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第5話 残された余白

 翌朝、シリルはアルヴェリアを発った。


 帰国が決まったのは、ほんの数日前だった。出立は朝食を終えて間もない時刻で、正面玄関の前には、飾りのない旅用の馬車が停められていた。


 もともと帰国の途につく予定だったルグランの使節団へ、シリルが急遽加わることになったのだ。迎えのために用意された一団ではないため、使者も護衛も少ない。国境までは、アルヴェリアの騎士が護衛に加わることになっていた。


 馬車の後ろには、昨夜のうちにまとめられた荷箱が、革紐で慌ただしく括りつけられている。


 旅装に着替えたシリルは、アルヴェリア王と短い挨拶を交わした。昨日、旧書庫であれほど泣いていたことなど、誰にも悟らせない顔をしている。


 イリーナも、王女として決められた場所に立っていた。声をかけることは許されなかった。


 シリルが馬車へ向かう途中、一度だけこちらを見る。


 イリーナは動かなかった。動けば、追いかけてしまいそうだった。


 馬車へ乗り込む直前、シリルが振り返った。


 その唇が、やくそく、と動いたように見えた。


 扉が閉まり、馬車が進み始める。イリーナは遠ざかっていく車輪の音を聞いていた。門を抜け、姿が見えなくなっても、石畳の先から目を離せなかった。


「姫殿下。朝の講義のお時間でございます」


 侍女に呼ばれ、ようやく背を向けた。


 講義では、教師から何度か質問をされた。イリーナは教えられた通りに答え、ひとつも間違えなかった。


 それでも、その日何を学んだのかは、あとになってもほとんど思い出せなかった。


     *


 午後の予定を終えると、イリーナは旧書庫へ向かった。


 行ってもシリルはいない。分かっているのに、別の場所へは行けなかった。


 扉を開けると、薄暗い室内には昨日までと同じ匂いが残っていた。古い紙と、乾いた木の匂い。


 いつもの窓際に、二つの椅子が並んでいる。シリルが座っていた椅子は、昨日のまま少しだけ机から離れていた。立ち上がる時に押した位置から、誰も動かしていない。


 机の上には、古い航海記が開いたまま残されていた。昨日は二人とも、片づけることさえ忘れて旧書庫を出たのだ。


 青い海の頁だった。


 イリーナは自分の席へ座った。


 廊下から足音が聞こえ、思わず顔を上げる。けれど足音は扉の前を通り過ぎ、そのまま遠ざかっていった。


 少し待てば、シリルが来る気がした。遅くなったと言いながら扉を開け、いつものように笑って、今日は何を読んでいたのかと尋ねてくる。


 けれど、窓から差し込む光が傾いても、椅子は空いたままだった。


「……シリル」


 名前を呼んだ。


 返事はない。


 昨日、シリルから渡された紙は、衣服の内側へしまっていた。取り出して、海の頁の隣へ広げる。


 最初に書いた願いが目に入った。


 海を見てみたい。


 その下にも、二人で書いた言葉が並んでいる。


 好きなものを、自分で選んでみたい。


 誰かと並んで歩いてみたい。


 笑ってみたい。


 怒ってみたい。


 泣いてみたい。


 最後の文字の近くには、昨日落ちた涙の跡が残っていた。乾いた紙が、そこだけわずかに歪んでいる。


 イリーナは、その部分へ指先を置いた。


 昨日までは、この紙を開けば隣にシリルがいた。どの願いを書こうかと一緒に考え、書いたあとは、いつ叶えようかと話した。


 今は、自分しかいない。


 机の端には、使いかけの筆とインクが置かれていた。もう一つ、書きたいことがあった。


 シリルに会いたい。


 今の自分が何を望んでいるのか、考えるまでもなかった。けれど、筆を取ることはできなかった。


 次に会ったら、続きを一緒に書こう。


 そう約束した。


 それに、会いたいと書いてしまえば、今は会えないのだということまで、紙の上に残ってしまう。


 イリーナは紙を元の形に折り、余白を残したまま、航海記の海の頁へ挟んだ。


 本を閉じる。


 棚へ戻さなければならない。これは旧書庫の本だ。誰か一人のものではない。許可なく自室へ持ち帰ってよいものでもない。


 それでも、手放すことができなかった。


 ここへ残せば、誰かが別の棚へ移すかもしれない。傷んだ本として処分するかもしれない。知らない誰かが海の頁を開き、紙を見つけるかもしれない。


 何より、この本まで旧書庫へ置いて帰ることができなかった。


 イリーナは扉の方を見た。人の気配はない。


 航海記を両腕で胸へ抱え、旧書庫を出た。途中で侍女とすれ違ったが、本を持っている王女を不審に思う者はいなかった。


 誰にも呼び止められないまま自室へ戻り、衣装箱を開く。畳まれた冬物の衣服を持ち上げ、その一番下へ航海記を入れた。


 王女が旧書庫の古い本を一冊、自室へ持ち帰ったところで、咎められることはない。


 それでも、決められたことから外れないように育てられてきたイリーナが、許しを求める前に、自分がそうしたいという理由だけで行動したのは初めてだった。


     *


 シリルが去って数日後、一人の侍女がイリーナの部屋を訪ねてきた。以前、シリルの身の回りの世話を任されていた女だった。


「姫殿下に、お伝えしておきたいことがございます」


 侍女は扉の前で深く頭を下げたまま、なかなか顔を上げようとしなかった。


「何?」


「シリル殿下のお体に、傷があったことはご存じでしたか」


「見たことがある」


 旧書庫で風に袖がめくれた時、腕に残っていた痣と細い傷を思い出す。あの時、シリルは何も聞かれない方が楽だと言った。


「殿下は、日常的に暴力を受けておられました」


 イリーナは侍女を見た。


「どういうこと?」


 侍女の指が、重ねた手の中で震えていた。


「お着替えをお手伝いした時、腕や背中に、杖で打たれた痕が増えていることがございました。冬の夜に、上着もなしで廊下へ立たされていたことも……」


「誰が、そんなことを」


「家庭教師と、夜番に入る一部の護衛でございます」


 侍女は一度言葉を切った。


「服の下なら、ルグランの者にも分からないと、笑っているのを聞きました。あれを指導と呼ぶことは、私にはできません」


 イリーナの指先が冷たくなった。


「シリル殿下は、このことを誰にも話さなかったの?」


「騒ぎにしないよう、殿下ご自身がお止めになりました。アルヴェリアとの関係が悪くなれば、ルグランへ迷惑がかかるからと……」


 侍女はうつむいた。


「私も怖くて、何もできませんでした。申し訳ございません」


 シリルは、廊下から足音が聞こえるたびに顔を上げていた。旧書庫ではすぐに本へ目を戻すようになったけれど、それ以外の場所で見かける時は、いつも周囲を気にしていた。


 何かあることは分かっていた。傷も見ていた。


 けれど、何も聞かれない方が楽だと言われ、それ以上は尋ねなかった。聞かずにいることがシリルのためなのだと思っていた。


 今は、そう言い切ることができなかった。


「なぜ、今になって私へ話したの」


 侍女はしばらく黙ったあと、ようやく顔を上げた。


「昨日、旧書庫から戻られるお二人を見ました。どれほど傷が増えても、私の前では泣かなかった殿下が、姫殿下とのお別れに、あれほど泣いておられた」


 声が震えていた。


「私は、殿下が傷つけられていると知りながら、何もできませんでした。殿下がお帰りになったあとまで黙っていては、何もなかったことにしてしまうような気がしたのです」


 イリーナは何も言えなかった。


「せめて姫殿下には、あの方がこの国で何を耐えておられたのか、お伝えしなければと思いました」


 旧書庫で自分の隣に座っている間だけ、頭の中が静かになった。


 別れの前日、シリルはそう言った。


 侍女は迷った末、かすかな声で続けた。


「ヴァルター様には、報告が上がっていたはずです」


     *


 ヴァルターは執務室にいた。


 取次ぎを待たずに扉を開けると、書類から顔を上げる。


「姫殿下。ご用でしたら、先に使いを――」


「確かめたいことがあります」


 イリーナは扉の前に立ったまま言った。


「シリル殿下が繰り返し傷つけられていたと聞きました。あなたにも、報告が届いていたのですか」


 ヴァルターは一度口を閉じた。驚いた様子はなかった。


 手にしていた書類を机へ置き、イリーナへ向き直る。


「一部の者による指導が行き過ぎていたとの報告は、受けております」


「報告を受けて、何をなさったのですか」


「担当の者には、節度を欠くことのないよう申し渡しました。シリル殿下ご自身も、これ以上は問題にしないよう望まれましたので」


 ヴァルターの口元が、わずかにやわらいだ。


「ご自分の立場をよく理解された、実に聞き分けのよい殿下でした」


「それだけですか」


 ヴァルターは、わずかに首を傾けた。


「それに、姫殿下もシリル殿下のお身体に傷があることには、お気づきだったのではありませんか」


 イリーナの指が止まった。


「……見たことはあります」


「それでも、お尋ねにはならなかった」


「シリル殿下が、何も聞かれない方が楽だと言ったからです」


「ええ。傷があると知りながら、姫殿下も何もなさらなかった」


 静かな声だった。責めているようには聞こえない。それなのに、胸の奥へ冷たいものが沈んだ。


 その通りだった。


 傷に気づきながら、何もしなかった。何もできなかった。


「私は、傷を見ただけで、何が起きているのかまでは知りませんでした」


 イリーナはヴァルターを見た。


「けれど、あなたは報告を受けていた。誰が何をしているのかも知っていた。あなたなら、止められたはずです」


「そうですね」


 ヴァルターは、あっさりと認めた。


「私にはできました。幼い姫殿下には、まだできなかった」


「では、なぜ止めなかったのですか」


「正式に処分すれば、その理由を記録し、ルグラン側にも説明する必要が生じます。シリル殿下ご自身も、それを望まれませんでした」


「それでも、誰にも知られずに担当を替えることはできたはずです」


「できました」


 ヴァルターは否定しなかった。


「その必要はないと判断したのです」


 あまりにも迷いのない答えだった。


「シリル殿下が傷つけられることを、見逃したのですか」


「誰を守り、何を見逃すかを決められる。それが、力を持つということです」


 ヴァルターが席を立ち、イリーナの前まで来た。


「姫殿下にも、いずれその力をお持ちいただきます。誰を守り、誰を遠ざけるのか。感情ではなく、必要を見て決められるようにならなくてはなりません」


 ヴァルターの視線が、イリーナの襟元へ落ちた。細いリボンの結び目が、わずかに中央からずれている。


 イリーナが身を引くより先に、ヴァルターの指先が襟元へ触れた。


 結び目が、正しい位置へ戻される。


「そのために、これからも私と学んでまいりましょう」


 ヴァルターは結び目を確かめてから、手を離した。


 イリーナは、整えられた襟元を押さえた。


「今回も、姫殿下のために必要なことを選んだまでです」


 ヴァルターが、何気ないことのように続ける。


「幸い、ルグランの使節団が帰国の途につくところでしたので、シリル殿下も同道させるのがよいと陛下へ申し上げました」


 イリーナは顔を上げた。


 今朝見た、飾りのない馬車。慌ただしく括りつけられた荷箱。


 シリルの帰国が、あれほど急に決められた理由。


「シリル殿下と親しくなられてから、姫殿下には以前になかった変化が見られるようになりました。ご自分の好みを口にし、定められた予定以外の場所へ足を運ぶようになった」


 ヴァルターは、つい先ほど直した結び目へ目を向けた。


「姫殿下に悪影響を及ぼすものは、早いうちに遠ざけるべきです」


 シリルを傷つけた者たちを止めることも、シリルを帰すことも、ヴァルターにはできた。


 そして彼は、自分で選んだ方にだけ力を使った。


「国へ戻れば、シリル殿下にも果たすべき務めがございます。幼い時分の親しさが、何年先まで同じ意味を持つとは限りません」


 シリルは忘れないと言った。迎えに来るとも言った。


 ヴァルターは、その約束を知らない。


「人も、立場も変わります。今信じておられるものが、いつまでも同じ形で残るとは限りません」


 その言葉は、イリーナが最も考えたくなかったところへ入り込んだ。


 五年後、十年後。シリルがどんな人になるのかは分からない。自分がどこにいるのかも分からなかった。


 胸に生まれた不安も、それでもシリルを信じたいという気持ちも、ヴァルターに見せてはいけない。


 イリーナは何も答えなかった。


 シリルのことを口にすれば、その言葉までヴァルターに触れられる。大切だと知られたものは遠ざけられ、選んだものは、ふさわしくないと取り上げられる。


 これ以上、何も渡してはいけない。


 イリーナはヴァルターの横を通り、執務室を出た。


     *


 部屋へ戻ると、衣装箱の底から航海記を取り出した。海の頁を開き、挟んでいた紙を広げる。


 怒ってみたい。


 その文字の上に、指を置いた。


 腹が立っていた。


 シリルを傷つけた者たちに。知りながら、見逃すことを選んだヴァルターに。


 そして、その怒りは自分にも向いた。


 傷があることに気づきながら、何も聞かれない方が楽だという言葉に従い、その先を知ろうとしなかった。


 あの時の自分には、そうすることしかできなかったのかもしれない。


 それでも、今はそのことが苦しかった。


 どれほど怒っても、シリルが受けた傷は消えない。今から彼のそばへ行くこともできなかった。


 イリーナは紙の余白へ目を移した。


 書きたいことはいくつもあった。


 シリルに会いたい。


 忘れられたくない。


 もう一度、隣で本を読みたい。


 けれど、何も書かなかった。


 この紙は、次にシリルと会う日まで、余白のままにしておきたかった。


 それに、誰かに見つけられるわけにはいかない。航海記なら古い本として衣装箱の底へ隠しておけるが、紙は見つかれば、何が書かれているのかまで読まれてしまう。


 イリーナは引き出しの奥から、小さな革の袋を取り出した。幼い頃、守り石を入れるために渡されたものだった。


 袋から小さな石を取り出し、代わりに願いの紙を折って入れる。革紐を首へかけると、衣服の下へ隠した。


 紙が胸元に触れた。


 そこにあることは、外からは分からない。


 航海記は、もう一度衣装箱の底へ戻した。


     *


 翌朝、ヴァルターと顔を合わせた。


「昨日は、少々感情的になられていましたね」


 イリーナは彼を見た。


 怒れば、その理由を知られる。悲しめば、何を失ったのかを探られる。大切だと知られれば、遠ざけられる。


「申し訳ございませんでした」


 教えられた通りに頭を下げる。


「もう、落ち着かれましたか」


「はい」


「昨日のように、感情のまま言葉を乱されることは?」


「今後は気をつけます」


 ヴァルターは満足そうにうなずいた。


「感情を制御できるようになれば、姫殿下も、さらに立派な王女へとお育ちになるでしょう」


 イリーナは黙って、もう一度頭を下げた。


 衣服の下には、願いの紙がある。


 余白には、まだ何も書かれていない。


 続きを書く日まで、誰にも渡さない。


 それからイリーナは、ヴァルターの前で二度とシリルの名を口にしなかった。

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