第7話 再会
国王が封を切り、折り畳まれた書状を開いた。
数人の重臣とヴァルターが見守る中、イリーナは膝の上に手を重ねたまま、読み上げられる内容を聞いていた。
ルグラン王家が申し入れてきたのは、第一王子シリルとイリーナの婚姻だった。
それだけではない。
婚姻を結ぶにあたり、両国はこれまでの関係を改め、対等な友好国として条約を締結する。
ルグランで産出される鉄は、一定量をアルヴェリアへ優先的に供給し、国外から侵攻を受けた際には、互いに可能な範囲で協力する。
イリーナがルグランへ嫁いだ後も、アルヴェリア王女としての身分は守られ、王族にふさわしい待遇と居所が与えられることまで明記されていた。
「ずいぶんと細かく条件を整えてきたものだ」
書状を読み終えた国王が、机の上へ置いた。
「ルグラン側は、この婚姻を両国の新たな関係の始まりにしたいと考えているらしい」
イリーナは机の上の書状を見た。
「婚姻のお相手は、シリル殿下なのですね」
「そうだ」
「シリル殿下ご本人が、私との婚姻を望まれたのですか」
国王は、書状に添えられていたもう一枚の紙を取り上げた。
ルグラン国王の署名と並び、第一王子シリルの名が記されている。
「そうだ。ご本人の強い希望だ。書状にもそう明記されている」
膝の上に重ねていたイリーナの指が、わずかに動いた。
衣服の下に隠した革袋へ手を伸ばしそうになり、指先を握り直す。
六年前、必ず迎えに来ると言った声がよみがえった。
「陛下、お待ちください」
ヴァルターが国王の言葉を遮ったのは、イリーナの記憶にある限り、初めてだった。
室内にいた重臣たちも、そろって彼へ顔を向ける。
「ルグランの急速な発展は、鉄鉱床による一時的なものにすぎない可能性がございます。製錬所や街道が整えられたとはいえ、国内の統治が安定したと判断するには、まだ時期が早いのではないでしょうか」
「続けろ」
「姫殿下を国外へお出しになる以上、より慎重にお考えいただくべきかと存じます。ルグランの第一王子は、かつて我が国に人質として置かれていた方でもございます。過去の扱いを恨んでいないとも限りません」
「人質ではない」
国王が言葉を挟んだ。
「シリル殿下は、学問と両国の親善のために滞在していた客人だ。少なくとも、記録の上ではな」
ヴァルターはわずかに目を伏せたものの、すぐに言葉を継いだ。
「そのような記録が、殿下ご本人の認識まで変えるとは限りません。姫殿下のご婚姻であれば、国内の有力貴族も含め、ほかの候補を検討する余地がございます」
「今のルグランを、六年前と同じ国だと思うな」
国王の声に、ヴァルターが口を閉ざした。
「すでに三か国が交易を申し入れ、そのうち二か国は婚姻を含む同盟を望んでいる。ルグランがいずれかの国と結べば、我が国の西側の情勢も変わるだろう」
「しかし、鉄鉱床が今後も同じ利益を生み続けるとは――」
「鉱床が見つかる前から、シリル殿下は街道と物流を整えていた。採掘が始まってからも、無秩序に掘らせず、製錬所と職人の確保を優先している。資源を得ただけの国ではないことくらい、お前にも分かるはずだ」
国王は机の上の書状を指先で叩いた。
「対等な条約を結び、鉄を優先的に供給し、王女の地位と待遇も保証する。こちらが求めるより先に、必要な条件をそろえてきたのだ」
ヴァルターは黙っていた。
「それとも、お前には、これ以上の条件を示せる婚姻相手がいるのか」
答えはなかった。
「国内の貴族との婚姻も検討すべきと申したな。誰を想定している」
「姫殿下を幼い頃から知り、そのお心も、王女としてのお立場も深く理解している者であれば、少なくとも――」
「誰のことだ」
国王に問い返され、ヴァルターの言葉が止まった。
「……今後、諸家の事情を調査したうえで、ふさわしい者を選ぶべきかと」
「相手も決まっていないのに、すでに届いている申し入れを退けろと言うのか」
国王の目が細められた。
「お前は、イリーナのことになると、ずいぶんと理由が多くなるな」
ヴァルターの指が、机の端に置かれた書類を押さえていた。
いつもならすぐに返るはずの答えが、わずかに遅れる。
「……姫殿下の将来を案じてのことでございます」
「その将来を決める席に、本人もいる」
国王がイリーナを見た。
「イリーナ。お前はどう思う」
ヴァルターの視線が向けられた。
以前なら、その目が何を求めているのかを考え、相手が満足する答えを選んでいただろう。
けれど、見せたくないものを隠すことと、自分の望みを諦めることは同じではない。
イリーナは膝の上に重ねていた手をほどき、国王を見た。
「シリル殿下との婚姻を、お受けいたします」
口にすると、握っていた指からゆっくりと力が抜けた。
「姫殿下」
ヴァルターの声が、わずかに低くなった。
「幼い日の感情だけで決めてよいことではございません」
「承知しています」
「では、何をもって、そのようなご判断を?」
「ルグランから示された条件は、アルヴェリアにとって不利益なものではありません。鉄の供給が安定すれば、農具や建築だけでなく、国境の防備にも役立ちます。ほかの国に先んじて友好を結ぶ意味も理解しています」
「それだけでございますか」
イリーナは、ヴァルターの目を見返した。
「それ以上を、ここであなたに申し上げる必要がありますか」
ヴァルターはすぐには答えなかった。
イリーナを見つめる目だけが、わずかに細められた。
国王が書状を取り上げた。
「決まりだ。ルグランへ、婚姻を受ける旨を伝えろ」
重臣の一人が頭を下げた。
「承知いたしました」
ヴァルターだけが、すぐには動かなかった。
やがて机から指を離し、いつもと変わらない礼を取った。
「……陛下のご判断に従います」
*
婚姻を受ける返書が送られた翌日から、イリーナは日付を数えるようになった。
返書がルグランへ届くまで何日か。
使節団がアルヴェリアへ到着するまで、あと何日か。
誰かに尋ねることはなかったが、地図と日程表を見れば、おおよその日数は分かった。
数日後、ルグランから正式な使節団が到着し、両国の重臣を交えた話し合いが始まった。
婚姻の日取り、持参金、随行する侍女や護衛の人数、国境での引き渡し、ルグランに到着してからの婚礼の手順まで、決めることは多かった。
書類の中にシリルの名を見つけるたび、イリーナの視線はほんの少しだけ、そこに長く留まった。
ただ決定を聞かされるだけではなく、差し出された婚姻契約書を自分で読み、曖昧な箇所があれば問い返した。
王女としての地位や財産に関する条項を確認し、随行する者について記された一文にも目を止める。
「こちらに、一つ加えていただきたいことがあります」
ルグランの使者が顔を上げた。
「どのようなことでしょうか」
「私に随行する侍女や使用人は、本人がルグラン行きを望んだ者に限ること。選ばれた者が辞退しても、処罰や不利益を受けないことを記してください」
「承知いたしました」
使者は迷わず答えた。
「そのことについては、シリル殿下からも、王女殿下のご意向を尊重するよう申しつかっております」
イリーナは契約書から顔を上げた。
「シリル殿下が?」
「はい。王女殿下がお連れになる方も、ルグランでのお住まいも、できる限りご本人のお望みに沿うようにと」
「……そうですか」
それだけ答え、再び契約書へ目を落とした。
けれど、先ほどまで読んでいた行を見つけるのに、少し時間がかかった。
「姫殿下」
ヴァルターが口を挟んだ。
「王女に仕える者が、主人の婚姻に随行するのは当然の務めでございます。そのような条項を設ければ、規律が――」
「命じられれば、望まなくても従う者がいます」
イリーナは契約書を見たまま答えた。
「随行を望まない者を連れていっても、私の助けにはなりません。本人の意思を確かめたうえで、必要な人数を選びます」
国王が短く告げた。
「加えろ」
「承知いたしました」
使者が書記へ指示し、条文が書き直されていった。
ヴァルターはそれ以上、何も言わなかった。
婚礼衣装の仮縫いや使節団との協議が、彼の用意した講義よりも優先されるようになった。
侍女の変更を申し出ても、イリーナがすでに本人の意思を確かめたと告げれば、勝手に入れ替えることはできない。
ヴァルターが決めるより先に、イリーナが自分で決めることが増えていった。
*
出発の前夜、イリーナは侍女たちを下がらせ、一人で衣装箱を開いた。
底へしまっていた古い航海記を取り出す。
表紙の角は擦れ、革の一部は色が薄くなっていた。それでも海の頁を開けば、六年前と変わらない青が広がっている。
胸元から革袋を外し、中にしまっていた願いの紙も取り出した。
海を見てみたい。
好きなものを、自分で選んでみたい。
誰かと並んで歩いてみたい。
旧書庫でシリルと書いた文字を、上から順に目で追っていく。
紙を裏返すと、折り目に近い隅に、小さな文字が残っていた。
手をつないでみたい。
シリルにも見せなかった願いだった。
イリーナはそこへ指先で触れてから、紙を折り直して革袋へ戻すと、航海記を自分の手で旅の荷へ入れた。
もう、衣装箱の底へ隠しておく必要はない。
次にこの頁を開く時には、シリルが隣にいる。
そう考えると、床に就いてからもなかなか目を閉じることができなかった。
*
翌朝、王宮の正門前には花嫁行列が整えられていた。
王家の紋章を掲げた馬車の後ろに、持参品を積んだ荷馬車が続き、その周囲を騎士たちが囲んでいる。
見送りのために集まった者たちが道の両側へ並び、城下からも王女の出立を見ようと、多くの人々が詰めかけていた。
イリーナは国王と王妃へ別れの礼を取った。
父王から告げられたのは、王女として両国の関係を支えるようにという言葉だった。王妃も、ルグラン王家への礼を欠かさぬようにと繰り返した。
どちらも、旅立つ娘へ向けた言葉というより、国外へ嫁ぐ王女へ与えられる訓示だった。
それでもイリーナは、最後まで聞いてから頭を下げた。
ヴァルターは国王の少し後ろに立っていた。
黒い長髪をいつものように後ろで束ね、何一つ乱れのない衣装で、こちらを見ている。
その目は、嫁いでいく王女を見送るものではなかった。
自分の手を離れ、遠くへ運ばれていくものを見つめているようだった。
「姫殿下」
馬車へ乗る前、ヴァルターが呼び止めた。
「何でしょう」
「ルグランへお渡りになっても、ご自分がアルヴェリアの王女であることを、どうかお忘れなきよう」
「忘れません」
自分が何を学び、何を見てきたのかも、忘れるつもりはなかった。
侍女に支えられて馬車へ乗り込み、扉が閉じられた。
やがて御者の合図が響き、行列がゆっくりと動き始める。
王宮の門を抜けても、イリーナは振り返らなかった。
旧書庫も、航海記も、願いの紙も置いてきてはいない。
自分で選んだ相手のもとへ、すべて持っていくのだ。
馬車の中で、イリーナは進行方向へ顔を向けた。
シリルのいる西へ、道は続いていた。
花嫁行列が王都の大通りを抜け、遠く見えなくなったあとも、ヴァルターは正門の前に立ち続けていた。
*
旅は幾日にも及んだ。
王都を離れるにつれ、石造りの建物は減り、窓の外には畑や森が続くようになった。
日を追うごとに街道は西へ延び、やがて遠くの山並みが低くなっていった。
「国境までは、あとどれほどですか」
旅の三日目、イリーナは向かいに座る侍女へ尋ねた。
「予定どおり進めば、あと二日でございます」
「そう」
短く答え、窓の外へ目を戻した。
それからしばらくして、もう一度、膝の上の地図を開いた。
国境まであと一日と告げられた夜は、いつもより早く床に入った。
けれど翌朝、支度を告げに来た侍女が扉を叩くより先に、イリーナは目を覚ましていた。
その日は、馬車が速度を落とすたびに顔を上げた。
国境へ到着したのは、よく晴れた日の昼前だった。
馬車の速度がゆっくりと落ち、外から騎士たちの声が聞こえてくる。
アルヴェリア側の代表者と、出迎えに来たルグラン側の使者が、引き渡しの手順を確認しているらしい。
イリーナは膝の上で組んでいた指をほどき、もう一度組み直した。
しばらくして、馬車の扉が開いた。
侍女の手を借りて降りると、国境を示す石標の向こうに、ルグランの一団が待っていた。
濃紺の旗が風を受け、その下には騎士や役人たちが並んでいる。
その先頭に立つ青年を見た瞬間、イリーナは足を止めた。
六年前、同じ高さにあった目は、今では見上げる位置にあった。背は高く伸び、肩幅も広くなっている。濃紺の礼装は、鍛えられた肩や胸元の厚みを端正に包んでいた。
少年の頃の面影を残しながらも、立ち姿はすっかりたくましくなり、自分の国を背負う王子としての風格が備わっていた。
陽を受けた髪が風に揺れていた。すっきりとした輪郭も涼やかな目元も、記憶の中よりずっと大人びている。
晴れた空の下に立つ姿は、周囲に並ぶ騎士たちの中でも、ひときわ目を引いた。
イリーナは、すぐに目を離すことができなかった。
これほど雰囲気が変わっているのに、シリルだということだけは、ひと目で分かった。
本当に、迎えに来てくれた。
そう思った途端、口元が動きそうになり、イリーナは一度だけ唇を結んだ。
シリルも彼女を見つけると、わずかに目を見開いた。
けれど、すぐに王子としての表情へ戻り、一歩前へ進み出た。
「お迎えに参りました、イリーナ王女殿下」
正式な礼を取ったシリルが、手を差し出した。
あの頃よりも低く、落ち着いた声だった。
イリーナが自分の手を重ねると、六年前よりずっと大きくなった手が、その指を包んだ。
そしてシリルは、笑った。
その笑顔だけは、少しも変わっていなかった。
旧書庫で何度も見た、明るく、まっすぐな笑顔だった。
「迎えに来たよ、イリーナ」
イリーナの口元に、押さえる間もなく笑みが浮かんだ。
今度は、隠さなかった。
「うん」




