第2話 五日間の猶予と、平凡OLの異世界準備
ユーノーと名乗った女神から解放された私は、次の瞬間、自分の部屋のベッドの上に戻っていた。
あまりにも突然の帰還だったため、身体が空中に放り出されるようなことはなかったものの、ベッドの上で仰向けになった私は、しばらくの間、天井を見つめたまま動くことができなかった。視界に映っているのは、何の変哲もない白い天井であり、壁際には昨日脱いだまま適当に置いていた部屋着があり、机の上には飲みかけのペットボトルがあり、パソコンのモニターには、私がついさっきまで遊んでいた『ウォーズ』のログイン画面が表示されている。
いつも通りの部屋。
いつも通りの家具。
いつも通りの空気。
それなのに、私の中身だけが、さっきまでとは完全に変わってしまっていた。
「……夢、じゃないよね」
誰もいない部屋の中で、私はぽつりと呟いた。
返事はない。
当然だ。
夢ならば、ここで目を覚まして終わりなのだろうが、私の視界には、夢の中でしか見たことがなかったはずのステータスウィンドウが、まるで当たり前のように浮かんでいる。
透明な板のような画面には、私自身の名前が表示されていた。
秋月燈由。
そして、その横にはゲーム内で使っていたキャラクター名が表示されている。
ヒヨリ。
私は恐る恐る右手を伸ばした。
指先が透明な画面を通り抜けることはなく、まるで本物のタブレット端末に触れているような感触が返ってくる。
「……本物だ」
思わず呟き、私は画面を操作した。
ステータス。
インベントリ。
スキル。
装備。
称号。
加護。
どれも、私がゲームの中で何度も確認してきたものと同じだった。
けれど、ゲームの画面とは決定的に違うところがある。
これは、私が操作するゲーム画面ではない。
私自身の能力を表示するものだ。
つまり。
私は本当に。
異世界へ行く。
五日後。
強制的に。
「……五日か」
私はベッドの上で上半身を起こし、壁に掛けられた時計を見た。
時間は深夜を過ぎている。
さっきまでゲームをしていたはずなのに、いつの間にか日付まで変わっていたらしい。
普通なら、明日の仕事を考えてそろそろ寝なければならない時間だった。
しかし。
私は仕事どころではなかった。
五日後には、この地球からいなくなる。
そして、その先に待っているのは、私が長年遊んできたMMORPG『ウォーズ』の世界。
しかも。
私は、その世界の魔族だ。
「……いや」
私は額を押さえた。
「落ち着こう」
とりあえず、冷静になろう。
異世界転移。
これは確定。
ウォーズの世界。
これも確定。
五日間は地球に滞在できる。
これも確定。
五日後には強制的に転移する。
これも確定。
転移後は、再び地球へ戻ることが可能。
そして。
私には。
レベル九十九。
魔王クラス。
いや。
ステータスだけなら魔王を大きく上回る可能性すらある能力。
さらに、空間支配∞。
言語最適化∞。
解析鑑定∞。
料理MAX。
裁縫MAX。
鍛冶MAX。
隠密MAX。
隠蔽MAX。
索敵MAX。
投擲MAX。
成長促進∞。
経験値倍化∞。
完全記憶∞。
信託∞。
そして。
二一六万九〇〇〇ポイントものボーナスポイント。
私はもう一度。
ステータス画面を確認した。
「……やっぱりある」
夢ではない。
幻でもない。
数字は変わっていない。
私は、しばらく黙って画面を見つめた。
それから。
「……ボーナスポイント」
ぽつりと呟いた。
この数字だけは、少しばかり事情が違う。
ゲーム内で、私が長年貯め込んできたものだ。
通常のプレイヤーならば、ここまでのポイントを貯めることはできない。
もちろん、私だって普通に遊んでいただけなら、こんな数字にはならなかっただろう。
私には、あるプレイスタイルがあった。
それは。
徹底的に育成すること。
戦闘だけではない。
生産。
探索。
採取。
クエスト。
イベント。
隠し要素。
図鑑埋め。
称号集め。
ゲーム内でできることは、できる限り全部やってきた。
その結果。
私のキャラクターは、ゲーム内でも完全に廃人プレイヤーの領域に片足を突っ込んでいた。
しかし。
それでも。
私は一つだけ。
どうしても納得できないことがあった。
それは。
「……スキルポイントの上限」
私は呟きながら、スキル一覧を開いた。
『ウォーズ』には、スキルを取得するためのポイントシステムが存在する。
レベルアップや特殊クエストなどで手に入るボーナスポイントを使用して、スキルを取得したり、スキルレベルを上げたりできるシステムだ。
当然、普通のプレイヤーならば、限られたポイントをどこに振るかで悩む。
攻撃スキルを取るか。
防御スキルを取るか。
補助スキルを取るか。
生産スキルに振るか。
あるいは、便利系スキルを取得するか。
それぞれのプレイスタイルによって正解は違う。
私は。
そんなポイントを。
二一六万九〇〇〇。
持っている。
「……これ」
私は眉を寄せた。
「使えるのかな?」
ゲームの中では、使える。
もちろん、使える。
しかし。
今の私は。
現実の人間だ。
ゲームの仕様が。
そのまま適用されるとは限らない。
私はしばらく考えた。
そして。
「……試してみるか」
私はスキル一覧を開いた。
表示されたスキルは。
数え切れない。
戦闘系。
魔法系。
生産系。
生活系。
特殊系。
そして。
私がゲーム内でほとんど使ったことがなかったスキル。
私は画面をスクロールしていった。
「……これ」
指が止まった。
生活魔法。
ゲーム内では、初心者向けの便利スキルとして知られている。
火を起こす。
水を出す。
風を起こす。
簡単な汚れを落とす。
照明を作る。
ゲーム内では、ほとんど役に立たない。
戦闘では弱い。
攻撃力もない。
防御力もない。
レベルを上げても、劇的に強くなるわけではない。
だから。
私は。
今まで。
ほとんど取っていなかった。
「生活魔法……」
私は。
その文字をじっと見た。
そして。
考えた。
異世界。
文明レベル。
ゲーム設定。
現実。
この世界で生きていくなら。
必要なのは。
戦闘力だけではない。
むしろ。
生活能力の方が。
重要なのではないか。
「……五十二」
私は生活魔法のスキルレベルを確認した。
現在。
五十二。
これも、ゲーム時代に取得していたスキルレベルだ。
私は少し考え。
ボーナスポイントを使って。
さらに上げてみることにした。
画面を操作する。
すると。
『生活魔法のスキルレベルを上昇させますか?』
という表示が出た。
「はい」
私は答えた。
その瞬間。
『ボーナスポイントを使用します』
『生活魔法スキルレベルを五十二から五十三へ上昇させます』
数字が変わった。
「……」
私は黙った。
そして。
もう一度。
「……上がった」
五十三。
私は。
ゆっくりと笑った。
「……なるほど」
使える。
これは。
使える。
私は、その瞬間。
ある考えにたどり着いた。
この世界では。
ゲームの仕様が。
使える。
なら。
「……やることは一つ」
私は。
椅子から立ち上がった。
そして。
部屋の中を見渡した。
五日。
たった五日しかない。
なら。
五日間で。
準備できることを。
全部。
準備する。
私はまず。
机の上に置いていたスマートフォンを手に取った。
そして。
会社の連絡先を開いた。
「……」
指が止まる。
五日後。
私は。
異世界へ行く。
帰ってくることはできる。
それでも。
いつ戻れるかは分からない。
というより。
そもそも。
五日後から。
私は。
現実世界の住人ではなくなる。
「……仕事」
私は。
スマートフォンを見た。
明日の朝。
普通に出社すれば。
いつも通り。
上司に怒られ。
仕事をして。
残業して。
家に帰る。
その生活が。
あと五日で終わる。
私は。
少しだけ。
寂しくなった。
別に。
会社が好きだったわけではない。
むしろ。
仕事は嫌いだった。
毎日毎日。
同じような仕事。
上司の小言。
理不尽な要求。
それでも。
それが。
私の日常だった。
そして。
日常というものは。
失って初めて。
その価値に気が付くものなのかもしれない。
私は。
しばらく考えた。
そして。
「……五日間」
呟く。
「最後まで普通に過ごそう」
異世界に行く。
それは。
決まった。
だったら。
この五日間は。
普通に。
過ごす。
ただし。
普通に過ごすだけではない。
準備はする。
徹底的に。
私は。
スマートフォンを置いた。
そして。
再び。
ステータス画面を見る。
「まずは」
私は。
指を動かした。
「スキル」
ボーナスポイント。
二一六万九〇〇〇。
これを。
どう使うか。
私は。
考え始めた。
戦闘スキル。
魔法スキル。
生産スキル。
生活スキル。
特殊スキル。
取得できるスキルは。
数え切れない。
しかし。
ポイントは有限。
とはいえ。
二一六万九〇〇〇。
普通に使えば。
ほとんど余る。
私は。
ゲーム時代の知識を思い出した。
そして。
「……そういえば」
私は。
あることを思い出した。
『ウォーズ』には。
スキルポイントを。
大量に消費することで。
取得できる。
特殊スキルが存在する。
通常プレイでは。
まず取得できない。
必要ポイントが。
あまりにも多すぎるからだ。
そして。
その中には。
ゲーム内でも。
ほとんど知られていない。
スキルがある。
私は。
その一つを。
思い出した。
「……錬金」
私は。
スキル一覧を開いた。
錬金スキル。
レベル七十一。
これも。
ゲーム時代に取得していた。
錬金術。
素材を組み合わせ。
アイテムを作る。
ポーション。
毒薬。
薬。
装備。
素材。
様々なものを作れる。
そして。
錬金術の最大の利点。
それは。
現実世界でも。
応用できる可能性があること。
私は。
考えた。
もし。
この世界で。
錬金術が。
ゲーム仕様のまま使えるなら。
私は。
何でも作れる。
そして。
その可能性を考えた瞬間。
私は。
ある計画を立て始めた。
「……異世界に行く前に」
私は。
立ち上がった。
「地球で作れるものは、全部作っておこう」
まず。
必要なのは。
生活基盤。
そして。
異世界で。
困らないための。
物資。
食料。
衣類。
薬。
道具。
武器。
防具。
寝具。
調理器具。
そして。
住居。
私は。
ゲームの中の。
アイテムボックスを開いた。
そこには。
私が。
長年集めてきた。
大量のアイテムが。
存在していた。
「……」
私は。
その一覧を。
眺めた。
ポーション。
エリクサー。
食料。
素材。
鉱石。
宝石。
魔石。
薬草。
モンスター素材。
装備。
そして。
大量の。
金貨。
ゲーム内通貨。
私は。
思わず。
笑った。
「……これ」
ゲームの世界なら。
ただの数字。
しかし。
異世界では。
違う。
貨幣価値が。
存在する。
私は。
ゲーム時代の知識を。
思い出した。
白金貨。
金貨。
銀貨。
銅貨。
青銅貨。
そして。
私の所持金。
白金貨。
二万一五六九枚。
金貨。
七万四三九九枚。
銀貨。
九十九万八一九九枚。
銅貨。
九万八一二七枚。
青銅貨。
一万二三四六枚。
「……」
私は。
黙った。
これ。
使えるよね。
絶対。
使える。
私は。
ゆっくり。
笑った。
「……お金の心配もない」
そして。
私は。
気が付いた。
私。
もしかして。
異世界で。
働かなくても。
いいのでは?
その瞬間。
私の中で。
何かが。
弾けた。
「……」
私は。
ベッドに。
倒れ込んだ。
「……異世界生活」
私は。
天井を見上げた。
「……最高じゃない?」
仕事をしなくてもいい。
お金はある。
戦闘力もある。
アイテムもある。
スキルもある。
しかも。
地球と異世界を。
行き来できる。
「……」
私は。
笑った。
そして。
決意した。
私は。
勇者にはならない。
聖女にもならない。
魔王にもならない。
世界を救う気もない。
国を作る気もない。
戦争に参加する気もない。
ただ。
自由に。
生きる。
それだけ。
「……でも」
私は。
ふと。
思った。
せっかく。
異世界に行くのなら。
やってみたいことが。
ある。
料理。
私は。
料理スキルMAXを。
持っている。
ゲーム内では。
料理スキルが高ければ。
特殊料理を作ることができる。
しかも。
その料理には。
様々な効果が付与される。
体力回復。
魔力回復。
ステータス上昇。
状態異常耐性。
経験値増加。
そして。
特殊効果。
「……」
私は。
にやりと笑った。
「異世界料理」
これは。
楽しそうだ。
そして。
もう一つ。
私は。
裁縫スキルMAX。
鍛冶スキルMAX。
錬金スキル七十一。
これらを。
組み合わせれば。
異世界で。
何でも作れる。
つまり。
私は。
異世界で。
何かを。
商売にする必要すらない。
好きなものを。
好きなだけ作れる。
好きなところへ行ける。
好きなものを食べられる。
そして。
嫌なことから。
逃げられる。
私は。
それでいいと思った。
その夜。
私は。
眠らなかった。
正確には。
眠れなかった。
ベッドの上に横になりながら。
これから始まる異世界生活を。
延々と考えていた。
そして。
気が付けば。
窓の外が。
明るくなっていた。
「……朝」
私は。
窓を開けた。
朝の空気が。
部屋の中に流れ込んでくる。
いつもの。
東京の朝。
車の音。
電車の音。
人の声。
私は。
その音を。
しばらく聞いていた。
そして。
「……あと五日」
呟いた。
五日後。
私は。
この世界を。
離れる。
だから。
今日から。
準備を始める。
私は。
パソコンを起動した。
そして。
最初に。
銀行口座を確認した。
「……」
普通の会社員の。
普通の貯金。
これを。
どうするか。
私は。
しばらく考えた。
そして。
思った。
異世界へ行くなら。
地球のお金は。
必要ない。
しかし。
地球へ戻る可能性もある。
だから。
残しておく。
そして。
仕事。
これも。
どうするか。
私は。
考えた。
五日後。
強制転移。
なら。
突然。
会社から。
消えることになる。
それは。
まずい。
私は。
スマートフォンを手に取った。
そして。
会社の上司へ。
連絡しようとして。
指を止めた。
「……」
いや。
待て。
私は。
今。
異世界転移することを。
会社に。
説明できるだろうか。
「異世界に行くので、五日後から出社できません」
そんなことを言ったら。
病院を勧められる。
確実に。
私は。
ため息を吐いた。
だから。
普通に。
休暇を取ることにした。
有給。
残っている。
五日間。
全部使う。
そして。
その五日間で。
準備する。
私は。
会社へ連絡した。
その日の午後。
有給休暇の申請が通った。
私は。
少しだけ。
肩の力を抜いた。
そして。
その日から。
私の。
五日間の。
異世界準備生活が。
始まった。
まず。
私は。
必要なものを。
大量に買った。
食品。
衣類。
調味料。
日用品。
工具。
医薬品。
キャンプ用品。
調理器具。
そして。
ゲームの世界には。
存在しない可能性があるもの。
スマートフォン。
ノートパソコン。
モバイルバッテリー。
充電器。
電池。
発電機。
ソーラーパネル。
ライト。
私は。
ありとあらゆるものを。
買い込んだ。
しかし。
私には。
一つ。
大きな問題があった。
収納場所。
大量の荷物を。
五日間で。
どこに置くのか。
普通なら。
不可能だ。
しかし。
私は。
笑った。
「……空間支配∞」
私は。
右手を。
前に出した。
そして。
意識する。
空間を。
支配する。
瞬間。
部屋の中に。
小さな黒い穴が。
開いた。
「……」
私は。
その穴を。
覗き込んだ。
中は。
真っ暗だった。
しかし。
何もないわけではない。
無限に近い。
空間が。
広がっている。
「……これ」
私は。
笑った。
「アイテムボックスより便利じゃない?」
ゲーム内の。
アイテムボックス。
それだけでも。
十分便利だった。
しかし。
空間支配∞。
このスキルは。
その名の通り。
空間そのものを。
支配する。
私は。
その能力を。
少しずつ。
試していった。
収納。
取り出し。
転移。
空間固定。
結界。
そして。
最も重要な。
時間停止。
「……」
私は。
驚いた。
空間支配∞。
その能力によって。
収納したものは。
時間の影響を。
受けない。
つまり。
食料を。
腐らせずに。
保存できる。
「……」
私は。
無言で。
スーパーへ向かった。
そして。
大量の食料を。
買った。
米。
小麦粉。
砂糖。
塩。
醤油。
味噌。
酢。
油。
香辛料。
缶詰。
レトルト。
冷凍食品。
肉。
魚。
野菜。
果物。
卵。
乳製品。
私は。
買った。
とにかく。
買った。
そして。
家へ帰る。
空間へ収納。
また買う。
収納。
また買う。
そんなことを。
繰り返した。
その結果。
五日目。
私の部屋は。
すっかり。
綺麗になっていた。
なぜなら。
家具まで。
収納したからだ。
「……」
私は。
何もない部屋に。
立っていた。
冷蔵庫もない。
テレビもない。
ベッドもない。
机もない。
椅子もない。
あるのは。
私だけ。
そして。
窓。
私は。
窓の外を。
見た。
夕方。
空が。
赤く染まっている。
五日間。
終わった。
明日。
私は。
異世界へ行く。
私は。
最後に。
ステータスを開いた。
そして。
笑った。
「……準備完了」
しかし。
そのとき。
私は。
まだ。
知らなかった。
明日。
ウォーズの世界へ転移した瞬間。
私が。
最初に出会う相手が。
ゲーム内では。
一度も見たことのない人物であることを。
そして。
その人物との出会いが。
私の。
異世界放浪生活を。
大きく変えてしまうことを。
私は。
まだ。
知らなかった。




