第10話 魔王城の厨房を借りてカレーを作ります
魔王領首都の市場に集まった人々の視線を一身に浴びながら、私は自分が何かとんでもなく場違いなことをしているような気分になっていた。
つい先ほどまで、私はただカレーを作るための材料を買っていただけなのだ。
肉を買い、野菜を買い、香辛料を探し、ついでに見たことのない果物を見つけては鑑定し、これは食べられるのか、どんな味がするのかと店主に聞き、気がつけば両手いっぱいの食材を購入していた。それだけなら、異世界へ転移したばかりの旅行者としても、まあ許容範囲だったと思う。
問題は、その買い物の途中で魔王と、その娘であるルナ、そして魔王の側近である宰相まで揃ってしまったことだった。
しかも、宰相は私のことを『天照大神の加護を持つ異邦人』と呼んだ。
その瞬間から、私にとって市場での買い物は単なる買い物ではなくなってしまった。
魔王領の首都に暮らす人々にとっては、魔王陛下が突然市場へ現れたこと自体が大事件だったのだろう。その隣に魔王の娘であるルナがいて、さらに見たこともない異邦人の女が一緒にいるのだから、好奇心を刺激されるのも無理はない。
けれど、私としてはそれどころではなかった。
何しろ、カレーを作るのだ。
しかも、異世界初のカレーである。
この世界に存在しない料理を作るというのなら、材料選びは重要だ。地球と同じ食材が存在するとは限らないし、そもそも私は料理人ではない。料理MAXというスキルを持っているとはいえ、それはあくまでもゲームシステム上のスキルであって、実際の料理経験が突然プロの料理人レベルになったわけではない。
……いや。
待って。
料理MAX。
私は。
ふと。
自分のスキルを思い出した。
料理MAX。
裁縫MAX。
鍛冶MAX。
隠密MAX。
隠蔽MAX。
索敵MAX。
投擲MAX。
生活魔法五十二。
錬金七十一。
空間支配∞。
言語最適化∞。
解析鑑定∞。
完全記憶∞。
成長促進∞。
経験値倍化∞。
信託∞。
「……」
私は。
黙った。
もしかして。
私。
料理。
ものすごく上手なのでは?
いや。
ゲーム時代の私は、料理スキルを上げるために何百種類もの料理を作った記憶がある。レシピを集め、素材を集め、何度も失敗しながら料理を作り、最終的には料理スキルをMAXまで上げた。
ゲームだったから、実際に味を知ることはできなかった。
けれど。
今は。
現実だ。
なら。
私が料理MAXで作った料理は。
もしかすると。
とんでもなく美味しいのではないだろうか。
「……」
私は。
少しだけ。
期待した。
「ヒヨリ?」
ルナが。
私の顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「……何でもない」
「でも、すごく嬉しそう」
「そう?」
「うん」
私は。
笑った。
「カレーを作るのが楽しみなのよ」
「そんなに美味しいの?」
「美味しいわよ」
「どんな味?」
「……」
私は。
少し考える。
「食べてみれば分かるわ」
「……」
「百聞は一見に如かずっていうでしょう?」
「食べ物なのに?」
「……」
確かに。
その通りだった。
「まあ、細かいことは気にしないの」
私は。
そう言って笑った。
その様子を。
宰相が。
じっと見ていた。
私は。
その視線に。
気づいていた。
けれど。
あえて。
無視した。
今は。
カレーだ。
敵意を向けてくる怪しい宰相より。
カレーのほうが大切。
少なくとも。
私にとっては。
魔王城へ戻ると、私たちはそのまま厨房へ向かった。
正確には、ヴァルディアが私たちを連れて行った。
魔王城の厨房は、私がゲームで見たものとはまるで違っていた。
ゲームの中では、厨房という場所は単なる背景の一つに過ぎなかった。大きな鍋や調理台が並び、数人のNPCが動いているだけの場所で、プレイヤーが自由に入ることなどできなかった。
けれど。
現実の厨房は。
広かった。
とにかく。
広かった。
巨大な竈がいくつも並び、その周囲には大量の調理器具が置かれている。壁際には食材を保管するための棚が並び、奥には冷気を発する魔道具まで設置されていた。
「……」
私は。
思わず。
立ち止まった。
「これ」
「……?」
「冷蔵庫?」
私は。
壁際にある大きな箱を見る。
ルナが。
首を傾げた。
「れいぞうこ?」
「食べ物を冷やして保存する道具」
「そうだよ」
「……」
「魔道具だけど」
私は。
目を見開いた。
「魔道具なの?」
「うん」
私は。
近づいた。
解析鑑定。
――――――――――
【冷却保存庫】
属性:水・氷
魔力を利用して内部温度を一定に保つ。
食材の腐敗を遅らせることができる。
――――――――――
「……」
すごい。
魔法文明。
すごい。
地球では電気が必要だったものが、この世界では魔力で動いている。
それなら。
もしかして。
「電子レンジ」
「……?」
「いや」
私は。
首を横に振った。
「何でもない」
私は。
改めて。
厨房を見回した。
そして。
思った。
ここ。
使いやすい。
「……」
料理人たちが。
私を見ている。
当然だ。
突然。
魔王様と姫様と一緒に。
見知らぬ女が。
厨房に入ってきたのだから。
「……」
私は。
料理人たちを見る。
彼らは。
怯えている。
何故なら。
背後に。
魔王がいるからだ。
魔王。
魔王。
魔王。
何度見ても。
魔王だ。
私は。
少し。
申し訳なくなった。
「ええっと」
私は。
料理人たちに向かって。
言った。
「厨房を借りてもいいですか?」
「……」
料理人たちが。
一斉に。
ヴァルディアを見る。
『……』
ヴァルディアが。
私を見る。
「……」
私は。
首を傾げた。
「何?」
『我に聞くな』
「いや、あなたの城だから」
『……』
ヴァルディアが。
厨房の料理人たちを見る。
『好きにさせろ』
「ありがとうございます」
私は。
料理人たちに。
頭を下げた。
料理人たちは。
さらに。
困惑した。
どうやら。
魔王が。
見知らぬ女に。
厨房を貸し出したこと自体が。
異常事態らしい。
私は。
そんなことには。
気づかない。
というより。
気にしている余裕がない。
私の前には。
食材がある。
肉。
玉ねぎ。
人参。
ジャガイモ。
そして。
香辛料。
私は。
材料を一つずつ。
確認した。
「……」
鑑定。
解析。
そして。
私の記憶。
ゲーム時代に作った料理。
その中から。
最適なレシピを。
選び出す。
カレー。
普通のカレー。
日本の家庭で食べるような。
あの味。
私は。
まず。
玉ねぎを。
薄く切った。
包丁を握った瞬間。
手が。
勝手に動く。
一定の速度。
一定の厚さ。
まるで。
自分の手ではないような。
正確な動き。
「……」
料理人たちが。
息を呑んだ。
私は。
気づいていない。
次に。
人参。
ジャガイモ。
肉。
それぞれ。
同じくらいの大きさに切る。
そして。
鍋を火にかける。
油を入れる。
肉を炒める。
焼ける音が。
厨房に響いた。
じゅう。
という音。
肉の香ばしい匂い。
続いて。
玉ねぎ。
人参。
ジャガイモ。
鍋の中へ。
材料を入れるたびに。
香りが変わっていく。
料理人たちが。
少しずつ。
こちらへ近づいてくる。
私は。
それに気づかない。
私は。
カレーのことしか。
考えていない。
「……」
問題は。
カレールー。
この世界には。
存在しない。
だから。
作る。
私は。
香辛料を並べた。
ターメリック。
クミン。
コリアンダー。
カルダモン。
クローブ。
シナモン。
ブラックペッパー。
唐辛子。
そして。
その他。
私が。
この世界で見つけた。
香辛料。
鑑定を使う。
一つずつ。
特徴を確認する。
「……」
この世界には。
地球に存在するものと。
よく似た香辛料がある。
けれど。
完全に同じではない。
魔力を含んでいる。
香りが。
少し違う。
私は。
それを。
調整する。
少量。
少量。
そして。
少量。
鍋に。
加えていく。
「……」
料理人たちが。
完全に。
黙っている。
ルナは。
目を輝かせている。
ヴァルディアは。
腕を組んでいる。
宰相は。
少し離れた場所から。
こちらを。
観察している。
私は。
気にしない。
鍋の中に。
水を入れる。
そして。
煮込む。
じっくり。
じっくり。
肉が柔らかくなるまで。
野菜が。
崩れる寸前まで。
私は。
鍋の様子を見ながら。
少しずつ。
香辛料を調整した。
そして。
最後に。
私は。
自分のスキルを。
使った。
「生活魔法」
私は。
小さく。
呟く。
「温度調整」
魔力が。
鍋を包む。
火力が。
一定になる。
料理人たちが。
驚いた。
「……」
私は。
さらに。
「味覚調整」
料理人たちが。
目を見開く。
私は。
味見をする。
「……」
少し。
辛い。
でも。
美味しい。
私は。
さらに。
香辛料を調整する。
甘み。
辛み。
苦み。
酸味。
旨味。
全てを。
バランスよく。
整える。
そして。
私は。
最後に。
隠し味を入れた。
蜂蜜。
果物。
そして。
少量の乳製品。
この世界で手に入れた材料を。
料理MAXの知識で。
最適化する。
そして。
完成。
「……」
私は。
鍋を見る。
とろりとした。
濃厚な。
カレー。
黄色と茶色の中間のような。
美しい色。
香辛料の香りが。
厨房いっぱいに。
広がっている。
「……」
誰も。
何も。
言わない。
私は。
振り返った。
「……どうしたの?」
料理人たちは。
動かない。
「……」
「?」
私は。
ルナを見る。
「何か変?」
「……」
ルナが。
首を横に振る。
「ううん」
「じゃあ」
「……」
「何?」
「すごく」
ルナが。
小さく。
呟く。
「いい匂い」
「でしょう?」
私は。
笑った。
「これがカレーよ」
そして。
私は。
皿に。
カレーを盛った。
もちろん。
この世界には。
米がある。
私は。
市場で見つけた米を。
炊いていた。
ただし。
日本の米とは。
少し違う。
だから。
私の料理スキルで。
最適な炊き方を。
選んだ。
炊き上がった米の上に。
カレーをかける。
湯気が。
立ち上る。
私は。
その皿を。
ルナの前に。
置いた。
「はい」
「……」
ルナが。
目を輝かせる。
「食べていい?」
「もちろん」
「いただきます」
ルナが。
スプーンを。
手に取る。
そして。
一口。
食べた。
「……」
止まった。
「……」
私は。
少し。
心配になる。
「どう?」
「……」
「ルナ?」
「……」
ルナが。
ゆっくり。
顔を上げた。
「……美味しい」
その瞬間。
ルナの顔が。
ぱっと。
明るくなった。
「美味しい!」
「……」
「何これ!」
「カレー」
「カレー……」
「そう」
「美味しい!」
ルナが。
夢中で。
食べ始めた。
私は。
思わず。
笑った。
「そんなに急いで食べたら火傷するわよ」
「だって!」
ルナが。
口いっぱいに。
カレーを頬張る。
「美味しいんだもん!」
「……」
私は。
何だか。
嬉しくなった。
地球にいた頃。
私は。
普通のOLだった。
料理をすることはあった。
でも。
誰かに食べてもらうことなんて。
ほとんどなかった。
それなのに。
異世界へ来て。
魔王の娘に。
自分の料理を食べてもらっている。
人生とは。
本当に。
何が起こるか。
分からない。
「……」
その時。
私は。
気づいた。
ヴァルディアが。
カレーを。
見ている。
「……」
私は。
ヴァルディアを見る。
「食べる?」
『……』
「食べたいんでしょう?」
『……』
「顔に出てるわよ」
『出ていない』
「出てる」
『……』
「ほら」
私は。
カレーを。
ヴァルディアの前に。
置いた。
『……』
ヴァルディアは。
しばらく。
カレーを見る。
そして。
スプーンを。
手に取った。
一口。
食べる。
「……」
ヴァルディアが。
固まった。
「……」
私は。
その顔を。
じっと見る。
「どう?」
『……』
「美味しい?」
『……』
ヴァルディアは。
無言で。
もう一口。
食べた。
そして。
さらに。
もう一口。
「……」
私は。
思った。
これは。
かなり。
気に入ったな。
『……』
「ねえ」
『何だ』
「美味しい?」
『……』
「素直に言えばいいのに」
『……』
「魔王様」
『……』
ヴァルディアは。
しばらく。
黙っていた。
そして。
『美味い』
「……!」
私は。
笑った。
「でしょう?」
『……』
「カレーは美味しいのよ」
『……』
「地球の料理」
『……』
「覚えておいて」
『……ああ』
その時。
宰相が。
静かに。
口を開いた。
「……陛下」
『何だ』
「私にも」
宰相が。
カレーを見る。
「一皿いただけますか」
『……』
ヴァルディアが。
宰相を見る。
私は。
少し。
驚いた。
宰相が。
自分から。
食べたいと言った。
「もちろん」
私は。
皿に。
カレーを盛った。
宰相の前へ。
「どうぞ」
「……」
宰相が。
スプーンを。
手に取る。
そして。
一口。
「……」
宰相の表情が。
変わった。
私は。
それを。
見逃さなかった。
驚き。
戸惑い。
そして。
僅かな。
恐怖。
「……」
私は。
眉をひそめた。
「どうしたの?」
「……」
宰相が。
カレーを見る。
「これは……」
「カレー」
「……」
「知らない料理でしょう?」
「……はい」
宰相が。
ゆっくり。
答える。
「ですが」
「……」
「この味」
宰相が。
私を見る。
「……」
「どこかで」
その瞬間。
私は。
息を止めた。
「食べたことがある」
「……」
私は。
宰相を。
じっと見る。
「……」
「まさか」
宰相が。
小さく。
呟く。
「この料理を」
「……」
「あなたが作ったのですか?」
「そうよ」
「……」
宰相が。
目を細める。
「……そうですか」
「何?」
「いえ」
宰相が。
笑う。
「大変、興味深いと思いまして」
「……」
私は。
警戒した。
「何が?」
「その料理」
「……」
「この世界には存在しない」
「そうね」
「なのに」
宰相が。
私を見る。
「あなたは知っている」
「……」
「この料理を」
「……」
「そして」
宰相が。
静かに。
続ける。
「この料理を知っている者は」
「……」
「この世界には」
宰相の目が。
鋭くなる。
「ほとんど存在しない」
「……」
私は。
言葉を失った。
「……どういう意味?」
私が。
尋ねた。
宰相は。
答えなかった。
その代わり。
「陛下」
ヴァルディアを見る。
「そろそろ」
ヴァルディアが。
眉をひそめる。
『何だ』
「異邦人殿と」
宰相が。
私を見る。
「二人きりで」
「……」
「お話をされてはいかがでしょう」
『断る』
また。
即答だった。
宰相が。
苦笑する。
「しかし」
『断ると言った』
「……」
『ヒヨリは、我の客人だ』
私は。
少し。
驚いた。
ヴァルディアが。
私を。
庇っている。
いや。
庇うというより。
守っている。
私は。
何故か。
胸の奥が。
少しだけ。
温かくなった。
「……」
その時。
私は。
ふと。
気づいた。
宰相の言葉。
この料理を知っている者は。
この世界には。
ほとんど存在しない。
なら。
宰相は。
どこで。
カレーを知った?
そして。
さっき。
宰相は。
この味を。
『どこかで食べたことがある』
そう言った。
つまり。
この世界には。
私以外に。
地球の料理を知る者がいる。
私は。
ゆっくり。
宰相を見た。
「……ねえ」
「何でしょう」
「あなた」
「……」
「地球に行ったことがあるの?」
その瞬間。
宰相の表情が。
完全に。
消えた。
「……」
静寂。
誰も。
何も。
言わない。
ルナが。
不安そうに。
私を見る。
ヴァルディアが。
宰相を見る。
そして。
宰相は。
静かに。
笑った。
「……面白い方ですね」
「……」
「異邦人殿」
私は。
村正の柄に。
触れた。
「質問に答えて」
「……」
宰相は。
しばらく。
私を見つめていた。
そして。
ゆっくり。
口を開いた。
「私は」
その瞬間。
魔王城の。
どこか遠くで。
鐘が鳴った。
ゴーン。
ゴーン。
重い音が。
城内に響く。
宰相は。
その音を聞いて。
微笑んだ。
「……あなたと」
そして。
「よく似た者を」
私は。
息を呑む。
「知っていますよ」
「……」
「秋月燈由殿」
「……」
「あなたが地球から来たことも」
「……」
「あなたがユーノーによって召喚されたことも」
「……」
「そして」
宰相の目が。
鋭く。
私を射抜く。
「あなたが」
その言葉に。
私は。
無意識に。
身構えた。
「五日間という期限を持っていることも」
「……」
私は。
完全に。
動きを止めた。
何故。
知っている。
それは。
私とユーノー。
そして。
天照大神しか。
知らないはずの情報。
いや。
違う。
もう一人。
知っている存在がいる。
ユーノー。
そして。
私。
天照大神。
それ以外に。
この情報を知っている者が。
いる。
「……」
私は。
宰相を。
見つめる。
「あなた」
「……」
「何者?」
宰相は。
微笑んだ。
「それは」
そして。
ゆっくり。
カレーを。
もう一口。
食べた。
「こちらも」
スプーンを。
置く。
「同じ質問をしたいところですね」
「……」
「あなたは」
宰相が。
言った。
「本当に」
そして。
「ただの異邦人なのですか?」
その瞬間。
私は。
初めて。
自分の中にある。
大きすぎる力を。
意識した。
レベル九十九。
異常なステータス。
無限級スキル。
大量のボーナスポイント。
女神チケット。
そして。
天照大神の加護。
私は。
平凡なOLではない。
少なくとも。
この世界では。
もう。
ただの一般人ではない。
それでも。
私は。
答えた。
「……ただの異邦人よ」
「……」
「料理が好きで」
「……」
「ゲームが好きで」
「……」
「たまたま」
私は。
笑った。
「運が良かっただけ」
宰相が。
私を見る。
「……」
そして。
彼は。
小さく。
笑った。
「なるほど」
私は。
思った。
信じていない。
絶対に。
信じていない。
けれど。
私も。
彼のことを。
信じていない。
なら。
今は。
それでいい。
私は。
カレーを。
もう一口。
食べた。
「……」
美味しい。
うん。
やっぱり。
カレーは。
美味しい。
私は。
この世界に来て。
まだ。
何も知らない。
ユーノーが何を隠しているのかも。
天照大神が何を考えているのかも。
この世界が本当にゲームを模した世界なのかも。
そして。
目の前の宰相が。
何者なのかも。
何一つ。
分からない。
けれど。
今は。
それでもいい。
私には。
私のやるべきことがある。
まず。
カレーを完成させる。
そして。
魔王領の人々に。
食べてもらう。
美味しいものを食べれば。
少しだけ。
幸せになれる。
それだけでも。
この世界で。
私ができることは。
きっとある。
そんなことを。
私は。
ぼんやりと。
考えていた。
その時。
ヴァルディアが。
突然。
立ち上がった。
『……決めた』
「……?」
私は。
ヴァルディアを見る。
『この料理を』
「……」
『魔王領全土に広める』
「……」
「……え?」
私は。
固まった。
ルナも。
固まった。
料理人たちも。
固まった。
宰相だけが。
静かに。
笑った。
『ヒヨリ』
「……何?」
『この料理を』
「……」
『我が国の正式な料理にする』
「……」
「……ちょっと待って」
『何だ』
「いやいやいやいや!」
私は。
慌てて。
立ち上がった。
「そんな大げさな話じゃないでしょう!」
『美味い』
「いや」
『ルナも気に入った』
「そうだけど」
『我も気に入った』
「だからって!」
『ならば問題ない』
「問題あるわよ!」
私は。
頭を抱えた。
「私、ただカレーが食べたかっただけなの!」
『……』
「それなのに」
私は。
魔王を見る。
「どうして国家事業になってるのよ!」
ヴァルディアは。
真顔だった。
『美味いからだ』
「……」
私は。
思った。
駄目だ。
この魔王。
食べ物に関しては。
思った以上に。
単純だ。
そして。
その日。
魔王領に。
カレーという。
新たな料理が。
誕生した。
ただし。
この日。
魔王が下した命令によって。
後に。
魔王領の食文化は。
大きく変わっていくことになる。
そして。
その変化は。
やがて。
人間領にまで。
広がっていく。
魔王領で生まれた。
異邦人のカレー。
その料理を求めて。
人間の商人たちが。
魔族領へ訪れるようになり。
敵対していた二つの種族の間に。
奇妙な交流が。
生まれていく。
けれど。
その一方で。
魔王城の地下。
誰も知らない場所では。
古びた魔法陣が。
静かに。
光を放っていた。
その魔法陣の中央に。
一人の少女が。
立っている。
「……」
少女は。
私の作ったカレーの匂いを。
遠くから感じ取ったように。
ゆっくり。
目を開いた。
「……ヒヨリ」
少女が。
呟く。
「やっと」
そして。
微笑む。
「見つけた」
その声は。
誰にも。
届かなかった。
ただ。
少女の足元に浮かんだ魔法陣だけが。
静かに。
青白い光を放っていた。
「今度こそ」
少女は。
小さく。
笑った。
「逃がさないからね」
その頃。
私は。
魔王に。
カレーの大量生産について。
必死に説明していた。
――いや。
本当に。
どうして。
こうなったのだろう。
私は。
ただ。
カレーが。
食べたかっただけなのに。




