第3話 いざ、ウォーズの世界へ――魔族領の森で始まる異世界放浪
異世界へ旅立つ前日の夜というものが、もっと劇的なものになるのだと、私は勝手に思い込んでいた。
例えば、突然空から神々しい光が降り注いだり、部屋いっぱいに魔法陣が浮かび上がったり、ユーノーが再び現れて「いよいよですね!」などと妙に明るい声を掛けてきたり、そういう分かりやすい異変が起こるものだと思っていたのである。
しかし、現実というものは、案外あっさりしている。
私が最後に見た地球の夜は、いつもと何も変わらなかった。
窓の外では、遠くを走る車のライトが道路を流れていて、近所の建物から漏れる明かりがところどころに浮かび、夜空には都会特有の薄い光が広がっている。耳を澄ませば、どこか遠くから電車が走る音が聞こえてきて、その音は私が生まれてから何度も聞いてきた、あまりにも日常的な音だった。
私は、そんな景色を眺めながら、何もない部屋の中央に立っていた。
五日前まで、ここにはベッドがあった。
机もあった。
テレビもあった。
本棚もあった。
クローゼットの中には服が詰め込まれていて、キッチンには食器が並び、冷蔵庫の中には仕事から帰った私が適当に食べるための食料が入っていた。
それらは今、すべて私の空間支配によって作り出した収納空間の中にある。
必要なものは、ほぼ全部入れた。
家具。
衣類。
日用品。
食料。
調味料。
調理器具。
工具。
医薬品。
電化製品。
生活に必要そうなものは、思いつく限り買い込んだ。
さすがに五日間で一生分の物資を集めることはできなかったが、それでも普通の人間ならば一人では到底持ち運べない量を収納できたのだから、空間支配∞というスキルには感謝しかない。
そして、最後に残ったものがある。
それは。
私自身だった。
私は、床に置いたスマートフォンを拾い上げた。
画面を見る。
時刻は、夜十一時五十七分。
日付が変わるまで、あと三分。
私は、スマートフォンに保存されている写真を眺めた。
特別な写真ではない。
旅行に行ったときの写真。
友人と食事をしたときの写真。
会社の飲み会で撮った写真。
家族と撮った写真。
そして。
何でもない日常を撮った写真。
その一枚一枚を見ていると、不思議な気持ちになった。
明日から。
私は、この世界を離れる。
もちろん、完全に戻れないわけではない。
ユーノーの話では、ウォーズの世界へ転移した後でも、再び地球へ戻ることは可能だという。
だから、永遠の別れというわけではない。
それでも。
私は、今までと同じようには生きられない。
少なくとも。
明日からは。
「……異世界か」
私は、スマートフォンを胸元に抱えた。
その言葉を口にすると、妙に現実味が増した。
私はこれから、ゲームの世界へ行く。
私が何年も遊んだMMORPG『ウォーズ』。
剣と魔法が存在し、魔物が存在し、冒険者が存在し、国と国が争い、勇者と聖女が物語の中心に立ち、魔王が世界の脅威として語られる世界。
そこへ。
私は行く。
ただし。
私は勇者ではない。
聖女でもない。
特別な使命を背負った英雄でもない。
私は。
ただのOLだ。
いや。
正確には。
魔族の姿をした、元OLだ。
「……どう考えても、普通じゃないな」
自分で言って。
少し笑った。
普通ではない。
それは、間違いない。
けれど。
不思議と恐怖はなかった。
もちろん、最初にユーノーから異世界転移を告げられたときは、怒りもしたし、困惑もした。
なぜ自分なのか。
なぜ異世界なのか。
なぜ魔族なのか。
なぜ五日後なのか。
疑問は山ほどあった。
けれど。
準備をしているうちに、少しずつ気持ちが変わっていった。
私は、ゲームが好きだった。
『ウォーズ』が好きだった。
その世界を実際に歩ける。
今まで画面越しにしか見ることのできなかった景色を、自分の目で見ることができる。
ゲームの中でしか存在しなかった料理を食べることができる。
モンスターを実際に見ることができる。
ダンジョンを、自分の足で歩ける。
そう考えると。
少しだけ。
楽しみになっていた。
「……どうせなら」
私は、空っぽになった部屋を見渡した。
「楽しんでやろうじゃない」
そのときだった。
部屋の中に。
小さな光が浮かび上がった。
「……」
私は。
ゆっくりと。
その光を見た。
そして。
「ユーノー?」
光の中から。
聞き覚えのある声がした。
『あっ、燈由さん!』
「……」
私は。
無言になった。
『いよいよ明日ですね!』
「……」
『準備はできましたか?』
「……」
『燈由さん?』
「……」
私は。
深く。
深く。
息を吸った。
「ユーノー」
『はい!』
「あなた」
『はい?』
「何で今さら出てくるの?」
『え?』
「五日間、一度も姿を見せなかったじゃない」
『……』
「私が異世界へ行く直前になって、どうして急に出てくるの?」
『えーっと……』
ユーノーの声が。
妙に小さくなる。
『……怒っています?』
「怒ってない」
『本当ですか?』
「怒ってないわよ」
『よかった!』
「ただ」
『はい?』
「あなたがまた何かやらかすんじゃないかと思って警戒しているだけ」
『…………』
「何?」
『……そんなに信用ないですか?』
「ない」
『即答……』
ユーノーが落ち込んだような声を出した。
私は。
ため息を吐いた。
正直。
この五日間。
私はユーノーが再び現れるのではないかと思っていた。
何か追加の説明があるのではないか。
異世界について、もっと詳しい情報を教えてくれるのではないか。
そう期待していた部分もあった。
しかし。
ユーノーは。
本当に。
五日間。
一度も姿を見せなかった。
その結果。
私は自分の記憶だけを頼りに準備をすることになった。
「それで?」
『はい?』
「何か言いたいことがあるんでしょう?」
『……』
「まさか、本当に挨拶だけ?」
『……』
「ユーノー?」
『あの』
「はい」
『……一つだけ』
「何?」
『私、燈由さんに謝らなければならないことが』
「……」
嫌な予感がした。
「何?」
『実はですね』
「はい」
『ウォーズ世界に転移する場所なんですが』
「……」
『予定していた場所と』
「……」
『少し違う場所になりまして』
「…………」
私は。
ゆっくり。
天井を見上げた。
「ユーノー」
『はい』
「あなた」
『はい』
「私をどこに飛ばすつもり?」
『……』
「ユーノー?」
『……魔族領です』
「それは知ってる」
『……』
「私の種族は魔族なんだから、魔族領でしょう?」
『はい』
「じゃあ、何?」
『魔族領の』
「うん」
『……森です』
「森?」
『はい』
「どこの?」
『えっと……』
「ユーノー?」
『魔王領から少し離れた、辺境の森です』
「……」
私は。
目を閉じた。
「つまり?」
『はい』
「私は」
『はい』
「魔族領の森に」
『はい』
「一人で?」
『……はい』
「放り出される?」
『……』
「ユーノー?」
『……はい』
「……」
私は。
無言で。
スマートフォンを置いた。
そして。
両手で顔を覆った。
「……駄女神」
『ひどい!』
「だってそうでしょう!」
『でも、転移先を変更したのは私じゃなくて!』
「誰よ!」
『世界の転移座標がですね!』
「それを管理するのがあなたでしょう!」
『……』
「違う?」
『……』
「違うの?」
『……ごめんなさい』
「やっぱりあなたじゃない!」
私は。
怒鳴った。
白い光が。
小さく揺れた。
『で、でも!』
「何よ!」
『燈由さんなら大丈夫です!』
「……」
『だって、レベル九十九ですよ!』
「……」
『魔王より強いかもしれないんですよ!』
「……」
『それに、空間支配∞もありますし!』
「……」
『隠密MAXも索敵MAXもありますし!』
「……」
『何より、ボーナスポイント二一六万九〇〇〇ポイントもありますし!』
「……」
『だから、大丈夫です!』
「……」
私は。
考えた。
確かに。
大丈夫だ。
普通なら。
森に一人で放り出されるなど。
絶対に嫌だ。
しかし。
私の場合。
空間支配∞がある。
アイテムもある。
食料もある。
お金もある。
戦闘能力もある。
そして。
何より。
私は。
ウォーズの世界を知っている。
魔族領の辺境。
そこには。
確か。
初心者向けの採取エリアがあったはずだ。
モンスターも。
それほど強くない。
少なくとも。
私なら。
問題なく倒せる。
「……まあ」
私は。
ため息を吐いた。
「いいわ」
『本当ですか!?』
「うん」
『怒ってませんか?』
「怒ってる」
『……』
「でも」
私は。
少し笑った。
「もう、どうでもいい」
『……』
「どうせ、明日行くんでしょう?」
『はい』
「なら」
私は。
窓の外を見た。
「行くわ」
『燈由さん……』
「ただし」
『はい?』
「ユーノー」
『はい』
「私は」
私は。
ゆっくり。
笑った。
「異世界で好き勝手に生きるから」
『……』
「あなたが私を呼んだ責任は」
『……』
「ちゃんと取ってもらうからね」
『……はい』
「覚えておいて」
『……はい』
その返事を最後に。
光が消えた。
私は。
一人になった。
静かな部屋。
何もない部屋。
私は。
最後に。
窓を閉めた。
そして。
その夜。
私は。
眠った。
不思議なほど。
よく眠れた。
翌朝。
私は。
いつもと同じ時間に目を覚ました。
しかし。
目覚まし時計は必要なかった。
何となく。
目が覚めたのだ。
カーテンを開ける。
朝日が。
部屋の中に差し込んできた。
私は。
その光を。
しばらく眺めた。
そして。
今日が。
最後の日だと。
改めて実感した。
私は。
顔を洗った。
歯を磨いた。
着替えた。
そして。
最後の朝食を作った。
炊きたての白米。
味噌汁。
焼いた魚。
卵焼き。
簡単な朝食だった。
けれど。
私は。
その味を。
ゆっくりと味わった。
もしかすると。
これが。
最後の地球での朝食になるかもしれない。
そう思ったからだ。
食事を終えると。
私は。
食器を洗った。
そして。
部屋を見渡した。
何もない。
家具は。
すべて収納した。
しかし。
私は。
一つだけ。
残していた。
それは。
写真立てだった。
私は。
写真立てを手に取った。
そして。
そこに飾られている写真を。
じっと見つめた。
私は。
それを。
空間収納へ入れた。
「……行こう」
そして。
私は。
最後に。
スマートフォンを確認した。
時刻。
午前九時。
異世界転移予定時刻。
午前十時。
あと。
一時間。
私は。
窓際に立った。
外を見る。
人が歩いている。
車が走っている。
いつもの日常。
その景色を。
私は。
最後まで。
目に焼き付けた。
そして。
午前九時五十九分。
私は。
部屋の中央に立った。
ステータスを開く。
ヒヨリ。
魔族。
レベル九十九。
職業。
忍者。
装備。
妖刀村正。
アディスモアの忍び装束。
アディスモアの忍者靴。
そして。
大量のスキル。
加護。
ユーノー。
天照大神。
私は。
最後に。
自分の名前を確認した。
秋月燈由。
私は。
深呼吸した。
午前十時。
その瞬間。
世界が。
白くなった。
「……」
私は。
何も言わなかった。
身体が。
浮かぶ。
足元から。
光が広がる。
そして。
私の視界から。
地球が。
消えた。
次の瞬間。
「――――っ!」
強烈な風が。
全身を叩いた。
「……え?」
私は。
目を開けた。
そこは。
森だった。
木々。
巨大な木々。
見上げても。
頂上が見えないほど。
巨大な樹木が。
周囲を埋め尽くしている。
葉の隙間から。
太陽の光が差し込み。
地面には。
見たこともない植物が生えている。
空気が違う。
匂いが違う。
音が違う。
私は。
息を吸った。
湿った土の匂い。
木々の匂い。
草の匂い。
そして。
遠くから。
聞いたことのない。
鳥の鳴き声。
「……」
私は。
黙った。
そして。
思った。
「……本当に」
ここは。
「異世界だ」
私は。
ゆっくり。
歩き出した。
一歩。
また一歩。
地面を踏みしめる。
その感触は。
ゲームとは。
まったく違った。
ゲームでは。
ただのグラフィックだった。
しかし。
今は。
現実だ。
足元の土。
風。
匂い。
温度。
すべてが。
現実だった。
「……」
私は。
しばらく。
歩いた。
そして。
ふと。
気が付いた。
音。
「……?」
遠くから。
何か。
聞こえる。
私は。
立ち止まった。
索敵スキルを。
発動する。
瞬間。
視界が。
変わった。
周囲の地形。
生物。
魔力反応。
すべてが。
表示される。
「……」
私の。
目の前。
少し離れた場所。
そこに。
何かがいる。
私は。
息を殺した。
隠密MAX。
発動。
気配が。
消える。
私は。
ゆっくり。
木の陰から。
覗いた。
そこに。
いたのは。
巨大な。
狼だった。
「……」
ゲームで。
見たことがある。
名前。
グレイウルフ。
レベル。
十五。
私は。
思わず。
笑った。
「……弱い」
私の。
レベルは。
九十九。
相手は。
十五。
戦う必要すらない。
私は。
そのまま。
通り過ぎようとした。
しかし。
その瞬間。
グレイウルフが。
こちらを向いた。
「……」
索敵MAX。
隠密MAX。
隠蔽MAX。
それでも。
敵は。
私を。
見つけた。
理由は。
分からない。
ただ。
次の瞬間。
グレイウルフが。
こちらへ。
走ってきた。
「……」
私は。
ため息を吐いた。
「仕方ないな」
腰に差した。
妖刀村正へ。
手を伸ばす。
刀を。
抜く。
その瞬間。
空気が。
変わった。
グレイウルフが。
止まった。
しかし。
遅い。
私は。
一歩。
踏み込んだ。
そして。
刀を。
振った。
たった。
一閃。
それだけで。
グレイウルフは。
倒れた。
「……」
私は。
刀を。
鞘へ戻した。
そして。
思った。
「……現実だと」
やはり。
違う。
モンスターを。
倒した。
その事実が。
重かった。
私は。
しばらく。
その場に。
立ち尽くした。
しかし。
そのとき。
視界に。
新しい表示が。
浮かび上がった。
『経験値を獲得しました』
『経験値倍化∞が発動します』
『成長促進∞が発動します』
『レベル上限に到達しています』
『ボーナスポイントを獲得しました』
「……」
私は。
目を見開いた。
「……レベル上限でも」
ポイントが。
もらえる?
私は。
ステータスを。
確認した。
ボーナスポイント。
二一六万九〇〇〇。
そこから。
数字が。
変わっている。
二一六万九〇〇〇。
そして。
新たに。
追加された。
ポイント。
「……」
私は。
黙った。
これ。
もしかして。
経験値を稼げば。
ボーナスポイントが。
無限に増えるのでは?
私は。
ゆっくり。
笑った。
「……なるほど」
異世界。
ウォーズ。
そして。
私。
秋月燈由。
私は。
そのとき。
初めて。
理解した。
この世界で。
私が。
本当に。
恐ろしい存在になるのは。
まだ。
これからなのだと。
そして。
その直後。
森の奥から。
何かが。
聞こえた。
獣の声ではない。
人の声。
「……誰かいる?」
私は。
振り返った。
索敵スキルが。
反応する。
複数。
人間ではない。
魔力反応。
武器。
装備。
そして。
その方向から。
聞こえてきた。
「誰か! 誰か助けてくれ!」
私は。
眉を寄せた。
魔族領の森。
そこに。
誰かがいる。
しかも。
助けを求めている。
私は。
しばらく。
迷った。
関わるな。
面倒事には。
関わらない。
そう。
決めていた。
異世界では。
自由に生きる。
勇者にもならない。
聖女にもならない。
世界を救わない。
そう。
決めたはずだった。
なのに。
私は。
歩き出していた。
「……」
私は。
自分自身に。
呆れた。
「……なんで私」
助けに行こうとしているんだろう。
私は。
知らなかった。
この日。
森の奥で出会うことになる存在が。
ゲームの『ウォーズ』には。
一度も登場しなかった。
完全に未知の人物であることを。
そして。
その人物との出会いによって。
私が。
ゲームの知識だけでは。
決して知ることのできなかった。
この世界の真実へと。
少しずつ。
足を踏み入れていくことになることを。
私は。
まだ。
知らなかった。




