3. 余裕がない
セシルはお茶会のあと、まったく仕事に手を付けられなかった。
まさか、幼い頃にオルコット家にいて、友人のように慕っていた『アル』が婚約者なんて...。
それにずっと想っていたと告白され、頭のキャパシティは完全にオーバーしていた。
(確かに幼い時のアルは優しくて、友人として好きだったけれど、何年も会っていなかったし、突然現れてずっと想っていたと言われても、気持ちが全然追いつかないわ……)
整理のつかない感情に押し潰されそうになりながら、自室に戻ったセシルはそのままベッドへ倒れ込み、夕食も摂らずに寝入ってしまった。
◇
夜もすっかり深まった頃、セシルは自室の部屋の扉を叩く音で目を覚ました。
「セシル、今入ってもいいかい?」
扉の向こうから聞こえたのは、アルフレッドの声だった。
突然の訪問に跳ね起きると、急いで身なりを整える。
「あっ…はい、どうぞ」
扉が開き、メイドを伴ったアルフレッドが入ってきた。メイドは小さなテーブルに水と軽食を置くと、静かに一礼して廊下で待機する。
「すみません……夕食も食べずに寝てしまって。ご迷惑をおかけしました」
申し訳なさそうに頭を下げるセシルに、アルフレッドは困ったように眉を下げた。
「メイドが声をかけたけれど、君がぐっすり眠っていたから起こさないように言ったんだ。そろそろ起きる頃かと思って様子を見に来ただけだから、気にしないでほしい。それに……到着早々仕事を任せて無理をさせた僕の責任だ」
「いえ、アル……アルフレッド様の責任ではありません。むしろ私が勝手にパンクしてしまったというか……」
「アルでいいよ。……あと、できれば敬語もやめてほしいな。せっかく再会できたんだ、昔みたいに話してほしい」
アルフレッドに甘く優しい眼差しで見つめられ、セシルは思わず、昼間のテラスでの出来事が蘇って顔が熱くなった。
「あっ……えっと……アル。どうして……婚約が決まった時に、会いに来て教えてくれなかったの?」
セシルがおずおずと尋ねると、アルフレッドはどこか気まずそうに顔を赤らめた。
「……僕だけが君を覚えているんじゃないかと、怖かったんだ。君に忘れられていたら悲しいし……最初に会った時、思い出してくれるかなと期待したけれど、すごく他人行儀な挨拶をされただろう? もし思い出してくれなかったら、落ち着いた頃に自分から打ち明けるつもりだったんだ」
「でも、お父様はどうして教えてくれなかったのかしら……お父様はあなたのこと、覚えていたでしょう?」
「君の父上には、僕から秘密にしてほしいと頼んだんだ。サプライズにしたくて……と言っても、僕の方が驚かされたけれどね。あの栞を、今でも大切に使ってくれていて……すごく嬉しかった」
アルフレッドのはにかんだ笑顔に、セシルはドキリとして思わず視線を泳がせてしまう。
「ごめんなさい……私、最初あなただと気づかなくて。結婚の話が出た時も、実家の援助と引き換えに私が事業をサポートする『ビジネス結婚』だと思い込んでいたから……」
「ビジネスだなんて、そんな……!」
アルフレッドは恥じらいを捨て、切羽詰まった真剣な顔でセシルに詰め寄った。
「僕は最初からセシルが好きで結婚したくて…!君の実家の援助は昔助けてもらったお礼で…本当は援助だけでもよかったんだ。だけど、大人になった君を晩餐会で見て......どうしても忘れられなくて…それでっ…!」
アルフレッドの情熱な言葉に、セシルは思わずアルフレッドの顔を見つめた。
そこにいたのは、昼間の仕事熱心な伯爵様ではなく、一人の男として心の余裕をなくしているアルフレッドの姿だった。
「先月、隣国の王太子をお招きした晩餐会があっただろう? 僕も招待されていたんだ。君が王太子様たちの前で、堂々と通訳として仕事をしている姿を見かけて……僕もまさかセシルに会えるとは思わなかった。会場にいた君の父上から話を聞いて、あんなに魅力的になった君を放っておいたら、すぐに誰かに取られてしまうと焦って……無理を承知で、すぐに婚姻を打診したんだ…」
必死な面持ちで種明かしをする彼を見て、セシルの頭の中で点と点が一本の線で繋がった。
(あっ…)
父上がこの結婚相手について必要以上何も言っていないことも、お部屋に用意されていた贈り物の趣味が、恐ろしいほど完璧だったことも。
(すべて……すべて私のために……?)
すべて自分への愛ゆえの行動だったと知り、胸の奥がカッと熱く跳ね上がった。全身が熱を帯び、鼓動が早くなっていくのを感じる。
アルフレッドはおもむろにセシルの手を取り、包み込むように握りしめた。
「余裕がなくて、全部話してしまってごめん。昨日再会したばかりの僕を、すぐに好きになってほしいなんて言わない。……ただ、僕のわがままだけど、これから僕のことを知って、一人の男として好きになってほしい」
そう言って、彼はセシルの手の甲にそっと唇を寄せた。
そしてそのまま、セシルの手を裏返し――柔らかい掌に、静かに口づけをした。
(んっ…!)
手のひらに伝わる温かい唇の感触に、セシルは思わず背筋をゾクッと震わせた。
昨日の礼儀正しい挨拶とは違う、愛おしさと熱を孕んだキスだった。
「……昨日再会したばかりで、まだ自分の中であなたのことをどう思っているのか分からないの。正直、子供の時のアルと今のあなたが違いすぎて、戸惑っていて……」
セシルは正直な気持ちを吐露すると、少しの沈黙が流れた。
やがて、アルフレッドが崩れそうなほど悲しげな瞳でセシルを見つめる。
「……セシルは、今の僕のことが嫌い?」
「……嫌いなわけ、ないじゃない」
その瞬間、アルフレッドの表情がぱっと明るくなった。
「よかった…まだ望みはあるみたいだ。好きになってもらえるよう努力するよ…」
アルフレッドは満足そうに微笑むと、セシルの頭をぽんぽんと優しく撫でた。
「遅くまで引き留めてごめん。軽食を食べて、ゆっくり休んでね。……また明日」
彼が部屋を去ったあとも、セシルは一人ベッドの上で体を起こしたまま、呆然と固まっていた。
胸のバクバクとした高鳴りが、いつまでも収まらない。
(あんな笑顔……そんなの、今だって心臓が保ちそうにないのに……!)
セシルは真っ赤になった顔を枕に押し付け、今度こそトキメキの余韻で眠れない夜を過ごすのだった。
全5話+SSの短期連載、毎日20時更新予定です。




