第6話 感情を隠す王女
シリルが去ってから、イリーナは以前よりも間違えなくなった。問われたことには求められた通りに答え、好みを尋ねられれば王女にふさわしい方を選ぶ。腹が立っても声を荒らげず、悲しくても顔には出さない。
ヴァルターの前では、特に気をつけた。怒れば理由を知られ、悲しめば何を失ったのかを探られ、大切だと分かれば遠ざけられる。だから、何も見せなかった。
けれど、何も考えなくなったわけではない。
命令はどこで決まり、誰の手を通って実行されるのか。どの印章があれば人を動かせるのか。何を文書に残せば、あとからなかったことにはできなくなるのか。
イリーナは、ひとつずつ覚えていった。
もう二度と、知らなかったから何もできなかったとは言わないために。
*
「姫殿下、こちらはいかがでしょう」
仕立て職人が広げたのは、淡い青の布だった。窓から差し込む光を受けると、表面に波のような艶が浮かぶ。その隣には、王家の色を金糸で織り込んだ布が置かれていた。
「どちらがお好みですか」
イリーナは青い布を見た。
衣装箱の底に隠してある航海記。その頁に描かれていた海と、よく似た色だった。
「金糸の方を」
迷わず答えると、そばにいたヴァルターがうなずいた。
「春の式典には、そちらがふさわしいでしょう。王家の威厳もよく伝わります」
「私も、そう考えました」
仕立て職人が青い布を畳んでいく間も、イリーナはそちらへ目を向けなかった。
「ご自分のお立場を、よく理解されるようになりましたね」
ヴァルターの言葉に、イリーナは礼を返す。
衣服の下には、願いの紙を入れた革袋があった。青い方が好きだということも、海を見たいと願っていることも、ヴァルターは知らない。
彼が受け取ったのは、聞きたがっていた答えだけだった。
イリーナは王国の法や歴代の条約だけでなく、人事を扱う文書にも目を通すようになった。護衛を別の任務へ移すために必要な署名は、決して多くない。家庭教師の交代も、表向きの理由さえ用意すれば難しくはなかった。
あの時、ヴァルターには本当にシリルを守ることができたのだ。
できなかったのではない。しなかった。
その違いを、イリーナは忘れなかった。
*
四年が過ぎ、イリーナが十六歳になった年、王妃が男児を産んだ。
王子の誕生を知らせる鐘が城下へ鳴り響き、その日は夜まで祝宴が続いた。次の王位を継ぐ者が生まれたのだと、人々は喜んだ。
イリーナが弟と初めて顔を合わせたのは、誕生からひと月後に行われたお披露目の儀だった。
白い布に包まれた王子は、王妃の腕の中で眠っている。イリーナが近づくと、小さく握られていた手がわずかに開いた。
触れてみたいと思ったが、式次第にそれは含まれていない。
「王子殿下のご誕生を、心よりお喜び申し上げます」
定められた言葉を述べ、決められた位置まで下がる。弟の名を呼ぶことも、抱き上げることもないまま、儀式は終わった。
健やかに育ってほしいと思った。
けれど、その願いを口にする相手はいなかった。
数日後、王子誕生後の教育方針を決めるため、イリーナはヴァルターとともに父王の執務室へ呼ばれた。
「王子殿下がお生まれになったことで、姫殿下がお担いになる役目も定まりました」
「私の役目?」
「今後は、婚姻によって王家と国内外の結びつきを強めるお立場として、よりふさわしくお育ちいただきます」
ヴァルターの視線が、イリーナの顔から肩へ移り、膝の上に揃えた手までゆっくりと下りていく。姿勢にも衣装にも乱れがないか、長く手をかけてきた品の仕上がりを確かめるような見方だった。
ひとりの人間を見ているようには思えなかった。
「承知しました」
イリーナは、何も気づいていないように答えた。
王子が生まれるまでは、イリーナが王位を継ぐ可能性も残されていた。これからは王位ではなく、婚姻によって王家を支えることを求められる。
国内の貴族へ嫁ぐのか、国外の王族へ嫁ぐのか。それを決めるのも自分ではないと、ヴァルターは考えているのだろう。
「姫殿下の今後の予定につきましては、私が陛下と相談のうえで――」
「お前は、イリーナのことになると、ずいぶんと口を出すな」
執務机の向こうで書類を見ていた国王が顔を上げた。
ヴァルターは表情を変えず、王へ向き直る。
「姫殿下の教育を任されておりますので」
「教育内容の話ではない。誰と会い、どこへ行き、何を学ぶかまで、お前が決める必要があるのかと聞いている」
「姫殿下をお守りするために、必要なことと考えております」
「何から守る」
ヴァルターは一度だけ、イリーナへ目を向けた。
「姫殿下に、ふさわしくないものからです」
国王はしばらくヴァルターを見たあと、手元の書類を閉じた。
「今後、イリーナの予定を変える時は、理由を添えて私にも報告しろ」
「承知いたしました」
ヴァルターは恭しく頭を下げた。声にも表情にも、不満は表れない。
執務室を出ると、彼は何事もなかったようにイリーナへ告げた。
「姫殿下。次の講義は二刻後でございます。遅れぬようになさってください」
「分かりました」
イリーナも、何事もなかったように答えた。
*
王子の誕生を境に、講義の机には各国の系譜や婚姻によって結ばれた同盟の記録が並ぶようになった。
条約は、言葉を一つ変えるだけで、どちらの国が負担を引き受けるのかが変わる。友好をうたう書状の裏でも、土地や兵、交易品を巡る思惑が動いている。
イリーナは、誰かが正しさを語るたび、その正しさによって誰が利益を得るのかを考えた。
ヴァルターは、彼女が自分の教えをよく理解していると思っていた。イリーナも彼が求める場面では、正しい答えを返した。
ただ、その答えを信じているかどうかまでは、決して見せなかった。
夜になると、ときどき衣装箱の底から航海記を取り出した。海の頁を開き、胸元の革袋から願いの紙を出しても、余白に何かを書き加えることはない。
シリルから手紙が届くこともなかった。
人質として滞在していた王子と王女が個人的な書簡を交わし続ければ、余計な憶測を招く。帰国後にヴァルターからそう告げられ、イリーナも反対しなかった。
こちらから手紙を出せば、シリルへ届く前に内容を確認される。書いた言葉へヴァルターの手が触れるくらいなら、何も送らない方がよかった。
忘れないと約束したシリルの言葉を、信じることしかできなかった。
*
十八歳を迎える年の初め、外交についての講義で、イリーナは久しぶりにその名を聞いた。
「ルグランで見つかった大規模な鉄鉱床の開発が、本格的に動き始めております」
教師が机の上へ地図を広げた。
アルヴェリアの西に位置する、小さな王国。以前は主要な交易路から外れ、農作物以外に目立った産物もない国だった。
「鉱床が見つかっただけでは、国は豊かになりません」
イリーナが言うと、教師はうなずいた。
「その通りでございます。ルグランでは数年をかけて、採掘場と王都を結ぶ街道を整えてきました。製錬所の建設も進み、周辺国との交易交渉も始まっております」
「誰が指揮を?」
イリーナは地図を見たまま尋ねた。
「第一王子、シリル殿下です」
革袋の紐が首筋に触れているのを、急に意識した。
「シリル殿下は帰国後、国内の街道や物資の運び方を見直しておられたそうです。その途中で鉱床が見つかり、採掘量を抑えながら、製錬技術を持つ職人を各地から招いたと聞いております」
「採れるだけ掘るのではなく、先に国の中を整えたのですね」
「そのようです」
「交易を申し入れている国は?」
「すでに三か国ございます。婚姻を含む同盟を望んでいる国もあるとの報告です」
弱かったルグランは、他国の判断に従うだけの国ではなくなりつつある。
シリルが変えたのだ。
「鉱床に恵まれたからといって、国の力が長く続くとは限りません」
講義を見届けていたヴァルターが口を挟んだ。
「急に富を得た国では、利権を巡って争いが起こりやすい。評価するには、まだ早いでしょう」
「そうですね」
イリーナは彼が聞きたがる答えを選んだ。
「今後の採掘量と、国内の統治が安定しているかを確認する必要があります」
ヴァルターはそれ以上、何も言わなかった。
講義が終わり、彼が先に部屋を出てから、イリーナは地図に記されたルグランの名をもう一度見た。
その夜、革袋から願いの紙を取り出し、最初に書いた文字を指でなぞる。
海を見てみたい。
シリルがどこで、何をしているのか。五年近く分からなかったことを、ようやく少しだけ知ることができた。
「……シリル」
人前では決して口にしなかった名前を、小さく呼ぶ。
返事があるはずはない。それでも、以前のように、いないという事実だけを突きつけられる呼びかけではなかった。
シリルは自分の国で生き、何かを築いている。
交わした約束を今も覚えているかは分からなかったが、イリーナは紙を丁寧にたたみ、革袋へ戻した。
*
ルグランについての報告を聞いてから、ひと月ほどが過ぎた。
朝の講義を終えたイリーナのもとへ、国王付きの侍従が訪れる。
「陛下がお呼びでございます」
「何のご用ですか」
「私からは、何も申し上げられません」
案内されたのは、父王の私的な執務室だった。室内には国王と数人の重臣がおり、ヴァルターも執務机の脇に立っている。
机の上には、一通の書状が置かれていた。
「イリーナ」
国王は彼女を正面の席へ座らせると、書状へ手を置いた。
「お前に、婚姻の申し入れが届いている」
革袋の紐が、もう一度首筋に触れた。
イリーナは表情を変えなかった。
「どちらからでしょうか」
国王が、机の上の書状をイリーナの方へ向ける。
深い青の封蝋に刻まれていたのは、ルグラン王家の紋章だった。




