第9話 異世界初のカレーは魔王様の胃袋を掴むらしい
魔王領首都へ足を踏み入れた私は、まず最初に、この街が思っていた以上に活気のある場所だということに驚かされていた。
ゲームの中で見ていた魔王領首都は、どちらかといえば薄暗く、重苦しい雰囲気を持った都市として描かれていた。黒い石材を使った巨大な建物が並び、魔族たちが行き交う大通りには鎧を身に着けた兵士の姿が多く、露店や商店も存在してはいたものの、人間の暮らす王都に比べればどこか物騒な印象を与える場所だったのだが、実際にそこへ足を踏み入れてみれば、少なくとも表面上は普通の都市と大きく変わらない生活が営まれていることが分かった。
もちろん、歩いている人々の中には角を持つ者もいれば、獣の耳や尻尾を持つ者もいるし、肌の色が人間とは明らかに異なる者もいる。背丈が二メートルを軽く超えている大男が普通に店先で買い物をしているかと思えば、逆に私の腰ほどの身長しかない小柄な魔族が、巨大な荷物を背負って忙しそうに通りを歩いている姿もあった。
けれど、それでも彼らは生きている。
笑っている者がいて、怒っている者がいて、店員と客が値段について交渉していて、子供たちが通りの端を走り回り、母親らしき女性が慌てて追いかけている。
そんな光景を見ていると、私は不思議な気持ちになった。
魔王領。
ゲームの設定上では、魔王軍の本拠地。
人間たちから恐れられ、勇者たちが討伐を目指す場所。
それなのに、ここで暮らしている人々にとっては、ここが故郷なのだ。
誰かにとっては生まれ育った街であり、誰かにとっては大切な家族が暮らす場所であり、誰かにとっては商売をして一生懸命に生活していくための場所なのだろう。
そう考えると、ゲームの中で私が何気なく倒していた魔族たちにも、それぞれ生活があったのかもしれない。
もちろん、ゲームの敵モンスターと、ここで生活している魔族が同じ存在なのかどうかは分からない。
けれど、少なくともこの世界に暮らしている者たちは、私がゲーム画面の向こう側から見ていた『NPC』などではない。
それぞれに意思があり、感情があり、人生がある。
私はそんな当たり前のことを、今さらながら実感していた。
「ヒヨリ?」
隣を歩いていたルナが、不思議そうに私の顔を覗き込んできた。
「どうしたの?」
「ううん」
私は首を横に振る。
「ちょっと街を見てただけ」
「珍しい?」
「そうね」
私は改めて周囲を見回した。
「私が知っている街とは、少し違うから」
「……ヒヨリの故郷?」
「うん」
「どんなところ?」
「そうねぇ……」
私は少し考えた。
地球。
日本。
そして。
私が生きていた世界。
スマートフォンがあり、電車があり、コンビニがあり、冷蔵庫があり、電子レンジがあり、インターネットがあり、夜になれば街中が明るく照らされる。
けれど。
今の私には。
それが遠い昔のことのようにも感じられた。
「便利なところよ」
「便利?」
「うん。欲しいものがあれば、だいたい買えるし、遠くに行きたければ乗り物に乗ればいいし、食べ物もたくさんある」
「……」
「でも」
私は。
少しだけ。
苦笑した。
「便利すぎて、何でも当たり前になってたのかもしれないわね」
「……」
ルナは黙って私の言葉を聞いていた。
「私の世界ではね」
私はゆっくりと歩きながら続けた。
「料理をするのが面倒なら、店で買えばいいし、知らないことがあれば調べればいいし、遠くの人と話したければ電話すればいい。欲しいものがあれば、注文すれば家まで届く」
「……すごい」
「そうね」
「魔法みたい」
「……」
私は。
思わず。
笑った。
「そうね。こっちの世界の人から見たら、魔法と変わらないかも」
そう言いながら、私は自分のスキル欄を思い出していた。
空間支配∞。
言語最適化∞。
解析鑑定∞。
完全記憶∞。
そして。
私がゲーム時代に身につけていた大量の生活系スキル。
さらに。
女神チケット。
ボーナスポイント。
私自身のステータス。
私は。
この世界に来てから。
何度も思っていた。
自分は。
強すぎる。
強すぎるどころではない。
もはや。
バランスブレイカーだ。
普通の人間なら、レベル五から七。
兵士でも十五から二十。
上級将校で三十。
勇者や聖女で七十前後。
魔王で九十前後。
そして。
私は。
レベル九十九。
しかも。
筋力一九〇一一に、さらに二万。
防御八五六四に、さらに一万五千。
運九三二一七に、さらに八千。
これで。
私は。
忍者。
いや。
忍者って。
何?
どうして私は。
異世界に転移した初日から。
魔王と娘を連れて歩いているのだろう。
普通の異世界転移なら。
もっとこう。
村から始まるとか。
冒険者になるとか。
奴隷を買うとか。
いや。
最後のは絶対に嫌だけど。
ともかく。
もう少し。
平和なスタートがあってもよかったのではないだろうか。
「……」
私は。
深く考えるのをやめた。
今は。
カレーだ。
私の胃袋は。
地球にいた頃から。
ずっとカレーを求めている。
「ねえ、ルナ」
「何?」
「カレーの材料を買いたいんだけど」
「……」
「この街に食材を売ってる店ってある?」
「もちろんあるよ」
ルナが笑う。
「市場に行けばいいと思う」
「市場!」
私は。
思わず。
声を上げた。
市場。
異世界の市場。
これは。
かなり興味がある。
ゲームでは。
市場の内部まで細かく描かれてはいなかった。
NPCが並んでいるだけ。
そんな場所だった。
けれど。
現実の市場なら。
話は違う。
どんな食材があるのか。
どんな調味料があるのか。
地球には存在しない食材があるのか。
もしかしたら。
私の知らない料理があるのかもしれない。
考えれば考えるほど。
楽しみになってくる。
「行きましょう!」
「うん」
「市場!」
「うん」
「カレー!」
「……うん」
ルナは。
少しだけ。
困ったように笑った。
その後ろを。
魔王ヴァルディアが歩いている。
私は。
ちらりと。
ヴァルディアを見る。
「魔王様」
『……何だ』
「市場に行ってもいい?」
『……』
「ダメ?」
『……』
ヴァルディアは。
何とも言えない顔をした。
『何故、我に聞く』
「いや」
私は。
少し考えて。
「あなた、この街の魔王でしょう?」
『……』
「だったら、許可が必要かなって」
『……』
ヴァルディアは。
長い沈黙の後。
『好きにしろ』
「やった!」
私は。
拳を握った。
すると。
ヴァルディアが。
『ただし』
「……」
『勝手に騒ぎを起こすな』
「……」
『勝手に城を破壊するな』
「……」
『勝手に兵士を倒すな』
「……」
「私、そんなことするように見える?」
『見える』
「……」
私は。
何も言い返せなかった。
なぜなら。
今までの私の行動を振り返ると。
否定できなかったからだ。
ユーノーのせいで異世界転移。
地球へ帰還。
女神チケット獲得。
ボーナスポイント大量取得。
再びウォーズ世界へ。
魔王の娘を助ける。
魔王と一緒に首都へ。
そして。
カレーを作ろうとしている。
確かに。
普通ではない。
「……まあ」
私は。
小さく呟いた。
「騒ぎを起こすつもりはないわ」
『本当か?』
「本当よ」
『……』
「たぶん」
『……』
「……」
『……』
「何よ」
『何でもない』
魔王ヴァルディアは。
また。
ため息を吐いた。
そうして。
私たちは。
魔王領首都の市場へ向かった。
市場は。
想像していたよりも。
ずっと大きかった。
広場の中央には大きな噴水があり、その周囲を取り囲むように無数の露店が並んでいる。肉を売る店、魚を売る店、野菜を売る店、果物を売る店、香辛料を売る店、パンを売る店、酒を売る店まであり、様々な匂いが混ざり合って、独特の活気を生み出していた。
私は。
思わず。
目を輝かせた。
「……すごい」
そして。
次の瞬間。
私は。
市場の奥へ向かって歩き出していた。
「ヒヨリ?」
「待って」
「……?」
「今、私の中の料理人が目覚めた」
「……」
ルナが。
よく分からないという顔をする。
私は。
気にしない。
まず。
野菜。
ジャガイモ。
玉ねぎ。
人参。
これは。
絶対に必要。
そして。
肉。
牛肉。
豚肉。
鶏肉。
どれでもいい。
カレーなら。
何でも美味しい。
「……」
私は。
肉屋の前で。
足を止めた。
「これは?」
店主に聞く。
「グルドの肉だ」
「グルド?」
「魔獣だよ。森の奥にいる」
「……」
私は。
鑑定。
――――――――――
【グルド】
種族:魔獣
危険度:D
特徴:脂身が多く、加熱すると柔らかくなる。
食用:可
――――――――――
「……」
私は。
肉を見る。
「これ」
「はい」
「カレーに合う?」
「……」
店主が。
困った顔をした。
「カレー?」
「知らない?」
「知らんな」
私は。
静かに。
頷いた。
「……」
よし。
決めた。
この世界に。
カレーを広めよう。
「これ、ください」
「どれくらいだ?」
「全部」
「……」
店主が。
固まった。
「……全部?」
「はい」
「……」
店主が。
肉を見る。
そして。
私を見る。
「嬢ちゃん」
「はい」
「一人で食うのか?」
「三人です」
「……」
店主が。
ヴァルディアを見る。
ルナを見る。
そして。
私を見る。
「……」
何かを。
察したようだった。
「……全部で?」
「はい」
「……」
店主が。
値段を告げる。
私は。
財布を取り出そうとして。
ふと。
思った。
この世界。
金貨。
白金貨。
銀貨。
銅貨。
青銅貨。
私の所持金。
白金貨二万一五六九枚。
金貨七万四三九九枚。
銀貨九十九万八一九九枚。
銅貨九万八一二七枚。
青銅貨一万二三四六枚。
……。
多すぎない?
いや。
ゲームで稼いだお金だから。
持っているのは分かる。
でも。
現実に。
これだけの金を持っていると。
逆に。
使い道に困る。
私は。
店主に。
金貨を一枚渡した。
「……」
店主が。
固まった。
「お釣り」
「……」
「いらないから」
「……」
店主が。
震えた。
「嬢ちゃん」
「はい?」
「これ」
「うん」
「金貨だぞ?」
「知ってるわよ」
「……」
「足りない?」
「いや」
店主が。
震える手で。
金貨を見た。
「多すぎる」
「……」
そうなの?
私は。
鑑定。
――――――――――
【金貨】
価値:銀貨百枚相当
――――――――――
……。
しまった。
金貨。
普通に。
高額だった。
「あ」
私は。
小さく呟いた。
「ごめん」
「……」
「銅貨ってある?」
「……あるが」
「じゃあ、そっちで払う」
「……」
私は。
銅貨を出した。
店主が。
目を丸くする。
「……」
そして。
私は。
気づいた。
周囲が。
静かになっている。
「……?」
見る。
周囲の人々が。
私を見ている。
いや。
私だけではない。
私の隣。
ルナ。
そして。
ヴァルディア。
魔王。
魔王の娘。
そして。
見知らぬ女。
市場の人々が。
ざわざわしている。
「……」
私は。
ヴァルディアを見る。
「ねえ」
『何だ』
「これ」
『……』
「目立ってる?」
『……』
「かなり?」
『……』
ヴァルディアは。
しばらく。
黙って。
『今頃気づいたのか』
「……」
私は。
頭を抱えた。
「……」
完全に。
忘れていた。
魔王。
魔王の娘。
そして。
謎の異邦人。
この三人組が。
市場に来て。
大量の肉を買っている。
目立たないわけがない。
「……」
私は。
どうしようか。
考えた。
その時。
「……魔王様」
誰かが。
呟いた。
「魔王様だ」
「……」
周囲が。
一斉に。
ざわめく。
「魔王様が市場に……?」
「何故?」
「隣にいるのは姫様か?」
「その女は誰だ?」
「異邦人か?」
「まさか……」
私は。
聞こえてくる声に。
少しだけ。
眉をひそめた。
そして。
その時。
市場の入り口から。
一人の男が。
歩いてきた。
黒いローブ。
細身。
長い杖。
そして。
鋭い目。
「……」
私は。
その男を見た。
鑑定。
――――――――――
【解析鑑定∞】
対象:???
種族:魔族
職業:???
レベル:???
称号:魔王宰相
加護:???
状態:敵対
――――――――――
「……」
敵対。
私は。
その表示を見て。
すぐに。
警戒した。
男は。
私たちの前まで来る。
「魔王陛下」
男が。
深く頭を下げた。
『……宰相』
ヴァルディアの声が。
低くなる。
私は。
この男が。
先ほど。
兵士の口から出てきた。
『宰相閣下』
その人物だと。
理解した。
そして。
男の視線が。
私へ向く。
「……」
私は。
その目を。
見つめ返す。
男は。
私を見て。
微笑んだ。
「初めまして」
「……」
「異邦人殿」
私は。
その瞬間。
確信した。
この男。
危険だ。
「……」
私は。
ゆっくりと。
笑った。
「初めまして」
男が。
目を細める。
「私は」
私は。
名乗った。
「秋月燈由」
そして。
少し。
間を置いて。
「ヒヨリと呼んでください」
「……」
宰相が。
笑う。
「これはこれは」
そして。
「天照大神の加護を持つ異邦人」
私は。
その瞬間。
完全に。
笑顔を消した。
市場の喧騒が。
遠くなる。
「……」
ヴァルディアが。
私の前に。
一歩。
出た。
『貴様』
宰相は。
笑っている。
『何故』
ヴァルディアの声が。
低く響く。
『その名を知っている』
宰相は。
答えなかった。
ただ。
私を見て。
笑った。
「魔王陛下」
「……」
「その方を」
「……」
「魔王城へお連れください」
『断る』
即答だった。
宰相の笑顔が。
僅かに。
歪む。
「……何故です?」
『我が客人だからだ』
「客人?」
『そうだ』
「では」
宰相は。
私を見る。
「その方に」
そして。
「直接、聞いてみてはいかがでしょう」
「……」
私は。
目を細める。
「何を?」
「あなたが」
宰相が。
微笑む。
「何者なのかを」
「……」
私は。
笑った。
「それ」
「……」
「あなたに関係ある?」
宰相の。
笑顔が。
消えた。
「……」
「私は」
私は。
一歩。
前へ出る。
「ただの旅行者よ」
「……」
「ちょっと料理が得意で」
「……」
「ちょっとゲームが好きで」
「……」
「ちょっと運が良くて」
そして。
「ちょっとだけ」
私は。
村正に。
触れた。
「強いだけ」
「……」
宰相の瞳が。
僅かに。
揺れた。
私は。
笑う。
「それ以上でも」
そして。
「それ以下でもないわ」
その瞬間。
宰相が。
初めて。
私に対して。
明確な敵意を向けた。
けれど。
私は。
その敵意を。
正面から受け止める。
そして。
思った。
やっぱり。
魔王城へ行く前に。
カレーを作ろう。
こんな時だからこそ。
私は。
自分のペースを崩してはいけない。
敵がいる。
陰謀がある。
ユーノーの秘密も。
天照大神のことも。
まだ。
何一つ分からない。
だからこそ。
焦ってはいけない。
私には。
時間がある。
少なくとも。
五日間は。
地球へ戻れる。
そして。
戻った後も。
再び。
この世界へ来られる。
なら。
今は。
目の前にある問題から。
一つずつ。
片付けていけばいい。
私は。
そう考えた。
そして。
私の目の前には。
肉がある。
野菜も。
香辛料も。
探せば。
きっと見つかる。
「……」
私は。
宰相を見た。
「ねえ」
「……何でしょう」
「魔王城」
「……」
「行くのはいいけど」
「……」
「その前に」
私は。
笑った。
「カレーを作っていい?」
「……」
宰相が。
固まった。
ヴァルディアが。
目を閉じる。
ルナが。
笑い出す。
そして。
市場にいた人々が。
何とも言えない顔で。
私を見ていた。
私は。
その視線を。
気にしない。
私には。
私のやるべきことがある。
そして。
この世界には。
まだ。
カレーがない。
なら。
私が作る。
それだけだ。
けれど。
この時の私は。
まだ知らなかった。
私が作ろうとしているカレーが。
ただの料理では終わらないことを。
香辛料の組み合わせ。
保存方法。
肉の加工。
小麦粉。
米。
そして。
食文化。
それらを組み合わせることで。
魔王領の食糧事情そのものが。
大きく変わってしまうことを。
さらに。
私が何気なく使った。
生活魔法と錬金術が。
この世界の料理人たちに。
とんでもない衝撃を与えることを。
そして。
私のカレーを食べた魔王ヴァルディアが。
後に。
とんでもない命令を出すことになることを。
この時の私は。
何も知らなかった。
ただ。
私は。
お腹が空いていた。
そして。
魔王領首都には。
カレーがなかった。
だから。
私は。
決めた。
今日。
この世界に。
カレーを誕生させる。
それが。
異世界に迷い込んだ。
平凡なOLである私の。
新しい日常の。
最初の一歩になるはずだった。




