第5話 資源ごみ回収ボックス
資源ごみ回収ボックスは、たぶん真面目な人ほど向いていない。
向いていないというのも少し変だけれど、少なくとも、ああいう場所の前で立ち止まってしまうのは、だいたい真面目な人だと思う。
牛乳パックは洗って、切り開いて、乾かしてある。
ペットボトルはラベルをはがし、キャップも外した。
そこまでして持ってきたのに、いざ投入口の前に立つと急に不安になる。
これは本当にここで合っていたか。
食品トレーはどこまで白ければいいのか。
透明のふたは資源なのか、ただのプラなのか。
注意書きはやけに細かい。
ちゃんと読もうとする人ほど、こういうところで少し迷う。
しかも、「家庭ごみの投棄は禁止です」とか「家庭ごみの持ち込みはご遠慮ください」とか書いてあったりする。
真面目に読むほど混乱する注意書き。
言いたいことは分かる。
生ごみや可燃ごみや、回収対象ではないものを入れるな、ということだろう。
でも、真面目に読むと少し止まる。
牛乳パックもペットボトルも、もともとは家庭から出たものである。
これも家庭ごみではないのか、と一瞬だけ考える。
地域によっては、可燃ごみのことを「家庭ごみ」と呼ぶところもあるらしいので、なおさら少しややこしい。
たぶん、こういう文言は雑な人ほど迷わない。
きっちり読もうとする人だけが、律儀に足を止める。
一方で、迷わない人の痕跡は、だいたいもう入っている。
ペットボトルの中に吸い殻が入っていたり、飲み残しが残っていたり、どう見ても違うだろうというものが平気で押し込まれていたりする。
分からなかったというより、分からないふりをしたのではないかと思う。
見つからなければいい。
誰かが片づけるだろう。
そういう気分だけは、ずいぶん世の中に馴染んでいるらしい。
ちゃんと分別する人ほど迷って、分別する気のない人ほど迷わない。
世の中、なかなか公平にはできていない。
しかも最近は、ただ分別して出せばいいだけの話でもない。
前は資源ごみといえば、市町村の回収に出すものという感じだった。
それが今は、スーパーの店頭にも立派な回収ボックスがある。
どちらに出しても間違いではないのだろう。
でも、正しさが二通りある時点で、もう少し面倒くさい。
正しさが増えるほど、生活者の負担も増える。
自治体の回収は、地域の仕組みとしてやめられない。
きちんと分別されれば、自治体の負担を少し減らすことにもつながるらしい。
スーパーの回収は、ペットボトルがまたペットボトルになるような、いわゆるきれいな循環に乗りやすいという。
どちらも正しい。
どちらもたぶん必要なのだと思う。
ただ、洗って乾かした一本をどこへ出すかだけで、こちらが少し事情通みたいにならなければいけないのは、正直どうかと思う。
そして、もうひとつ気になる。
環境のためなら、多少の手間くらいは仕方がない。
洗う。
開く。
乾かす。
ラベルをはがす。
分別する。
私は別に、それくらいやりたくないと言っているわけではない。
必要ならやる。
みんなが少しずつ手間を引き受けることで、何かが良くなるのなら、そのくらいは頑張ればいい。
ただ。
その「何か」が、どれくらい良くなったのかは知りたい。
環境に配慮しましょう。
資源を大切にしましょう。
ご協力をお願いします。
それは分かる。
分かるけれど、
「皆さんがこれだけ頑張った結果、これだけ減りました」
というところまで、ちゃんと教えてほしい。
プラスチックごみを減らす。
資源を循環させる。
そういう大きな目標のために、こちらも手間を引き受けている。
だったら、その努力が何になったのかくらいは、数字で見せてほしい。
「皆さんのご協力のおかげです」
だけでは、少し足りない。
どれだけ減ったのか。
どれだけ再利用されたのか。
どれだけ効果があったのか。
頑張った側にも、結果を見る権利くらいあると思う。
環境という言葉は、ずいぶん強い。
「環境のためです」と言われると、こちらも「面倒です」とは言いにくい。
便利な言葉だな、と少し思う。
だからこそ、その言葉を使うなら、負担だけではなく成果も見せてほしい。
国にも事情がある。
企業にも事情がある。
自治体にも事情がある。
きっと、それぞれに事情があるのだろう。
でも、事情が上に積み重なるほど、下にいる私たちの手間が消えるわけではない。
結局、生活者の時間だけが静かに削られていく。
洗って。
乾かして。
分別して。
持ってきて。
そうしているのは、結局こちらである。
きれいな循環という言葉の裏側で、こちらはずいぶん地味な仕事をしている。
ややこしい話を知れば知るほど、どうせ最後はどこかで一緒くたにされるのでは、と思わなくもない。
そのがっかりが、分別の面倒くささではなく、リサイクルそのものへの敵意に変わっていかなければいいとは思う。
面倒なのは牛乳パックではなく、たぶん仕組みのほうだ。
リサイクルは、真面目な人ほど頭を悩ませる。
ちゃんとやろうとするほど細かい違いが気になって、ときどき少し息苦しくなる。
だから、情報のアップデートは大事なのだと思う。
リサイクルはもう特別なことではなく、すっかり日常の一部だからだ。
日常である以上、毎回こんなふうに迷わされるのは、やはり少し面倒くさい。
……などと、真理子は少し偉そうなことを考えながら買い物を終えた。
家に帰ってエコバッグから豆腐やら小松菜やらを出していたら、いちばん下から洗って乾かした牛乳パックが一枚出てきた。
余計なことばかり考えていたせいで、いちばん肝心なことを忘れていたらしい。
世の中の仕組みに文句を言う前に、まず自分の牛乳パックくらい出せ。
……はい。
ごもっともです。
牛乳パックを手にしたまま、真理子はしばらく立ち尽くした。
乾かした紙の軽さが、妙に頼りなく感じられる。
「……これをもう一回持ってスーパー行くの、なんか負けた気がするんだよな。」
夕方のスーパーは混んでいる。
その中に、牛乳パック一枚だけを持って行く自分を想像すると、少しだけ胸がざわつく。
面倒というより、なんだか屈辱に近い。
牛乳パックは軽い。
でも、気持ちは軽くない。
「……まあ、自治体の資源ごみの日に出すか。」
ペットボトルほど邪魔じゃないし、数日置いておいても困らない。
生活者としての現実的な選択を、真理子は静かに選んだ。
牛乳パックをキッチンの隅に立てかける。
あとがき
ペットボトルを捨てに行くとき、ふと思うのだ。
「あれ、最近ペットボトル捨てる場所、めっちゃ増えてない?」
そう、昔は自治体の「ゴミ収集の日」に指定の場所に持っていく一択だった。でも最近は、スーパーの店頭とか飲料メーカーが用意した回収BOXとか、要は「企業側の回収ルート」が新しく増えたのだ。捨てる側としては選択肢が増えて、ぶっちゃけかなり助かっている。
でも、なんで急に企業が自前で回収し始めたのか?
話はちょっと遡る。
実はこれまで、国はペットボトルを燃やしてその熱を利用することを「サーマルリサイクル!」と呼んでリサイクル扱いしてきた。……が、海外からは「いやそれ、ただ燃やして熱回収してるだけじゃん? リサイクルとは言わなくね?」と突っ込まれる始末。
要するに、本当の意味での「資源としての再利用」がめちゃくちゃ遅れていたのだ。
そこで「容器包装リサイクル法」のもと、国はペットボトルを使って商売している飲料メーカーに喝を入れた。
「お前ら、燃やすだけじゃなくて、ちゃんと本気でリサイクル率を上げろ!」と、再生資源化の義務をドカンと課したのだ。
その結果、企業も本気を出して自前の回収ルートを作らざるを得なくなった――というのが事の真相。
いつものゴミ捨ての裏側に、国と海外の攻防やら企業の焦りやらが詰まっていると思うと、あのペットボトルBOXがちょっとだけ味わい深く見えてくる。
環境のためなら、多少の手間や負担は仕方がない。
そう思って、洗って、乾かして、分別している人は多いと思います。
でも、ときどき思う。
その負担に見合うだけの成果は、本当に出ているのだろう。
環境という大義名分があれば、国民は「仕方ない」と頑張る。
企業も「環境に配慮しています」と言える。
だったら国には、その先をきちんと見せてほしい。
どれだけプラスチックごみが減ったのか。
どれだけ資源として循環したのか。
「皆さんの努力のおかげです」だけではなく、できれば数字で。
頑張った側としては、
自分たちが何のために頑張ったのか、ちゃんと知りたい。
仕組みが複雑なのは仕方がない。
でも、負担は分かりやすくこちらにやってくるのだから、成果くらいは分かりやすく返してほしい。
消費者ではなく、生活者としての負担なのだから。
もう一つ。
リサイクルは、生活者の善意と自治体の赤字の上に、
企業と再生業者の利益が乗っている仕組みなのでは?
そう考えると、なんかモヤっとする。
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おまけ
真理子の愚痴
ペットボトルのキャップを外したあとに残るリングも、気にすると少し悩ましい。
本体の方は、言わずもがな時代の寵児だ。便利さの代償として街に溢れかえり、放っておけば川から海へと流れて世間を騒がせる厄介者。だからこそ、社会制度のド真ん中に据えられ、誰もが知る大がかりなルートで回収され、華々しく再資源化されていく。主役の座はいつだって揺るがない。
キャップもまた、なかなかに要領がいい。
焼却炉に放り込まれることもあるが、加工しやすいポリプロピレンやポリエチレンという柔軟な素材ゆえに、拾われさえすれば文房具や買い物カゴ、植木鉢、果ては車の部品やイスの背もたれにまで見事に化けてみせる。おまけに日本では「800コでポリオワクチン支援」といった、誰も反対できない美しい善意のストーリーまで背負わされている。どこへ行っても愛される、完璧な優等生だ。
それに引き換え、あのリングはどうだ。
同じような素材で、キャップのすぐ下にぴったり寄り添っていた片割れのような顔をしているくせに、これといった物語を与えられない。「工場で自動的に分離・処理されます」――ただそれだけのアッサリした一行で、存在ごと片付けられてしまう。
主役としてスポットライトを浴びる者。
善意の物語を纏って誇らしげにする者。
ただの「処理対象」として、業務連絡のような言葉で済まされる者。
同じ素材から生まれたはずなのに、この扱いの差は何なのだろう。
なんだか、人間の生きる格差社会を見せられているような気がしてくる。
能力や価値の違いというよりは、単に「制度やシステムにとって扱いやすいかどうか」。たったそれだけの理由で、その後の運命が残酷なほどに枝分かれしていくのだから。




