それ以上見ていちゃいけない」


 グレヴェは私の視界を塞ぐように私の前に立つと、私を見ながら言った。


「一緒に、逃げよう」


 でも、私の耳には、そんな言葉、届かない。

 私は前に立ったグレヴェを、押しのけた。

 再び、混乱に陥る地獄が、集落が、目に映る。

 子どもが、立っているのが見えた。……状況を理解出来ず、立ち竦む少年がいた。……私の弟だった。それに……ナイフが、振り下ろされる光景が、見えた。ようやく自分の危機を察して、逃げようとする弟が、薪でも叩き割るように後ろから、頭にかけて……。見てしまった……。

 氷のように体が固まる。凍りついていた。

 十数秒後には、父が殺された。父は狼になり、人間たちと戦っていたようだった。だが複数の人間に囲まれたかと思うと、一気に槍で串刺しにされた。

 視界が、一点に絞られていく。集落へ、集落へ、集落へ。私の立っていた遠くからでは見えないだけで、近付けばもっと、凄まじいことになっているんだろう。

 もっと、火と燃える音がして。もっと、人が苦しむ声がして。怒声が響いた。それよりも何よりも、泣いて、叫ぶ、人々の声。泣き叫び、怒りに狂い、痛みに悶えているんだ。みんな、みんな。


「あああ……」


 足が竦む。夢にしては酷い内容だなぁ、と思った。私を慕ってくれていた弟が、脳を叩き割られて、死んだ。私を心配してくれていた父が、体中に穴を開けられて、死んだ。

 なんとか、走り出そうと、固まる足を動かそうと、した。あそこに行かなければならないと思った。助けに行かないと。そんな時に、腕を掴まれた。腕の肉に食い込むほど強い力に驚いた。

 私は茫然としていて、誰に腕を掴まれたのかも、一瞬理解が遅れた。


「今から行ってどうする!」


 グレヴェの手は、頑として私を離そうとしない。まるで手錠でもかけられたように固定されて、私の力じゃとても振り解けそうになかった。


「離して!」


 逃れようと暴れる私を、引き寄せて押さえつけようとしながら、彼は叫んだ。


「助かっただけ、ありがたいと思え!」


 その言葉を聞いて、私は、抵抗を止めた。


『助かっただけ、ありがたいと思え』?


 彼の放す言葉の意味が。彼の口から放たれた言葉の意味が、さっぱり理解出来なかった。その言い口では、まるで彼が、グレヴェが……。私が信じたくない風に、勘違いしてしまうではないか。

 思考が追いつかない、彼の顔を見ながら、自分がどんな顔をしていたのかも、思い出せない。でも、きっと馬鹿で、間抜けな顔をしていたと思う。

 グレヴェは、大人しくなった私の肩を、さらに強い力で掴んだ。


「俺が君を救ったんだ。君がここに来るようにした。あの人間たちから、俺が君を救ってやったんだぞ?」


 私の肩に、彼の指が食い込んでいた。彼は涙を浮かべていた。



「アイシテルンダ」



 そして彼は、そう言った。その言葉は、それまでずっと私が求めていたはずの言葉だった。なのに、私の願いを叶えた彼の顔はすごく、すごく、情けない顔だった。



 そしてようやく私は理解した。

 彼は、人間が集落を襲撃することを知っていたのだ。だから昨日、その場所で落ち合うことにして、私を誘導することが出来た。私を“アイシテル”から、助けた。

怒りが湧き上がる。そんな戯言を聞いている暇はない。

 これは、夢じゃないのだと、気が付き始めていた。罰当たりな私に、少し意地悪な神様が見せていた、胸糞の悪い“夢”なんかじゃない、と。

 夢から覚めるには遅すぎた。けれど、覚まさなければならなかった。


「離せ!」


 がむしゃらに彼の手を振り払った。出会ったばかりの頃の、余裕に満ちていた彼の顔は、いまや酷い有様だった。黒い髪は乱れていて、息遣いは荒く、目は真っ赤に血走っている。



 集落へ、行かないと。みんなを、救わないと。

 私は集落の方角を見た。火の手はますます勢いを増し、黒煙は崖の下から、日の落ちかける空へと立ち上っている。今もなお、人間たちが様々な方向から現れ、集落へ向かう。集落の手前の森から崖を登る者、崖の上からロープを伝って下りる者……。

 その間にも、人間の手によって、次々と仲間が、家族同然の仲間が、命を奪われていく。

今から行って、間に合うだろうか? この山の斜面を滑り降り、そしてあの集落の場所まで駆け上るのに、どれぐらいの時間が掛かるだろう?

 そこに行き着くまでに、人間に出会うかもしれない。そうなれば、私は戦わなければならない。あんな怪物と戦えるのか? 私は疑問だった。でも、行かなければならないんだ。


「もう無理だ」


 聞こえてきた声、振り返る。グレヴェが突っ立ちながら、笑っていた。


「もう間に合わない」

「うるさい!」


 私は怒鳴って、狼の姿に成った。

 今からでもまだ間に合う。まだ、皆を救えるはずだ。

 ……あの時のおめでたい私でも、みんなを救うのには、もうとても間に合わないことなんて、分かっていたさ。でも起きている惨事を、全て受け入れることは出来ていなかった。夢からは覚めていた。でも、これが全部、悪い夢であってくれ、とは切に祈ってた。



 グレヴェを置いて、走り出そうと足を踏み出した。しかし、その足は、物音により止められる。


「!」


 私が足を向けた先から、何者かが現れた。それらは、一見私たち人狼の、人の姿となんら変わらない姿の生物。

 だが、その瞳の奥から溢れ出る、狂気と怒りを見つければ、彼らが、噂に聞く本物の人間なのだと気付くのは、難しくない。

 数は三人。人間たちは、狼の姿の私を見、そして私の後ろにいたグレヴェにも気付いた。

 先頭を歩いていた、フード付きの外套を羽織った鉤鼻の男が、口を開く。額が丸出しで、頭頂部は禿げ上がり、目は飛び出そうなぐらいぎょろっとしている。禿頭の鉤鼻男は、両刃の剣を腰に提げていた。


「こんなところにいたのか、グレヴェ」


 私の側を通り過ぎ、男は親しげにグレヴェへ近付いた。グレヴェは鼻に皺を寄せ、男から目を背けた。


「よくやってくれた」


 君のおかげで……男は囁くように言って、燃える集落を指差した。


「たくさん、浄化できた」


 私は黙って、その二人の会話を聴いていた。知り合い、なのか、私は、息を呑んだ。

 グレヴェは、昨日の時点で、人間たちが集落を襲撃することを知っていた。そして、どうやら二人は知り合いらしい。嫌な、予感がした。

 禿頭の男は、立ち止まった私にも聞こえるように、笑みの混じった大きな声で言った。


「君が、畜生どもの住処を教えてくれたおかげだ!」

「!」


 冷や汗が流れる。

 グレヴェが、人間たちの襲撃計画の情報を知っていた理由。それは、グレヴェが、私の故郷の情報を、人間に売ったんだ。私たち人狼の居住地を、人間に売り渡した。人狼でありながら、人狼を売った。引換に何をもらったのかは、知らない。

 でも、彼が人狼である誇りを失ったことは、間違いなかった。今思えばもしかすると、彼は今までもそうやって、同種の情報を売りながら、様々な場所を渡り歩いてきたのかもしれなかった。

恐る恐る、振り返る。すると、グレヴェは、私から顔を背けた。


「裏切り者……」


 つかえていた口からようやく吐き出せたのは、掠れた小さな声だった。恨みや怒りではなく、私はあのグレヴェという人狼に、恐怖していた。声が彼に聞こえたかどうかは、分からない。



 そして裏切り者は、彼だけじゃない。私も、そうだった。この森を、集落のことを、彼にすべて教えたのは、他でもない私だ。

 私が。私が。

 集落の安全地帯を抜け出していなければ。好奇心さえ、起こしていなければ。あんなことには、ならなかった。私さえ、あんなことを、していなければ、皆まだ無事でいられたはずだった。



 禿頭の男と共にいた二人の人間の男が、私を睨んでいた。

 私を見る人間たちの目は、物、いや――ゴミを、見る目だったよ。私は、声も出せず、ろくに体も動かせず、体が勝手に震え上がるのを感じた。生き物にこんな目が出来るのかと、本気で思った。

 片方の男は槍を。もう一人は刀身の短い剣を持っていた。武器はよく磨かれていて、遠くで燃え盛る集落の火を反射して、キラキラと光っていた。

 だからつまり私は、死を覚悟した。


「感謝してるよ」


 男はそう言って、グレヴェの肩を叩いた。


「だが――」


 男が、ちら、と振り向いて――それが、合図だったらしい。二人の人間は、音を立てて武器を動かし、その鋭く光る切っ先を、私へと向けた。


「その子には手を出すな!」


 グレヴェが荒い声を上げる。

 私も、ほぼ無意識に態勢を変えた。人狼と同じ人の姿を持つ生き物、人間。今まで森の中の獣をたくさん狩ってきたが、武器を持った二足歩行の生き物と争った経験はない。

 自分の前に立ちふさがった二人の人間を目前にして、私は歯を噛み締めた。集落へ皆を助けにいくには、この人間たちを振り切っていかねばならない。だが人間は、思っていた以上にずっと大きくて、それに、恐ろしい。だから、斃すことは考えない方がいい。隙を突いて集落へ向かえば、或いは。

 私は、姿勢を低くした。

 自分が向かうべき先、集落が、視界に入る。

 燃える家、逃げる人狼、倒れる木、振り下ろされる武器。飛び散った赤色と、炎の赤色が、綺麗に混ざり合う、そんな光景の中に、私はひとつ、誰か、人の影を見つけた。体を這って進んでいる。その姿が、見えた。


 母だった。


 既に、母は傷だらけだった。ここから見えない、建物の裏側で、攻撃を受けたに違いない。母は人の姿をしている。だから、赤色がよく目立った。

 母を追いかけてきた人間が、母の後ろの建物の影から勢いよく現れる。手には大きな斧を手にしていた。

 弟、父と続き、今度は、母の番だった。それは、私を最後まで信じようとしてくれた母が、命を奪われようとしている場面だった。

 人間から逃れようと這いずる母と、私のいる距離とは、随分離れている。なのに私は、遠くにいる母と、ばっちりと目が合った気がした。向こうから、こっちは見えているのだろうか。母は、目が良かったはずだ。


 気付いたら私は、笑ってた。



「死ね!」


 唸りをあげて、片方の男が剣を突き出してくる。私はそれを、すんでのところで躱した。空を切った剣が、ぶぅんと黒い音を立てて空振る。

 私が剣撃を避けたことを驚いた男が身じろぎする。私は、その男を睨んだ。


「ぐぇ」


 今度は後ろで、聞いたことのない声がした。鉤鼻の男の悲鳴。

 それは、狼に変身したグレヴェの牙に、男が噛み切られた時に放たれた、絶命の声だった。男はばたばたと暴れたかと思うと、グレヴェに体ごと押さえつけられて、すぐにぴたりと動かなくなった。


「ひぃっ!」


 仲間が死ぬ姿を見た槍持ちの男が、生々しい悲鳴を上げた。私を囲んでいた二人の人間の狙いの矛先は、私から、自分たちの仲間を殺めたグレヴェへと向かう。

 グレヴェは、そんなこと気にもせず、「GOwoaaw」と満足そうに唸った。かと思うと、突如、鉤鼻の男の屍体に、歯を立てた。つまり、食らいついた。


 彼は、人を、食っていた。


「うわぁあ!」


 槍の男が突き出した槍の穂先を、牙で噛んで受け止めて、そしてそのまま槍を折り、グレヴェが呻いた。そして、食事の邪魔をされたことを怒るように、男を睨んだ。


「ぎゃ」


 男の悲鳴が聞こえる頃にはもう、私は走り出していた。その場から、逃げていた。

 すぐにもう一人の男の叫び声が、逃げる私の耳に聞こえてくる。森の中に、グレヴェの遠吠えが響いた。私は走った。


 私は、逃げた。私は、逃げた。


 集落へは、行かなかった。あんな恐ろしい人間が、もっとたくさんいる場所に、向かおうとは思えなかった。まだ生きている者がいるかもしれないのに、私はそれを見捨てた。ただただ、怖かった。

 恐ろしい人間からも、私の故郷である集落からも、私が頼りにしていたはずのグレヴェからも、信頼してくれていたはずの私の両親の死からも、愛していたはずの私のきょうだいの死からも、大切だったはずの私の友人たちの死からも。全部から、逃げた。

 裸足で、何も持たず、後悔とか、怒りとか、全部投げ捨てて、ただ「見たくない」という一心で、私は逃げ出した。




 私は、逃げたんだ。

 これが、私の過去――。





 これで、パティナの過去のお話はおしまい。

 明日より六日連続で、お話を公開していきますね。

 

 次話ロクト編「聞いてもらうこと」は明日公開です!

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