第4話 森の奥で出会ったのは、ゲームには存在しなかった少女だった
森の奥から聞こえてきた声は、確かに誰かが助けを求めているものだった。
けれど、その声だけを聞いて、すぐに駆け出すほど私は無鉄砲ではない。むしろ、異世界へ来たばかりの人間としては、これでもかなり慎重な方だと思う。
何しろ、ここは地球ではない。
私が五日間をかけて準備したとはいえ、実際にこの世界へ降り立ってから、まだ一時間も経っていないのだ。しかも、私が今いるのは魔族領の辺境にあるという森であり、ユーノーの説明によれば、どうやら人里からもかなり離れているらしい。
そんな場所で、突然聞こえてきた「誰か助けてくれ」という声。
普通に考えれば、罠を疑うべきだろう。
ゲームでは、こういう場面は大抵イベントの始まりだ。
困っているNPCを助ける。
クエストを受注する。
敵を倒す。
報酬をもらう。
そして次のイベントへ。
『ウォーズ』を何年もプレイしてきた私にとって、そんな展開は珍しくもなんともなかった。
しかし。
ここはゲームではない。
少なくとも、今の私にとっては。
「……」
私は、木の陰に身を隠したまま、索敵スキルの範囲を広げた。
意識を集中させる。
視界が一瞬だけ切り替わり、森の中に存在する生命反応が、淡い光のような情報となって浮かび上がった。
一つ。
二つ。
三つ。
いや。
もっといる。
「……結構いるわね」
私は小さく呟いた。
声の方向には、複数の反応が存在していた。
その中には、先ほど倒したグレイウルフよりも強い存在がいる。
レベル二十。
三十。
四十。
そして。
「……六十?」
私は思わず眉をひそめた。
森の奥にいる生命反応の一つだけ、明らかに他とは違う。
レベル六十。
一般的な冒険者で言えば、Aランクに近い領域。
ゲーム内でも、決して弱いモンスターではない。
しかし。
私のレベルは九十九だ。
しかも、私がゲーム時代に使っていたキャラクターは、単純なレベルだけで強さを測れるような存在ではなかった。
装備。
ステータス。
スキル。
ボーナスポイント。
それらを積み重ねた結果として、私はゲーム内でほとんど無敵に近い状態まで育て上げていた。
だから。
レベル六十程度のモンスターが何体いたところで、私にとっては脅威にならない。
問題は。
そこにいる連中が何者なのか。
そして。
助けを求めているのは誰なのか。
「……解析鑑定」
私は小さく呟いた。
瞬間。
視界に表示された情報が一気に増えた。
名前。
種族。
レベル。
状態。
装備。
スキル。
さらには。
敵意の有無。
私に向けられている感情。
そのすべてが。
まるで透明な文字として浮かび上がってくる。
「……」
私は。
言葉を失った。
そこにいたのは。
モンスターではなかった。
「……魔族?」
私は、思わず呟いた。
複数の反応。
そのほとんどは魔族だった。
しかも。
私がゲーム内で見たことのある種族とは違う。
魔族。
という大きな括りの中に、さらに細かな種族が存在している。
獣人。
角人。
翼人。
そして。
見たことのない種族。
その中に。
一人だけ。
私の視線を引きつける存在がいた。
少女。
年齢は。
おそらく十代半ば。
黒い髪。
小柄な身体。
そして。
頭の両側から伸びた小さな角。
彼女の服はところどころ破れていて、身体にはいくつもの傷がある。
手には短剣。
しかし。
その短剣を握る手は震えていた。
彼女は。
何かから逃げている。
そして。
彼女の背後には。
巨大な魔物がいた。
「……なるほど」
私は理解した。
先ほど聞こえてきた「助けてくれ」という声。
あれは。
彼女のものだ。
そして。
その少女を追いかけているのが。
レベル六十の存在。
「……」
私は。
もう一度。
少女を見た。
解析鑑定によって表示された名前。
種族。
能力。
状態。
そのすべてを確認する。
そして。
私は。
目を疑った。
「……該当データなし?」
おかしい。
解析鑑定∞。
このスキルならば、基本的にほとんどすべての情報を読み取れるはずだ。
ゲーム内のNPC。
モンスター。
アイテム。
地形。
魔法。
スキル。
何でも。
しかし。
この少女には。
名前だけしか表示されない。
それどころか。
種族の情報が。
不完全だった。
私は。
思わず目を細めた。
「……何なの、この子」
私がそう呟いた。
その瞬間。
「――――っ!」
少女が。
こちらを見た。
「え?」
私は。
驚いた。
隠密MAX。
隠蔽MAX。
さらに。
気配を完全に消している。
ゲーム内では。
私のキャラクターを発見できる存在など、ほとんどいなかった。
なのに。
少女は。
こちらを見ている。
「……誰?」
少女の声が聞こえた。
その声は。
震えていた。
恐怖。
警戒。
そして。
ほんの少しの。
期待。
私は。
木の陰から。
ゆっくりと姿を現した。
「こんにちは」
「……」
少女の身体が強張る。
私は。
両手を上げた。
「敵じゃないわ」
「……」
「あなたが助けを求めている声が聞こえたから」
「……あなたは」
「私?」
私は。
少し考えた。
「秋月燈由」
地球での名前を。
そのまま名乗った。
しかし。
この世界では。
それだけでは不自然だ。
だから。
「……ヒヨリ」
私は。
ゲーム内で使っていた名前を続けた。
「ヒヨリって呼んで」
「ヒヨリ……」
少女が。
小さく呟いた。
その瞬間。
背後から。
巨大な咆哮が響いた。
「――――グオオオオオオオオオッ!」
森全体が。
震えた。
木々の葉が。
一斉に揺れる。
私は。
振り返った。
「……」
そこにいた。
巨大な魔物。
四本の脚。
黒い毛皮。
口元から伸びた鋭い牙。
額には。
二本の角。
そして。
レベル。
「……六十」
私は。
解析鑑定を発動した。
名前。
ブラックファング。
レベル六十。
危険度。
A。
攻撃力。
高。
防御力。
高。
速度。
高。
特殊能力。
狂化。
再生。
魔力耐性。
「……」
私は。
思った。
ゲーム内なら。
中ボス級。
初心者なら。
絶対に戦ってはいけない相手。
しかし。
私は。
妖刀村正の柄に。
手を置いた。
「ヒヨリさん!」
少女が。
叫んだ。
「逃げて!」
「……」
「そいつは強い!」
「うん」
「あなた一人じゃ――」
「大丈夫」
「え?」
私は。
少女を見た。
「私、強いから」
「……」
少女が。
目を見開く。
ブラックファングが。
こちらへ向かって。
走り出した。
大地が。
揺れる。
私は。
一歩。
前へ出た。
妖刀村正を。
抜く。
その瞬間。
刀身から。
禍々しい魔力が。
溢れ出した。
「……」
ブラックファングが。
飛びかかってくる。
私は。
右足を。
一歩。
後ろへ引いた。
そして。
刀を。
振る。
ただ。
それだけ。
だった。
「――――」
音が。
消えた。
ブラックファングの身体が。
宙を舞う。
巨大な身体が。
木々をなぎ倒し。
地面を転がった。
私は。
刀を。
鞘へ戻した。
「……」
静寂。
森が。
静かになった。
私は。
倒れた魔物を。
見た。
そして。
ステータス画面が。
浮かび上がる。
『ブラックファングを討伐しました』
『経験値を獲得しました』
『経験値倍化∞が発動します』
『成長促進∞が発動します』
『レベル上限に到達しています』
『ボーナスポイントを獲得しました』
「……」
また。
ポイントが増えた。
私は。
思わず。
笑ってしまった。
「……なるほど」
これ。
結構。
楽しいかもしれない。
「……すごい」
背後から。
少女の声がした。
私は。
振り返った。
少女は。
呆然とした顔で。
私を見ている。
「今の……」
「うん」
「一撃……?」
「そうね」
「レベル六十のブラックファングを?」
「そうね」
「一撃で……?」
「そうね」
少女が。
絶句した。
私は。
少しだけ。
気まずくなった。
「……えっと」
私は。
苦笑した。
「大丈夫?」
「……」
「怪我」
「……」
「痛いでしょう?」
「……」
少女は。
ようやく。
我に返った。
「……痛い」
「じゃあ」
私は。
アイテムボックスを開いた。
そして。
ポーションを取り出した。
「これ」
「……」
「飲んで」
「……」
少女は。
警戒した。
私は。
少し考えた。
「怪しい?」
「……少し」
「まあ、そうよね」
私は。
ポーションを。
自分で飲んだ。
そして。
空になった瓶を。
少女に見せる。
「毒じゃないわ」
「……」
「ただの回復薬」
私は。
もう一本。
取り出した。
「飲める?」
少女は。
恐る恐る。
手を伸ばした。
そして。
ポーションを受け取った。
「……」
しばらく。
瓶を見つめる。
それから。
意を決したように。
飲んだ。
瞬間。
「……!」
少女の身体が。
淡い光に包まれた。
傷が。
消えていく。
切り傷。
打撲。
擦り傷。
それらが。
瞬く間に。
消えていった。
「……え?」
少女が。
自分の腕を見る。
「傷が……」
「回復した?」
「……」
少女が。
呆然とした。
私は。
頷いた。
「よかった」
私は。
そう言った。
そして。
少女の名前を。
改めて。
確認した。
「あなた」
「……」
「名前は?」
「……」
少女は。
しばらく。
黙っていた。
そして。
やがて。
小さな声で。
答えた。
「……ルナ」
「ルナ?」
「うん」
私は。
笑った。
「よろしく、ルナ」
「……」
「私はヒヨリ」
「……」
「さっきも言ったけど」
「……」
「よろしくね」
ルナは。
何かを。
考えているようだった。
そして。
ゆっくりと。
頭を下げた。
「……よろしく」
その声は。
まだ。
警戒していた。
しかし。
ほんの少しだけ。
安心しているようにも。
聞こえた。
私は。
そのとき。
ふと。
疑問に思った。
「ルナ」
「何?」
「あなた」
「……」
「どうして、こんな森の中にいるの?」
「……」
ルナの顔が。
曇った。
「……逃げてきた」
「何から?」
「……」
答えない。
私は。
無理に聞かなかった。
こういう話は。
本人が。
話したくなったときに。
聞けばいい。
しかし。
私は。
別のことが。
気になっていた。
「ルナ」
「何?」
「あなた」
私は。
ルナを。
じっと見た。
「この森のこと」
「……」
「詳しい?」
「……まあ」
「じゃあ」
私は。
笑った。
「お願いがあるんだけど」
「何?」
「この辺りに」
私は。
周囲を。
見渡した。
「安全に寝られる場所って、ある?」
「……え?」
「私、今日から異世界生活を始めたばかりなのよ」
「……」
「右も左も分からなくて」
「……」
「できれば」
私は。
苦笑した。
「街とか村とか、案内してもらえると助かるんだけど」
「……」
ルナは。
しばらく。
私を見た。
そして。
「……あなた」
「うん」
「異世界って」
「うん」
「何?」
「……」
私は。
固まった。
しまった。
そうだった。
私は。
普通に。
言ってしまった。
ここは。
私にとっては。
異世界。
しかし。
この世界の人間にとっては。
当然。
異世界ではない。
「……」
私は。
必死に。
頭を回転させた。
そして。
「……遠い国の出身なの」
「遠い国?」
「そう」
「どこ?」
「……」
私は。
少し考えた。
「日本」
「……」
「……」
「……」
ルナが。
首を傾げた。
「聞いたことない」
「でしょうね」
「どこにあるの?」
「遠いところ」
「どれくらい?」
「……ものすごく遠い」
「……」
ルナは。
納得していない。
しかし。
それ以上。
追及しなかった。
「……まあ、いい」
「助かるわ」
私は。
胸を撫で下ろした。
その瞬間。
ルナが。
私を見上げた。
「ヒヨリ」
「何?」
「あなた」
「うん」
「どうして」
ルナが。
小さな声で。
尋ねた。
「私を助けたの?」
「……」
私は。
少し。
考えた。
正直。
理由なんて。
なかった。
声が聞こえた。
だから。
助けた。
ただ。
それだけ。
「……なんとなく」
「なんとなく?」
「うん」
私は。
笑った。
「助けてって言われたから」
「……」
「だから助けた」
「……」
ルナは。
黙った。
そして。
俯いた。
「……変なの」
「そう?」
「普通は」
「うん」
「魔族同士でも、助けない」
「……」
私は。
その言葉に。
少し。
違和感を覚えた。
「……どういうこと?」
「……」
「魔族って」
私は。
ルナを見た。
「仲間同士で、助け合わないの?」
「……」
ルナは。
しばらく。
黙っていた。
そして。
やがて。
小さな声で。
言った。
「……今の魔族領では」
その言葉の続きを。
ルナは。
なかなか。
口にしなかった。
けれど。
やがて。
「強い者が、弱い者を利用する」
そう。
呟いた。
「弱い者は、強い者に従う」
「……」
「逆らえば」
ルナの手が。
震えた。
「殺される」
私は。
黙った。
ゲームの中の。
ウォーズでは。
魔族は。
単純な敵勢力だった。
魔王軍。
魔族領。
人間領。
それぞれの勢力が。
戦争をしている。
ただ。
それだけだった。
けれど。
現実の。
この世界では。
違う。
魔族にも。
生活がある。
家族がいる。
友人がいる。
弱い者がいる。
強い者がいる。
そして。
権力がある。
政治がある。
争いがある。
ゲームでは。
描かれなかった。
世界。
私は。
初めて。
この世界が。
本当に。
生きている世界なのだと。
実感した。
「……ルナ」
「何?」
「あなたは」
「……」
「どうして追われていたの?」
ルナは。
黙った。
そして。
私を。
見上げた。
「……私」
その瞳に。
恐怖が浮かんだ。
「魔王様に」
私は。
息を呑んだ。
「追われているの」
「……」
魔王。
その名前を。
私は。
知っている。
ゲームの中でも。
ウォーズ世界の。
最強クラスの存在。
魔王。
その名前を。
ルナは。
口にした。
「……どうして?」
「……」
ルナは。
答えない。
私は。
無理に聞かなかった。
ただ。
そのとき。
私は。
一つだけ。
気が付いた。
解析鑑定∞で。
ルナの情報を。
読み取れなかった理由。
もしかすると。
彼女は。
普通の魔族ではない。
そして。
私は。
まだ。
知らなかった。
ルナという少女が。
この世界の歴史において。
決して無視できない存在であることを。
彼女が。
魔王から追われる理由。
そして。
私が。
この世界へ転移した本当の意味。
それらが。
やがて。
一つに繋がっていくことを。
私は。
まだ。
知らない。
「……ヒヨリ」
「ん?」
ルナが。
私の袖を。
そっと掴んだ。
「……お願い」
「何?」
「私を」
ルナの声が。
震えた。
「連れて行って」
私は。
黙った。
「どこへ?」
「……どこでもいい」
「……」
「この森から」
ルナが。
私を見上げた。
「連れて行って」
私は。
その瞳を見た。
そして。
思った。
面倒事には。
関わらない。
そう。
決めていたはずだった。
なのに。
私は。
もう。
ルナの手を。
振り払うことが。
できなくなっていた。
「……分かった」
私は。
頷いた。
「じゃあ」
私は。
笑った。
「一緒に行こう」
その瞬間。
ルナの顔に。
初めて。
笑顔が浮かんだ。
そして。
森の奥。
遠く離れた場所で。
何かが。
こちらを。
見ていた。
人間でもない。
魔族でもない。
モンスターでもない。
その存在は。
私とルナの姿を。
静かに。
見つめていた。
そして。
誰にも聞こえない声で。
呟いた。
「……異邦人」
その声は。
森の風に。
消えていった。
「まさか」
その存在は。
私の姿を。
見つめ続ける。
「……天照大神の加護を持つ者が」
そして。
静かに。
笑った。
「この世界へ来るとはな」
その瞬間。
私は。
まだ知らなかった。
私の異世界転移が。
単なる召喚事故ではないことを。
そして。
ユーノーが。
私に。
決して話していない。
ウォーズ世界の。
もう一つの秘密が。
存在していることを。




