第11話 私はただカレーを食べたかっただけなのに
私は、魔王ヴァルディアの発した言葉を聞いた瞬間、自分の耳がおかしくなったのではないかと思った。
いや、正確に言えば、聞き間違いであってほしかった。
何故なら、今この場で私が作ったものは、ただのカレーなのだ。確かに料理MAXというスキルのおかげで、私自身が想像していた以上に完成度の高い料理になったらしいし、ルナもヴァルディアも宰相も、そして厨房にいた料理人たちも食べてくれた。けれど、それはあくまでも私が自分で食べたかったから作った料理であり、魔王領の食文化を改革しようなどという大それた目的があったわけではない。
そもそも私は、料理研究家でもなければ、食品会社の社長でもない。
地球にいた頃は、毎朝決まった時間に起きて会社へ行き、満員電車に揺られ、仕事をして、疲れて帰宅し、スーパーで買った惣菜を食べることもあれば、気が向いたときだけ料理をしていた、ごく普通のOLだった。
そんな私が、異世界に転移した途端、魔王城の厨房を借りてカレーを作り、それを魔王に食べさせた結果、国の正式な料理にするという話になっている。
どう考えても、おかしい。
おかしすぎる。
私は額を押さえながら、目の前にいる魔王を見つめた。
「……魔王様」
『何だ』
「一応、確認しておきたいんだけど」
『うむ』
「今、何て言ったの?」
『だから、この料理を魔王領全土に広める』
「……」
『聞こえなかったのか?』
「聞こえたから確認しているのよ!」
思わず声が大きくなった。
厨房の中にいた料理人たちが、一斉にこちらを見る。
ルナはカレーを食べる手を止め、宰相は相変わらず何を考えているのか分からない笑みを浮かべたまま、私とヴァルディアを交互に見ていた。
私は、深く息を吐いた。
「……どうして?」
『美味いからだ』
「理由が単純すぎない?」
『美味い料理を国民に食べさせる。それの何が悪い』
「いや、悪いとは言ってないけど……」
私は、言葉を探した。
確かに、食文化の発展という意味では悪いことではない。むしろ、美味しい料理が広まることによって、人々の食生活が豊かになるのであれば、それは良いことなのだろう。
けれど、問題はそこではない。
私は、ヴァルディアの言葉を聞いて、別の部分に気づいてしまった。
「……魔王様」
『何だ』
「カレーを魔王領全土に広めるってことは」
『うむ』
「大量生産するってことでしょう?」
『そうなるな』
「香辛料は?」
『……』
「米は?」
『……』
「肉は?」
『……』
「玉ねぎや人参やジャガイモは?」
『……』
私は、じっとヴァルディアを見た。
ヴァルディアも、じっと私を見る。
数秒間、無言の時間が流れた。
そして。
『……宰相』
「はい」
『任せた』
「……」
私は、目を閉じた。
やっぱり。
そうなると思った。
結局、私は巻き込まれるのだ。
魔王は国を治める立場なのだから、国民が食べる料理を決めること自体は、それほど不思議ではないのかもしれない。しかし、問題はその料理を実際に作るための材料や製法をどうするのかという部分であり、そこを考え始めた瞬間、私は確実にこの騒動から逃げられなくなる。
何故なら、カレーを作った本人が私だからだ。
「……」
私は、ゆっくりと宰相を見る。
宰相も、私を見る。
「……」
「……」
「……」
「……何か?」
先に口を開いたのは宰相だった。
「いえ」
私は、にっこり笑った。
「何でもありません」
「そうですか」
「ええ」
「では、ヒヨリ殿」
「……」
「早速ですが、カレーの製法について詳しくお聞かせいただけますか?」
「……」
やっぱり。
私は心の中で叫んだ。
絶対にそうなると思った。
「製法って言われても……」
「材料の配分、調理方法、保存方法、必要な設備、香辛料の調達方法、そして大量生産する場合の工程など、いくつか確認したいことがございます」
「……」
「もちろん、すべてを今すぐ決める必要はございません。ですが、魔王陛下が魔王領全土に広めると決定された以上、具体的な計画を立てる必要がありますので」
宰相は、淡々とそう言った。
私は、もう一度、ヴァルディアを見る。
『……』
ヴァルディアは。
知らん顔をしていた。
「魔王様」
『何だ』
「……」
『何故、我を見る』
「あなたが始めたことでしょう!」
『我は美味いと言っただけだ』
「いや、広めるって言ったでしょう!」
『うむ』
「じゃあ責任を持ってください!」
『だから宰相に任せた』
「……」
私は。
思った。
この魔王。
もしかして。
かなり適当なのではないだろうか。
いや。
魔王という存在に対して、私は勝手にもっと恐ろしい人物を想像していた。
圧倒的な力を持ち、冷酷で、何を考えているのか分からず、部下たちを厳しく統率する絶対的な王。
けれど、実際に会ってみれば、娘のことを大切にしていて、私の料理を気に入り、カレーを食べたら国民にも食べさせたいと言い出す。
思っていた魔王像とは、かなり違う。
むしろ。
少し親しみやすい。
……いや。
だからといって。
カレーを国家事業にするのは。
どうなのだろう。
「……分かったわ」
私は、仕方なく頷いた。
「ただし」
『何だ』
「条件がある」
『言ってみろ』
「カレーを広めるのはいいけど、私を責任者にしないで」
『……』
「私は旅行者なの」
『……』
「この世界を旅したいの」
『……』
「ずっと魔王城に閉じ込められて、カレーの製造管理をするつもりはないから」
ヴァルディアは、黙って私を見ていた。
そして。
『……分かった』
「本当?」
『うむ』
「じゃあ、私は関係ないってことで」
『いや』
「……」
『監修者になれ』
「……」
「それ、関係ないとは言わないでしょう!」
私の叫びが、再び厨房に響いた。
ルナが、楽しそうに笑っている。
私は、そんなルナを見て、少しだけ力が抜けた。
まあ。
いいか。
カレーを作ること自体は嫌いではない。
むしろ。
好きだ。
料理をしている間は、余計なことを考えなくて済む。
この世界に来てから、私はずっと考え続けていた。
ユーノーは何者なのか。
何故、私を召喚したのか。
何故、私に三つのスキルを与えたのか。
何故、地球に五日間という滞在期限が設定されているのか。
そして。
何故、私は女神チケットを手に入れたのか。
天照大神は、何故私を加護したのか。
考え始めれば、疑問はいくらでも湧いてくる。
けれど。
料理をしている間だけは。
そんなことを忘れられる。
包丁を握り、材料を切り、鍋を火にかけ、香りを確認し、味を調整する。
それだけの作業に集中していると、私は地球にいた頃の自分に戻ったような気がするのだ。
だから。
私は。
カレーの監修者になるくらいなら。
まあ。
いいかと思ってしまった。
ただし。
この判断が。
後々。
とんでもない騒動を引き起こすことになるとは。
この時の私は。
まだ。
知らなかった。
翌日。
魔王城の一室に。
私は呼び出されていた。
「……」
目の前には。
大量の書類が積み上げられている。
私は。
それを。
じっと見つめた。
「……何これ?」
「カレー事業に関する書類です」
「……」
私は。
ゆっくり。
宰相を見る。
「昨日の今日よね?」
「はい」
「どうして、もうこんなに書類があるの?」
「必要でしたので」
「……」
私は。
書類を一枚。
手に取った。
魔王領各地の食糧事情。
香辛料の流通経路。
農作物の生産量。
畜産業者の一覧。
魔道具による保存設備。
厨房設備。
料理人の人数。
輸送経路。
……。
「……」
私は。
頭を抱えた。
「本気でやる気なの?」
「魔王陛下のご命令ですので」
「……」
「それに」
宰相は。
私を見た。
「昨日、厨房にいた料理人たちが、すでにカレーを作り始めております」
「え?」
「料理人たちは大変熱心でして」
「……」
「昨夜から、何度も試作を繰り返しております」
「……」
私は。
少しだけ。
嬉しくなった。
「そうなの?」
「はい」
「……」
私は。
書類を見る。
そして。
少しだけ。
考えた。
「だったら」
「……」
「カレーを広めるのは、私が直接やらなくてもいいんじゃない?」
「……」
「料理人たちに任せればいいじゃない」
「もちろん、その予定です」
「なら」
「ですが」
宰相が。
私の言葉を遮る。
「問題が一つございます」
「……何?」
「香辛料です」
「……」
私は。
書類を見る。
そこには。
魔王領で流通している香辛料の一覧が記載されていた。
私は。
それを。
一つずつ確認していく。
クミン。
コリアンダー。
胡椒。
唐辛子。
シナモン。
カルダモン。
クローブ。
ターメリック。
……。
「……」
私は。
気づいた。
「これ」
「はい」
「種類が少ない」
「……」
「というより」
私は。
書類をめくる。
「高い」
「はい」
「ものすごく高い」
「はい」
「これじゃ、庶民は食べられないでしょう」
「……」
宰相は。
黙った。
私は。
カレーを作るときに。
使った香辛料の値段を。
思い出す。
確かに。
高かった。
けれど。
私には。
お金がある。
それも。
ありすぎるほどある。
白金貨二万一五六九枚。
金貨七万四三九九枚。
銀貨九十九万八一九九枚。
銅貨九万八一二七枚。
青銅貨一万二三四六枚。
ゲーム時代に。
散々モンスターを倒し。
クエストをこなし。
ダンジョンを攻略し。
レアアイテムを売り。
貯めに貯めた。
私の財産。
この世界に来てから。
使う機会がほとんどない。
「……」
私は。
ふと。
思った。
これ。
使えるんじゃない?
もちろん。
私が全部お金を出すという意味ではない。
そんなことをしたら。
国が一つ。
私に依存してしまう。
けれど。
問題は。
香辛料そのものが高価であること。
なら。
安く作ればいい。
私は。
スキル欄を見る。
錬金七十一。
そして。
空間支配∞。
解析鑑定∞。
完全記憶∞。
「……」
私は。
少し。
笑った。
「ねえ、宰相」
「はい」
「この世界の香辛料って」
「……」
「栽培できるの?」
「もちろん可能です」
「だったら」
私は。
立ち上がった。
「作りましょう」
「……何を?」
「香辛料」
「……」
「魔王領で」
宰相が。
目を細める。
「……可能なのですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「やったことはないけど」
「……」
「何とかなると思う」
「……」
宰相は。
黙って。
私を見る。
私は。
自分でも。
少しだけ。
嫌な予感がした。
私の。
この。
『何とかなると思う』
という言葉。
今まで。
何度も。
何かを引き起こしている気がする。
けれど。
私は。
立ち上がった。
「まずは畑を見たい」
「……」
「香辛料の栽培に適した土地を探す」
「……」
「それから」
私は。
ふと。
気づいた。
「米」
「……?」
「米も作りましょう」
「……」
「カレーには米が必要だから」
「……」
宰相の顔が。
僅かに。
引きつった。
「……ヒヨリ殿」
「何?」
「あなたは」
「うん」
「本当に」
「……」
「ただカレーを作りたいだけなのですか?」
「……」
私は。
黙った。
「……そうだけど?」
宰相は。
何も言わなかった。
ただ。
深い。
深い。
ため息を吐いた。
その日の午後。
私は。
魔王領の農業地帯へ向かうことになった。
同行するのは。
ルナ。
そして。
何故か。
ヴァルディア。
さらに。
宰相。
……。
「……」
私は。
馬車の中で。
四人の顔を見ながら。
思った。
何故。
魔王が。
自分で。
農地視察に来ているのだろう。
『……』
「……」
『何だ』
「魔王様」
『うむ』
「仕事は?」
『これが仕事だ』
「……」
私は。
納得できなかった。
魔王が。
農地を見ている。
しかも。
カレーのために。
「……」
私は。
窓の外を見る。
魔王領の農地は。
想像していたより。
ずっと広かった。
遠くまで続く畑。
作物を育てる農民。
荷車を引く魔獣。
小さな村。
そして。
その向こうには。
深い森が広がっている。
私は。
その景色を。
じっと見つめた。
ゲームの中では。
この土地は。
単なるフィールドだった。
プレイヤーが歩き。
モンスターを倒し。
アイテムを拾う。
それだけの場所。
けれど。
現実では。
そこに人が暮らしている。
畑を耕している。
作物を育てている。
家族を養っている。
私は。
ふと。
自分の胸の中に。
小さな違和感を覚えた。
この世界は。
本当に。
ゲームなのだろうか。
いや。
ゲームを模した世界。
そう言われている。
でも。
私が知っているゲームの世界とは。
あまりにも。
違いすぎる。
NPCだったはずの人々が。
自分の意思で動いている。
ゲームに存在しなかった料理がある。
ゲームに存在しなかった人物がいる。
そして。
ゲームでは。
魔王城の地下など。
存在しなかった。
「……」
私は。
ふと。
昨夜のことを思い出した。
地下にいた少女。
私のことを知っていた。
そして。
私が地球から来たことを知っていた。
五日間という期限まで。
知っていた。
私は。
少し。
考え込んだ。
「ヒヨリ?」
ルナの声で。
私は。
我に返った。
「何?」
「難しい顔をしてる」
「そう?」
「うん」
「……」
私は。
笑った。
「ちょっと考え事をしていただけ」
「何を?」
「この世界のこと」
「……」
ルナが。
少し。
黙る。
「この世界」
ルナが。
窓の外を見る。
「嫌い?」
「……」
私は。
驚いた。
「どうして?」
「だって」
ルナが。
少し。
寂しそうに。
笑った。
「ヒヨリは、帰りたいんでしょう?」
「……」
私は。
答えられなかった。
地球へ帰りたいか。
そう聞かれれば。
私は。
帰りたい。
家族。
友人。
会社。
自分の部屋。
スマートフォン。
コンビニ。
電車。
当たり前だった日常。
私は。
それらを。
確かに。
恋しく思っている。
けれど。
今。
この世界で。
私は。
少しずつ。
新しいものを。
見つけている。
ルナ。
ヴァルディア。
魔王城の料理人たち。
そして。
この世界の。
まだ見ぬ人々。
私は。
少しだけ。
考えた。
「……帰りたいわよ」
「……」
「でも」
私は。
ルナを見る。
「今すぐじゃなくてもいいかなって」
「……」
ルナの顔が。
少し。
明るくなる。
「本当?」
「うん」
「じゃあ」
ルナが。
嬉しそうに。
笑った。
「カレー」
「……」
「また作ってくれる?」
「……」
私は。
笑った。
「もちろん」
「やった!」
ルナが。
喜ぶ。
その様子を見ながら。
私は。
思った。
もしかしたら。
私は。
この世界に来て。
少しずつ。
居場所を。
見つけ始めているのかもしれない。
その時だった。
突然。
馬車が。
大きく揺れた。
「……!」
私は。
反射的に。
窓の外を見る。
馬車の進行方向。
その先に。
黒い影が。
立っていた。
『止まれ』
ヴァルディアの声が。
低く響く。
馬車が。
停止する。
私は。
すぐに。
解析鑑定を発動した。
――――――――――
【対象:???】
種族:???
レベル:???
状態:敵対
危険度:S
――――――――――
「……」
私は。
目を細めた。
「……S?」
魔王領の。
農地。
街道。
その真ん中に。
一人の少女が。
立っている。
長い銀色の髪。
白い肌。
そして。
私を見つめる。
紫色の瞳。
私は。
息を呑んだ。
昨日。
地下で見た少女。
その少女だった。
「……」
少女が。
笑った。
「見つけた」
私は。
すぐに。
村正へ手を伸ばした。
けれど。
少女は。
私ではなく。
ヴァルディアを見た。
「魔王ヴァルディア」
『……貴様』
ヴァルディアの空気が。
一瞬で。
変わった。
殺気。
それまでの。
穏やかな魔王とは。
まるで違う。
圧倒的な。
威圧感。
私は。
その横顔を見て。
理解した。
この少女。
ヴァルディアが。
知っている。
「……」
少女は。
笑った。
「久しぶり」
『……何故』
「何故って?」
『何故、ここにいる』
「あなたに会いに来たわけじゃない」
少女の視線が。
私へ向く。
「私は」
そして。
少女は。
私を指差した。
「彼女を迎えに来たの」
「……」
私は。
眉をひそめた。
「私?」
「そう」
「何のために?」
「帰すため」
「……」
私の。
心臓が。
大きく。
跳ねた。
「……どこへ?」
少女が。
笑う。
「あなたの世界へ」
「……」
「地球へ」
その言葉を。
聞いた瞬間。
私は。
動けなくなった。
地球。
帰る。
その言葉が。
私の頭の中で。
何度も。
何度も。
繰り返される。
けれど。
私は。
すぐに。
気づいた。
「……どうして?」
「……」
「あなたは」
私は。
少女を見る。
「どうして私を帰せるの?」
少女は。
答えなかった。
「それに」
私は。
続ける。
「私は五日間は地球に滞在できる」
「……」
「その後は強制的にこの世界へ転移する」
「……」
「それは」
私は。
目を細めた。
「ユーノーが決めたことよ」
「……」
「なのに」
私は。
一歩。
前へ出た。
「あなたは」
少女を見る。
「それを覆せるの?」
少女が。
笑う。
その瞬間。
私は。
背筋に。
悪寒を感じた。
「もちろん」
「……」
「だって」
少女が。
ゆっくり。
手を伸ばした。
「私は」
その瞬間。
空間が。
歪んだ。
「ユーノーより」
魔力が。
爆発的に。
膨れ上がる。
「ずっと昔から」
私は。
反射的に。
自分のスキルを。
最大まで。
起動した。
「この世界を知っているもの」
そして。
少女が。
微笑む。
「だから」
私は。
悟った。
この少女は。
ユーノーと。
何か関係がある。
そして。
もしかすると。
私がこの世界に呼ばれた理由も。
私に女神チケットが与えられた理由も。
すべて。
この少女が。
知っているのかもしれない。
「……」
私は。
村正を抜いた。
銀色の刀身が。
陽光を反射する。
少女が。
嬉しそうに。
笑った。
「やっぱり」
その声が。
どこか。
楽しそうだった。
「あなたは」
そして。
「面白い人ね」
私は。
刀を構えた。
「……悪いけど」
「……」
「私は」
地球へ帰ることを。
まだ。
決めていない。
「……」
少女の笑顔が。
初めて。
消えた。
「……どうして?」
「だって」
私は。
自分でも。
不思議なくらい。
自然に。
そう言っていた。
「まだ」
私は。
ルナを見る。
ヴァルディアを見る。
そして。
遠くに広がる。
魔王領の景色を見る。
「カレーを広めてないもの」
「……」
「米も作ってない」
「……」
「香辛料の畑も作ってない」
「……」
「それに」
私は。
笑った。
「この世界」
そして。
「まだ、全然観光してないのよ」
少女が。
呆然と。
私を見る。
ヴァルディアが。
目を閉じた。
ルナが。
吹き出した。
宰相が。
額に手を当てる。
私は。
そんな彼らを見て。
笑った。
地球へ帰る。
それは。
いつか。
必ず考えなければならないことだろう。
けれど。
今は。
まだ。
この世界を。
見ていたい。
美味しいものを食べたい。
知らない場所へ行きたい。
新しいものを作りたい。
そして。
この世界で。
自分が何者なのか。
知りたい。
少女は。
しばらく。
私を見ていた。
そして。
やがて。
小さく。
笑った。
「……やっぱり」
「……」
「あなたは」
少女の紫色の瞳が。
不思議な光を宿す。
「普通の異邦人じゃない」
「……」
「だから」
少女が。
一歩。
後ろへ下がる。
「楽しみにしてる」
「何を?」
「あなたが」
少女が。
微笑む。
「この世界を」
そして。
「どこまで変えるのか」
次の瞬間。
少女の姿が。
光に包まれた。
「待って!」
私は。
叫んだ。
けれど。
少女は。
消えた。
その場に。
静寂だけが。
残る。
「……」
私は。
呆然と。
少女が消えた場所を見る。
「……何だったの?」
誰も。
答えない。
ヴァルディアは。
険しい顔をしていた。
宰相も。
何かを考え込んでいる。
ルナだけが。
不安そうに。
私を見る。
「ヒヨリ」
「……何?」
「大丈夫?」
「……」
私は。
少し。
考えた。
「大丈夫」
そして。
私は。
村正を鞘へ戻した。
「……たぶん」
けれど。
私の胸の中には。
新しい疑問が。
生まれていた。
あの少女は。
何者なのか。
何故。
私を地球へ帰せると言ったのか。
そして。
何故。
ユーノーよりも。
この世界を知っているのか。
私は。
空を見上げた。
青い空。
白い雲。
地球と。
よく似た空。
けれど。
ここは。
地球ではない。
私が。
今。
立っているのは。
MMORPGウォーズを模した。
異世界。
そして。
私は。
その世界で。
魔王の隣に立っている。
何故か。
カレーを広めようとしている。
……。
うん。
やっぱり。
どう考えても。
普通じゃない。
私は。
小さく。
ため息を吐いた。
「……まあ」
私は。
魔王領の農地を。
改めて見渡した。
「まずは」
そして。
「米を作りましょう」
『……』
「香辛料も作る」
『……』
「カレーを広める」
『……』
「その後で」
私は。
少し。
笑った。
「世界の謎を解きましょう」
ヴァルディアが。
私を見る。
『順番が逆ではないか?』
「いいのよ」
『……』
「人生、楽しいことからやったほうがいいでしょう?」
『……』
ヴァルディアは。
しばらく。
私を見つめていた。
そして。
小さく。
笑った。
『……そうだな』
その声を聞きながら。
私は。
ふと。
思った。
地球へ帰ることができる。
そう言われた。
それなのに。
私は。
帰らなかった。
帰ろうと。
しなかった。
その理由を。
私は。
まだ。
自分自身でも。
よく分かっていなかった。
ただ。
何となく。
もう少し。
この世界にいたい。
そう。
思ったのだ。
そして。
その選択が。
私の人生を。
大きく。
変えていくことになる。
魔王領に。
カレーが広まり。
米が栽培され。
香辛料の畑が作られ。
やがて。
人間領との交易が始まる。
その一方で。
私は。
ユーノーと。
天照大神。
そして。
あの少女の。
奇妙な関係に。
少しずつ。
近づいていくことになる。
けれど。
その前に。
私には。
もう一つ。
やらなければならないことがあった。
――五日目。
地球へ戻る日が。
近づいていた。
そして。
私は。
まだ。
知らなかった。
地球へ戻った私を。
待ち受けているものが。
まさか。
あの女神チケットの。
本当の意味に。
繋がっていることを。




