第8話 魔王城に行く前に、まずはカレーを食べたい
魔王領の首都へ向かう道は、私がゲームの中で何度も歩いたことのある場所だった。
もちろん、正確に言えば、今の私はゲームの画面越しに見ていた街道を知っているだけであって、実際にこの場所へ足を運んだ経験があるわけではない。それでも、道の左右に広がる黒々とした森の配置や、遠くに見える岩山の形、街道脇に設置された古びた石柱の位置まで、記憶の片隅に残っている景色と一致していることには、何とも言えない奇妙な感覚を覚えていた。
ゲームの中では、ここはただの移動経路だった。
目的地へ向かうために通過するだけの場所であり、プレイヤーにとっては、モンスターが出現する可能性がある危険地帯という程度の認識しかない。道端に咲く花の名前を気にしたこともなければ、街道の脇に立つ石柱が何のために存在しているのかを考えたこともない。ましてや、そこを歩いている人々が、どんな生活をしているのかなど、考えたことすらなかった。
けれど、今の私は違う。
私の足元には、乾いた土と小石が混じった街道が続き、少し強い風が吹けば、細かな砂埃が舞い上がっている。街道の両脇には背の高い草が生い茂り、その隙間からは小さな動物の気配が感じられ、遠くでは鳥の鳴き声が聞こえていた。
ゲームでは表現されなかった匂いがある。
風の温度がある。
土の感触がある。
そして何より、この世界には、私が知らない人間が生きている。
それを考えると、やはりここはゲームではないのだと改めて思う。
私が知っているのは、あくまで『MMORPGウォーズ』というゲームの情報だけだ。
この世界そのものではない。
「……」
私は歩きながら、隣を見た。
そこにはルナがいる。
そして、その少し後ろには、魔王ヴァルディアがいる。
どうしてこうなった。
本当に、どうしてこうなったのだろう。
昨日まで私は、地球で普通に働いていた。
確かに、仕事は大変だった。
毎日毎日、同じような書類を処理して、上司の機嫌を窺い、定時になっても帰れない日が続き、家に帰れば疲れ果ててゲームを起動する気力すら残っていないこともあった。
それでも、少なくとも魔王と一緒に街道を歩く生活ではなかった。
ましてや、魔王の娘を保護して、その魔王本人から娘を守ってほしいと頼まれるような人生でもなかった。
「……」
私は。
改めて。
後ろを振り返った。
黒い外套を身に纏った魔王が、何食わぬ顔で歩いている。
「……」
いや。
おかしいでしょう。
どうして魔王が徒歩なの?
いや、もちろん、魔王だって歩くのだろう。
でも、もっとこう……あるでしょう。
黒い馬とか。
巨大な魔獣とか。
空を飛ぶドラゴンとか。
そういう、いかにも魔王らしい移動手段が。
なのに。
徒歩。
しかも、私たちの少し後ろを歩いている。
その姿だけを見ると、どこか娘の友人たちに混じって歩く父親のようにも見える。
ただし、世界最強クラスの魔王なので、実際には全然ほのぼのしていない。
「……」
私がじっと見ていると、ヴァルディアがこちらを見た。
『何だ』
「いや」
『……』
「魔王って、徒歩なんだなと思って」
『……』
ヴァルディアが。
無言になった。
「……」
「……」
ルナが。
私の隣で。
小さく笑った。
「ヒヨリ」
「何?」
「お父様は、歩くよ」
「いや、それは知ってるけど」
「……」
「もっとこう、魔王らしい移動方法があるのかと思って」
「魔王らしい移動方法?」
「黒いドラゴンに乗るとか」
「……」
「巨大な魔獣を従えてるとか」
「……」
「空を飛ぶとか」
「……」
ルナが。
ちらりと後ろを見る。
「……お父様」
『何だ』
「ヒヨリが、魔王らしい移動方法で移動してほしいって」
『……』
ヴァルディアが。
私を見る。
「……」
「……」
「いや、違うから」
『何がだ』
「そういう意味じゃないから」
『では、どういう意味だ』
「ただの雑談よ」
『……』
ヴァルディアは。
しばらく私を見ていた。
やがて。
『我は、魔王だ』
「うん」
『だが、歩いてはいけない理由はない』
「……」
『むしろ、魔王だからこそ、徒歩で移動する必要がないと思われることのほうが問題ではないか?』
「……」
確かに。
正論だった。
魔王だから歩いてはいけないという法律はない。
「……ごめん」
『分かればいい』
ヴァルディアは。
そう言って、再び前を向いた。
私は。
何となく。
この魔王のことが少し分かった気がした。
たぶん、この人。
真面目なのだ。
ものすごく真面目。
そして。
たぶん。
冗談が通じない。
「……」
私は。
小さくため息を吐いた。
「ねえ、ヴァルディア」
『何だ』
「さっきの話」
『……』
「ユーノーの話」
その名前を出した瞬間。
ヴァルディアの足が止まった。
ルナも。
私を見る。
私は。
その反応を見逃さなかった。
「やっぱり知ってるのね」
『……』
「ユーノーを」
『……知っている』
ヴァルディアは。
静かに答えた。
「どんな人?」
『……』
「女神?」
『そうだ』
「ウォーズの神?」
『……そうだ』
「私を召喚した女神?」
『……』
今度は。
ヴァルディアが。
完全に黙った。
私は。
その反応を見て。
確信した。
「……知ってるんだ」
『……ああ』
「どこまで?」
『……』
「ユーノーが私を間違って召喚したことも?」
『……』
「私が地球人だってことも?」
『……』
「私が五日間だけ地球に滞在したら、強制的にこの世界へ転移することも?」
『……』
ヴァルディアの表情が。
僅かに変化した。
私は。
その瞬間。
自分の中で何かが繋がった気がした。
「……知らなかった?」
『……』
「あなたは」
私は。
ヴァルディアを見た。
「私が地球人だということは知っていた。でも、私が五日間しか地球にいられないことは知らなかった」
『……』
「違う?」
ヴァルディアは。
答えなかった。
けれど。
それが答えだった。
「……」
私は。
腕を組む。
ユーノー。
この世界の女神。
私を誤召喚した。
そのお詫びとして。
スキルを三つ。
そして。
地球の天照大神から。
女神チケット。
ありとあらゆる願いを叶えることができるチケット。
さらに。
私は。
ボーナスポイントを二百十六万九千ポイントも持っている。
どう考えても。
私は。
やりすぎなくらい優遇されている。
いや。
正確には。
優遇されたというより。
ユーノーが。
罪悪感から。
私にありったけの補償を与えたように見える。
でも。
何かがおかしい。
ユーノーは。
私を召喚したことを。
心の底から後悔しているように見えた。
それなのに。
私を地球へ戻すことはしなかった。
いや。
できなかったのかもしれない。
五日間。
その制限が。
最初から決められていたものなのだとしたら。
「……ヴァルディア」
『何だ』
「ユーノーは」
私は。
ゆっくりと。
尋ねた。
「私を地球に帰せないの?」
『……』
沈黙。
また。
沈黙。
私は。
ため息を吐いた。
「答えられない?」
『……分からない』
「……」
『我は、ユーノーの全てを知っているわけではない』
「でも」
私は。
じっと彼を見る。
「知っていることはある」
『……』
「教えて」
『……』
「お願い」
ヴァルディアは。
しばらく黙っていた。
やがて。
静かに口を開く。
『ユーノーは、この世界の神だ』
「うん」
『だが』
ヴァルディアが。
遠くを見る。
『この世界を創造した神ではない』
「……」
私は。
思わず。
足を止めた。
「……何?」
『この世界は、ユーノーが創造したものではない』
「……」
『我も知らぬ』
「……」
『誰が、この世界を作ったのか』
私は。
何も言えなかった。
風が吹く。
街道脇の草が。
ざわざわと揺れる。
「……ウォーズは」
私は。
言葉を探した。
「ゲームじゃないの?」
『……ゲーム?』
「……」
しまった。
私は。
思わず。
口を閉じた。
ゲーム。
そう。
この世界は。
私が遊んでいたゲーム。
MMORPGウォーズ。
その世界を模した世界。
けれど。
私が地球にいた頃。
ゲームは。
ただのゲームだった。
誰かが作った。
プログラム。
データ。
設定。
物語。
それなのに。
この世界には。
人が生きている。
神がいる。
魔王がいる。
そして。
私がいる。
「……」
私は。
頭を抱えたくなった。
考えれば考えるほど。
分からなくなる。
ゲームの世界なのか。
異世界なのか。
ゲームを模した異世界なのか。
それとも。
ゲームのほうが。
この世界を元に作られたのか。
「……」
最後の可能性を考えた瞬間。
背筋が。
ぞくりとした。
もし。
もしも。
私がプレイしていた『MMORPGウォーズ』が。
この世界を元に作られたゲームだったとしたら。
私が知っているゲームの情報は。
この世界において。
未来の情報になる。
あるいは。
過去の記録になる。
「……」
私は。
ゲームで知っている情報を。
思い出した。
魔王。
勇者。
聖女。
魔族。
人間。
エルフ。
ドワーフ。
様々な国。
様々なダンジョン。
そして。
世界を揺るがす大戦。
ゲームの中では。
それらは。
プレイヤーが楽しむための設定だった。
でも。
もし。
この世界が。
ゲームの元になった世界なのだとしたら。
それは。
ただの設定ではない。
実際に。
誰かが。
生きた歴史なのだ。
「……」
私は。
思わず。
ルナを見る。
ルナは。
私の顔を見ていた。
「ヒヨリ?」
「……何でもない」
私は。
笑った。
今は。
考えても仕方がない。
分からないことは。
分からない。
なら。
私は。
私にできることをするだけだ。
そのためにも。
「ねえ、ヴァルディア」
『何だ』
「あなた」
私は。
再び。
尋ねた。
「ユーノーと会ったことがあるの?」
『……ある』
「いつ?」
『……数百年前だ』
「……」
私は。
絶句した。
「数百年前?」
『そうだ』
「ユーノーって」
私は。
思わず。
眉をひそめる。
「そんなに長生きなの?」
『神だぞ』
「あ」
そうだった。
神だった。
「……じゃあ」
私は。
考える。
「ユーノーは、あなたに何をしたの?」
『……』
ヴァルディアの表情が。
変わった。
その瞬間。
私は。
直感的に。
分かった。
これは。
聞いてはいけない話なのかもしれない。
けれど。
ヴァルディアは。
静かに口を開いた。
『……昔』
「……」
『我は、まだ魔王ではなかった』
「……」
『魔族の王子だった』
私は。
黙って聞く。
『我が父は、先代の魔王だった』
「……」
『そして』
ヴァルディアが。
遠い記憶を見るように。
目を細める。
『ユーノーは、我が父を殺した』
「……」
私は。
言葉を失った。
「……え?」
『先代魔王を殺したのは、ユーノーだ』
「……」
『そして』
ヴァルディアが。
私を見る。
『その後』
低い声で。
『我に魔王の座を与えた』
「……」
「……何それ」
私は。
思わず。
呟いた。
意味が分からない。
ユーノーが。
魔王の父親を殺した。
そして。
その息子に。
魔王の座を与えた。
何故。
どうして。
何のために。
「……」
私は。
考えた。
「ヴァルディア」
『何だ』
「あなた」
私は。
慎重に。
尋ねる。
「ユーノーを恨んでる?」
『……』
ヴァルディアは。
答えなかった。
ただ。
しばらく。
空を見上げた。
『……恨んでいる』
その声は。
静かだった。
『だが』
そして。
『同時に、感謝もしている』
「……」
私は。
何も言えなかった。
『我が父を殺したのは、ユーノーだ』
「……」
『だが』
ヴァルディアが。
拳を握る。
『我が父を殺さなければ』
「……」
『我は、魔王にはなれなかった』
「……」
『そして』
ヴァルディアが。
ルナを見る。
『ルナも生まれなかった』
「……」
私は。
ルナを見る。
ルナは。
何も知らなかったのか。
驚いた顔で。
父親を見ている。
「……」
その時だった。
街道の先。
遠くに。
巨大な城壁が見えてきた。
「……」
魔王領首都。
その姿は。
ゲームの画面で見ていたものより。
遥かに大きかった。
巨大な城壁。
その上に。
黒い旗が。
何本も翻っている。
そして。
城壁の向こう側。
遥か彼方に。
巨大な魔王城が見える。
黒い塔。
尖った屋根。
空へ突き刺さるような。
巨大な建物。
「……」
私は。
思わず。
立ち止まった。
「すご……」
ゲームでは。
何度も見た。
何度も攻略した。
何度も。
その場所へ向かった。
なのに。
実際に。
目の前にすると。
まったく違う。
圧倒される。
「……」
ルナが。
私の顔を見た。
「ヒヨリ」
「何?」
「怖い?」
「……」
私は。
少しだけ。
考えた。
「怖い」
「……」
「でも」
私は。
笑った。
「楽しみでもある」
「……」
ルナは。
少し。
困ったように。
笑った。
「変なの」
「よく言われる」
『……』
後ろから。
ヴァルディアの。
ため息が聞こえた。
「……何よ」
『いや』
「……」
『貴様は』
ヴァルディアが。
私を見る。
『本当に、異邦人なのだな』
「どういう意味?」
『普通の人間ならば』
「……」
『魔王城を見て、楽しみなどとは言わん』
「……」
私は。
少し。
考えて。
「だって」
私は。
魔王城を見る。
「行ったことない場所って、行ってみたくならない?」
『……』
「それに」
私は。
指を一本。
立てた。
「魔王城って、普通に考えたら貴重な観光スポットよ」
『……』
「ゲームじゃない本物の魔王城」
『……』
「これは行くしかないでしょう」
『……』
ヴァルディアが。
完全に。
呆れた顔をした。
「……何よ」
『……何でもない』
ルナが。
また。
笑った。
そして。
私たちは。
首都の門へと向かっていった。
しかし。
その時。
私は。
ふと。
妙な違和感を覚えた。
「……」
街の様子がおかしい。
人が。
少ない。
魔王領の首都。
それも。
これだけ巨大な都市なら。
本来。
もっと多くの人がいるはずだ。
ゲームでは。
大勢のNPCが。
街を歩いていた。
商人。
冒険者。
兵士。
住民。
様々な種族。
それなのに。
今は。
妙に静かだった。
「……」
私は。
周囲を見る。
門の近くに。
数人の兵士が立っている。
けれど。
彼らは。
私たちを見ると。
明らかに。
怯えた。
「……?」
私は。
眉をひそめる。
そして。
一人の兵士が。
ヴァルディアを見た。
その瞬間。
兵士が。
跪いた。
「魔王様!」
声が。
響く。
周囲の兵士たちが。
一斉に。
跪いた。
『……』
ヴァルディアは。
何も言わない。
私は。
その光景を見て。
思った。
やっぱり。
この人。
魔王なんだ。
普段。
私たちと一緒に歩いていると。
ただの無口な父親にしか見えない。
でも。
この人は。
魔王。
この国の頂点。
そして。
この国の兵士たちが。
恐れる存在。
その時。
一人の兵士が。
私を見た。
「……」
その顔が。
青ざめる。
私は。
嫌な予感がした。
「……何?」
兵士が。
震えながら。
口を開く。
「そ、その方は……」
私を。
指差す。
「……」
ヴァルディアが。
振り返る。
「……」
ルナも。
私を見る。
そして。
兵士が。
呟いた。
「天照大神の……」
その言葉を。
聞いた瞬間。
空気が。
変わった。
ヴァルディアの表情が。
険しくなる。
「……」
私は。
兵士を見る。
「今」
私は。
ゆっくり。
尋ねた。
「何て言った?」
「……」
兵士が。
怯える。
「天照大神の……」
「……」
私は。
息を呑んだ。
どうして。
この世界の兵士が。
地球の神の名前を知っている?
私の加護。
それを。
どうして。
「……」
私は。
ヴァルディアを見る。
「あなた」
『……』
「これ」
『……』
「どういうこと?」
『……』
ヴァルディアは。
答えなかった。
その代わり。
彼は。
兵士へ向かって。
低い声で。
尋ねた。
『誰から聞いた』
「……」
兵士の顔が。
青ざめた。
『答えろ』
「……」
兵士が。
震える。
そして。
「……宰相閣下です」
『……』
ヴァルディアの。
赤い瞳が。
鋭くなる。
「……」
私は。
その瞬間。
理解した。
魔王軍の中にいる。
裏切り者。
そして。
私の存在を。
知っている人物。
さらに。
天照大神の名前を知っている人物。
その人物は。
魔王城の中にいる。
「……」
私は。
小さく。
笑った。
「……なるほど」
「ヒヨリ?」
ルナが。
私を見る。
「どうしたの?」
「ううん」
私は。
村正の柄に。
手を置いた。
「ちょっと」
私は。
魔王城を。
見上げた。
「面白くなってきたなって」
ヴァルディアが。
私を見る。
『……貴様』
「何?」
『その顔はやめろ』
「……」
『何か企んでいる顔だ』
「失礼ね」
『……』
「私は」
私は。
にっこり。
笑った。
「ただ、魔王城を見学したいだけよ」
『……』
ヴァルディアは。
深いため息を吐いた。
しかし。
その顔には。
僅かな警戒が浮かんでいる。
当然だ。
私も。
警戒している。
この街は。
何かがおかしい。
私たちは。
魔王城へ向かう。
そこには。
魔王の娘を狙う裏切り者がいる。
そして。
私の存在を。
知っている者がいる。
しかも。
その者は。
地球の神。
天照大神の名前を知っている。
それは。
つまり。
この世界には。
私以外にも。
地球を知る存在がいる可能性があるということだ。
私は。
知らなければならない。
この世界のこと。
ユーノーのこと。
天照大神のこと。
そして。
私が。
なぜ。
ここにいるのか。
その答えを。
私は。
必ず見つける。
たとえ。
その答えが。
私が思っている以上に。
残酷なものだったとしても。
私は。
歩みを止めない。
そして。
その頃。
魔王城の最上階。
誰も立ち入ることを許されない部屋で。
一人の男が。
窓の外を見ていた。
黒い髪。
細身の身体。
整った顔立ち。
その男は。
魔王城へ入ってくる三人の姿を。
遠くから。
見つめていた。
「……来たか」
男は。
小さく。
呟いた。
「異邦人」
その手には。
一枚の紙がある。
そこに。
私の名前が。
書かれていた。
秋月燈由。
ヒヨリ。
魔族。
レベル九十九。
そして。
その下には。
私が知らない情報が。
記されている。
『地球神・天照大神の加護』
『異世界転移者』
『女神ユーノーによる誤召喚』
『五日間の地球滞在制限』
男は。
その情報を。
静かに見つめる。
「……ユーノー」
男の口元が。
歪む。
「また、余計なことをしたな」
その声には。
明確な怒りが。
込められていた。
男は。
窓の外を見る。
魔王。
ルナ。
そして。
私。
三人の姿。
「……」
男は。
小さく。
笑った。
「だが」
その瞳が。
怪しく光る。
「これは、使える」
男は。
手にしていた紙を。
燃やした。
炎が。
紙を包む。
そして。
灰になった瞬間。
「天照大神の加護を持つ異邦人」
男は。
静かに。
呟いた。
「お前が、この世界に何をもたらすのか」
そして。
「見せてもらおう」
その頃。
何も知らない私は。
「……ねえ、ルナ」
「何?」
「カレー」
「……」
「どこで食べられる?」
「……」
ルナが。
きょとんとした。
「魔王城に行くんじゃないの?」
「その前に」
私は。
真剣な顔で。
言った。
「お腹を満たしておきたい」
『……』
後ろから。
ヴァルディアの。
深いため息が。
聞こえた。
「だって」
私は。
振り返る。
「魔王城に入ったら、いつ食べられるか分からないじゃない」
『……』
「戦いになるかもしれないし」
『……』
「暗殺されるかもしれないし」
『……』
「最悪、魔王城から逃げることになるかもしれない」
『……』
「だったら」
私は。
胸を張った。
「今のうちに食べておくべきでしょう?」
ヴァルディアは。
しばらく。
私を見つめた。
そして。
静かに。
『……分かった』
「本当?」
『ああ』
「じゃあ」
私は。
笑った。
「カレーを食べましょう」
ルナが。
嬉しそうに。
笑う。
しかし。
その瞬間。
ヴァルディアが。
ぽつりと。
呟いた。
『……この国に、カレーという料理はないが』
「……」
「……」
「……」
私は。
固まった。
「……」
ルナを見る。
「……」
ルナも。
私を見る。
「……」
ヴァルディアを見る。
『……』
ヴァルディアも。
私を見る。
「……」
私は。
ゆっくり。
笑った。
「……そう」
『……』
「ないのね」
『……』
「カレーが」
『……』
「……」
私は。
拳を握った。
そして。
決意した。
「じゃあ」
私は。
魔王領首都を。
見渡す。
「作るしかないじゃない」
『……』
ヴァルディアの。
顔が。
引きつった。
「ヒヨリ?」
ルナが。
不思議そうに。
私を見る。
「カレーって」
「美味しいの?」
「美味しいわよ」
「……」
「食べたことない?」
「うん」
私は。
少し。
考えた。
「じゃあ」
私は。
笑った。
「この世界で最初のカレーを、あなたに食べさせてあげる」
「……!」
ルナの瞳が。
輝く。
その横で。
ヴァルディアが。
何かを察したように。
目を閉じた。
『……』
「……何よ」
『いや』
ヴァルディアは。
静かに。
言った。
『我が娘を頼む』
「……」
『本当に』
「……」
『本当に、頼む』
「……」
私は。
その言葉の意味を。
まだ。
完全には理解していなかった。
この時の私は。
まだ。
知らなかった。
魔王領首都に。
私が持ち込んだ『カレー』が。
後に。
魔族と人間の関係すら変えるほどの。
大騒動を引き起こすことになることを。
そして。
魔王城へ入った私が。
そこで。
ユーノーの秘密を知ることになることを。
さらに。
魔王の娘であるルナが。
この世界の未来を左右する。
とんでもない秘密を抱えていることを。
この時の私は。
何も知らなかった。
ただ。
私は。
カレーが食べたかった。
そして。
この世界には。
カレーがなかった。
だから。
私は。
決めた。
魔王城へ行く前に。
まずは。
カレーを作ろう。
それが。
私の。
異世界生活における。
新たな一歩だった。




