第五章 仙台から松島へ――名の行方 第1回 画図にまかせて
元禄二年五月八日(新暦六月二十四日)。芭蕉と曾良は仙台を発ち、多賀城で千年近く前の石碑に出会います。歌に詠まれた土地を追ってきた旅が、ここで一度、別の手ざわりに触れます。 なお、第五章も四分割とし、順次投稿いたします。
一 仙台を発つ
五月八日。朝のうち、小雨が降っていた。
国分町の宿は、まだ薄暗かった。戸の隙間から、湿った土の匂いが入ってくる。昨夜から降りつづいた雨が、軒を伝って、ぽつり、ぽつりと落ちていた。
松尾芭蕉は、壁にかけてあった草鞋を取った。仙台の書林(本屋)の主、加衛門が贈ってくれた二足である。紺に染めた緒が、雨の朝の薄い光の中で、深い青に見えた。
座って、緒を足に結ぶ。湿り気を含んだ緒は、指に少し固かった。足の甲に当たる結び目の感触が、新しい。
「あやめの色ですな」
河合曾良が、荷をくくりながら言った。
「ああ」
宿の者が、竹の皮に包んだ握り飯を持ってきた。
「雨のうちは、お足もとがお悪うございましょう。お気をつけて」
「世話になった」
芭蕉は包みを受け取った。まだ、ほのかに温かい。
戸口に出ると、雨は糸のように細くなっていた。軒から落ちる水が、石畳を黒く濡らしている。通りの向こうで、荷を担いだ男が、雨を避けて軒下を走っていった。仙台を発つ日に降られては、先が思いやられる。
ほどなく、その加衛門が来た。小さな包みを持っている。肩に雨粒が光っていた。
「海苔でございます。塩竈へ着きましたら、お口に入れてください。ささやかなものですが」
「先日は、何から何まで」
「旅の足もとが、少しでも軽ければ」
立ち話は、それだけだった。加衛門は雨の中で深く頭を下げ、帰っていった。同行を申し出ることも、言葉を足すこともなかった。道を教えた男は、教えるところで退いた。その背中が、雨の筋の向こうへ、小さくなっていく。
芭蕉は包みを荷に収め、空を見た。灰色の雲が、ところどころ薄くなりかけている。
曾良も同じ空を見て、何も言わなかった。昨夜、雨音の中で、芭蕉は「晴れる」と言った。曾良は「言わねば、出られませぬ」と笑った。いまは、笑う必要がなかった。ただ、笠の紐を結び直した。
宿を出るころ、雲が切れた。巳の刻(午前十時ごろ)である。
最初は、屋根の端だけが光った。それから、光は瓦を伝って落ち、濡れた石畳の上へ広がった。町じゅうの水たまりが、いちどにきらめく。戸を開ける音が、あちこちでした。雨をやり過ごしていた人々が、いっせいに通りへ出てくる。
芭蕉は、歩き出す前に、しばらく黙って、その光を見ていた。
二 十符の菅
仙台の町を出て、北東へ向かった。町はずれの家並みが途切れると、道は田のあいだに入った。
田には水が張られ、雨上がりの空をそっくり映していた。早乙女(田植えをする若い女の人)たちが、裾をからげて、苗を挿している。束から苗を取り、水の中へ。取っては、挿す。その手つきを、芭蕉は歩きながら目で追った。福島の谷あいで見た、あの手つきと同じだった。
風に、潮の匂いがまじりはじめた。
曾良が、懐から画図(絵地図)を取り出した。加衛門がくれたものである。歌枕(古い和歌に詠まれた名所)の場所が、墨と淡い色で描いてある。海は藍、山は淡い緑。所々に、細い字で書き込みがあった。
「この先で、山際へ入る道があるはずです。ここに、『山際を行くべし』と」
「加衛門か」
「はい」
案内した男は、紙の上でも案内を続けていた。
曾良は画図と山の形を見比べながら歩いた。しばらく行くと、山際に細い道が見えた。
「画図のとおりです」
二人は、その道へ入った。
道は、山の根をなぞるように、ゆるくうねっていた。
道のわきに、背の高い菅(カヤツリグサ科の多年草)が群れていた。葉は細く長く、風が通ると、さやさやと乾いた音を立てる。
十符の菅。編み目が十筋ある菰(菅で編んだ敷物)の材料になる菅である。
道ばたの家の軒先に、刈った菅が束ねて干してあった。
「十符の菅でしょう」
曾良が言うと、軒先から出てきた老人が、頷いた。
「さようで。毎年あれを刈って、菰に編みましてな。国守さま(仙台藩主)へ納めますんで」
「今もかな」
芭蕉が尋ねた。
「へえ。今も、でございます」
「歌に詠まれた菅だ。知っているかね」
老人は、首をかしげた。
「歌のことは、わしらには分かりません。ただ、これは十符の菅だと、親に教わりました。親は、その親に教わったと」
老人は、干してある束に手を置いた。
「ご覧のとおりの、ただの草で」
芭蕉は、束を見た。まっすぐな茎が、そろえて束ねられている。
「いや」
そう言っただけで、あとは続けなかった。老人は頭を下げて、家の中へ入っていった。
浅香山では、花かつみを知る者がいなかった。あの草は、歌の中にしか咲いていなかった。この菅は、歌を知らない手に刈られ、編まれ、名のまま、納められている。
曾良が、場所の名と、菅の背丈を帳面に書いた。
三 壺碑
道は、ゆるやかな丘へ向かって上っていった。雲雀が、高いところで鳴いている。
多賀城の跡に近い、市川村に着いた。多賀城は、昔、朝廷が東北を治めるために置いた城である。いまは、畑と草むらのあいだに、土の盛り上がりが残るばかりで、それが昔の広がりを思わせた。
道のかたわらに、一つの石碑が立っていた。
芭蕉は、足を止めた。
石は、人の背丈より少し高い。曾良が近づき、手を広げて寸法を測った。
「六尺余り。横は、三尺ほどでしょうか」
「字は」
「あります」
碑面は苔に覆われていた。刻んだ線のところだけが、黒く沈んで、かすかに字の形をなしている。雨上がりの光が斜めに差して、その窪みに、細い影を落としていた。曾良は顔を近づけて、一字ずつ、目で追った。
「いちばん上に、大きく『西』と。その下に……」
声が、少し変わった。
「京を去ること、千五百里」
「続けろ」
「蝦夷の国の境まで、百二十里。常陸国の境まで、四百十二里。下野国の境まで、二百七十四里。靺鞨国――海の向こう、大陸の北の国の境まで」
曾良は、そこで一度、息をついだ。
「三千里」
都から千五百里。そこから、国々の境までの里数が、石に刻まれている。この城が、どれほど遠い土地にあるのかを、石は黙って数えていた。
曾良は帳面を開いて、写しはじめた。
「この城は、神亀元年、大野朝臣東人の置くところなり。天平宝字六年、藤原恵美朝臣朝狩、これを修造す。十二月一日」
芭蕉は、碑の前に立った。
神亀元年は、九百六十年あまり前。天平宝字六年でも、千年近い昔になる。その昔、この土地へ来た人間が、石を立て、字を刻ませた。京から千五百里も離れた果てで、その人は何を思って、これを彫らせたのか。読む者があると信じていたのか。それとも、誰も読まぬ日が来ることを、承知のうえだったのか。
歌に詠まれた土地の多くは、跡を失っていた。山は崩れ、川は流れを変え、石は土に埋もれ、木は老いて若木に替わる。浅香山の谷には、田があるばかりだった。
芭蕉は、自分の足を思った。白河から、須賀川から、飯坂の泥の中から、この足で歩いてきた。草鞋の紺の緒が、足の甲に、まだ新しく触れていた。
だが、この石は違う。千年近く前の人の字が、いまも、目の前にある。歌ではない。人の手が、石に彫った字である。
芭蕉は、碑に手を伸ばしかけて、やめた。
「曾良」
「はい」
「生きて、ここまで来た」
曾良の筆が、止まった。
芭蕉は、碑を見たままだった。目もとが濡れていた。飯坂の夜のことが、遠い。道のほとりで倒れてもよい、と思った日が、遠い。
曾良は、何も言えなかった。筆先が、帳面の上で、小さく震えた。やがて、筆を下ろし、芭蕉の背を見た。声はかけなかった。雲雀の声だけが、丘の上を渡っていった。
しばらくして、芭蕉は顔を上げた。
「写せたか」
「はい。すべて」
「お前の目がなければ、読めなかった」
「いえ」
曾良は、短く答えて、帳面を閉じた。
「では、行こう」
碑に背を向けた。曾良だけが、一度、ふり返った。苔の下の字は、もう見えなかった。塩竈へ下る道は、海に向かって、ゆるやかに下っていた。
【あとがき】
この回では、壺碑を「歌枕の名」ではなく、人が刻んだ記録として描いた。
◆ 壺碑(多賀城碑)について
壺碑は、現在「多賀城碑」と呼ばれる国宝の石碑である。高さ248センチ(地上部196センチ)、碑面に141字。中央上部に「西」の一字があり、京・蝦夷国・常陸国・下野国・靺鞨国から多賀城までの距離と、神亀元年(七二四)の設置、天平宝字六年(七六二)の修造を記す。本文の碑文は、この現存碑の釈文に従った。『おくのほそ道』が引く碑文には誤記があり、寸法「高さ六尺余、横三尺ばかり」も紀行文による。
歌枕の「壺碑」は、平安末期から和歌に詠まれてきたみちのくの歌枕である。宮城県の解説によれば、仙台藩は江戸初期に発見された石碑をこの歌枕に結び付け、沖の石(興井)や末の松山も多賀城周辺に設定して、名所として整えた。西行に「みちのくは奥ゆかしくぞ思ほゆる壺のいしぶみそとの浜」の歌があり、歌枕の壺碑は多賀城より遠い北の地とも結びつけられてきたため、多賀城碑を歌枕の壺碑とすることには異論も多い。芭蕉は目の前の碑を歌枕の壺碑と信じて訪れたので、本作もその視点で描き、本文では比定の問題に触れていない。
◆ 日記と紀行文について
十符の菅、壺碑は、日記・紀行文ともに記す。「かの画図にまかせて」「おくの細道の山際に十符の菅有」は紀行文の表現。加衛門の同道を記す資料もあるが、日記に同道の記載はなく、画図に従ったとする紀行文と合わせ、本作は同行させていない。加衛門が海苔を届けたのは日記による。天気は日記の「朝之内小雨ス。巳ノ尅より晴ル」に従った。宿の握り飯、早乙女の田植え、画図の書き込み、老人との会話は創作である。




