第4話 別れ
シリルと旧書庫で顔を合わせるようになって、もうすぐ一年になるところだった。
初めの頃、イリーナは彼と話す時にも、口にしてよい言葉をひとつずつ選んでいた。敬語を使わなくていいと言われても、語尾を変えるだけで考え込み、名前を呼ぶ時にも、口にする前に小さく迷った。
けれど、いつからだったのだろう。気づけば、旧書庫で二人きりの時だけは、シリルに敬語を使わなくなっていた。
嫌なものは嫌だと言い、分からないことは分からないと言う。読みたい本があれば自分から手を伸ばし、何も話したくない時には、黙ったまま頁をめくることもできた。
扉を開ければ彼がいる。向かい合って本を読み、ときどき同じ頁を覗き込み、思いついた願いを紙に書く。いつの間にか、それはイリーナにとって、明日も変わらず続く日常になっていた。
その日常が終わると知らされたのは、朝のことだった。
シリルがルグランへ帰る。
決定されたのは数日前で、出立は翌朝。あまりに急だと侍女たちは話していたが、すでに両国の間で決まったことであり、覆ることはないらしい。
知らせを受けたあとも、イリーナは決められた時間に朝食をとり、いつも通り授業へ向かった。教師の問いには間違えずに答えたはずだったが、何を教わったのかはほとんど残っていなかった。
授業が終わると、そのまま旧書庫へ向かった。
*
扉を開けると、シリルはすでに来ていた。
いつもの席に座り、机の上には古い航海記が開かれている。海の挿絵の横には、二人で願いを書き足してきた紙が広げられていた。
けれど、シリルは頁を読んでいなかった。机の一点へ目を落としたまま、イリーナが入ってきても顔を上げない。頁を押さえた指も、同じ場所に置かれたままだった。
イリーナは向かいの椅子を引いた。
「……聞いた?」
しばらくして、シリルが尋ねた。いつもの声より掠れていた。
「うん。明日の朝、発つんだよね」
シリルが頷く。それきり、会話が途切れた。
帰国が決まったのなら、何と言うべきなのかは分かっていた。故郷へ帰り、家族のもとへ戻れるのだ。本来なら、喜ぶべきことだった。
「家族のもとへ帰れるんだよね」
イリーナは、口にするべき言葉を探した。
「……よかったね」
「うん」
シリルは泣きそうな顔のまま、少しだけ笑った。
「よかった」
笑った声の終わりが震え、目尻から涙がこぼれた。シリルは慌てて拭ったが、すぐに次が頬を伝った。
イリーナは、その涙を見つめた。帰れることは嬉しいはずだった。嬉しい時には、人は笑うものだと教えられている。
「……帰りたくないの?」
シリルは首を横に振った。
「帰りたいよ。ずっと帰りたかった。父上にも、母上にも会いたい。弟たちにも……会いたい」
手の甲で頬を拭っても、涙は止まらなかった。イリーナが何も言えずにいると、シリルは赤くなった目を上げた。
「でも、イリーナと離れるのは嫌だ」
取り繕う余裕など、もう残っていない声だった。
「帰れるのは嬉しい。家族にも会いたい。でも、イリーナと会えなくなるのは……嫌なんだ」
いつか海の挿絵を前に、シリルは、怖くても見たいものがあると言っていた。あの時は、よく分からなかった。
けれど今は、シリルの言っていることが少しだけ分かる。
帰ってほしい。家族に会ってほしい。それと同じくらい、行ってほしくなかった。反対の気持ちなのに、どちらも嘘ではなかった。
明日から失われるものが、次々と思い浮かんだ。
旧書庫へ来ても、向かいの席にシリルはいない。二冊の本から、どちらを読みたいか尋ねる人も、願いが浮かばない日に、また今度と言う人もいない。悪い芋の話をして笑う人も、高い棚の本を取って得意そうな顔をする人も、いなくなる。
それでも明日になれば、いつものように、この扉を開けてしまう気がした。誰もいない席を見つけた時、自分はどうすればよいのだろう。
イリーナの指が、膝の上で固く閉じた。爪が掌へ食い込んでも、気づかなかった。
「イリーナ」
シリルが席を立ち、机を回って隣へ来た。
「手」
呼ばれても、指は動かなかった。
シリルは固く握られた拳へ、自分の指を添えた。無理にこじ開けるのではなく、爪の食い込んだ指を一本ずつ、掌から離していく。
「そんなに握ったら、痛いだろ」
開かれた掌には、爪の跡が赤く残っていた。それを見た途端、視界が滲んだ。
頬を伝った雫が、机の上へ落ちる。願いを書いた紙の上だった。
――泣いてみたい。
その文字のすぐそばで、涙の跡が丸く広がった。イリーナはしばらく、それを見つめていた。
頬を伝うものが何なのか分かった途端、また一滴、紙の上へ落ちる。
「……私、泣いてる」
呟いた声が震えた。一度落ち始めると、止め方が分からなかった。拭っても次が溢れ、息を吸おうとするたびに喉の奥が震えた。
シリルは、息を止めたようにイリーナを見ていた。唇を強く噛み、どうにか泣き声を堪えていた。
けれど、イリーナの頬を涙が次々と伝うのを見た途端、その顔がくしゃりと崩れた。
「……嫌だ」
掠れた声だった。
シリルは俯き、何度も手の甲で目元を拭った。拭うたびに涙が溢れ、ひっ、と息が引きつる。
「嫌だ……っ。やっぱり、嫌だ」
途中で声が詰まった。肩が大きく揺れ、息を吸うたびにしゃくり上げる。何かを言おうと口を開いても、言葉にならない息だけが漏れた。
「シリル……」
イリーナが名前を呼ぶと、シリルはますます泣いた。
「こんなに泣くつもりじゃ、なかったのに……」
涙を拭おうとした手で、今度は顔を覆う。
「かっこ悪いのに。止まらない……っ」
イリーナは首を横に振った。
「かっこ悪くない」
自分の声も、泣き声に崩れた。
「私も、止まらない」
シリルは顔を覆ったまま、何度も息を継いだ。
「だって……明日から、もうここでイリーナに会えない。一緒に本を読むのも、願いを書くのも……もう、できない」
濡れた手を顔から下ろし、シリルはイリーナを見た。
「この一年、ここへ来れば、いつもイリーナがいたのに」
声がまた崩れた。
「ここにいた間、嫌なことがあっても……イリーナの隣に座ると、頭の中がすっと静かになったんだ。何も聞かないでいてくれたから。黙ってても、笑ってなくても、そのままでいられた」
途中で息が引きつり、涙が顎から落ちた。
「あの時間が、すごく好きだった。イリーナに会えなくなるの、嫌だ」
イリーナは、以前見た腕の痣を思い出した。風に袖がめくれた時、シリルの腕には、細い傷と青紫色の痕が残っていた。
廊下から足音が聞こえるたび、わずかに顔を上げていたことも知っている。背後から誰かが近づくと、肩が固くなることもあった。
何かがあるとは思っていた。誰かに傷つけられているのかもしれないと、考えたこともあった。
けれど、理由を尋ねなかった時、シリルは、その方が楽だと言った。聞かないことが、彼のためになるのだと思っていた。誰に話せば、シリルをさらに困らせずに済むのかも分からなかった。
けれど、旧書庫で過ごす時間を、シリルがそれほどの支えにしていたとは知らなかった。
「私も……」
声が震え、うまく続かなかった。涙を拭うこともせず、何度か息を継ぐ。
「私も、ここに来ればシリルがいた」
好きなものを知った。自分で本を選んだ。庭を歩き、笑った。怒りたい、泣きたいと願うことを覚えた。
どれも、シリルが向かいの席に座っていなければ、始まらなかった。
「明日もいると思ってた。これからも、ずっと……ここに来れば、会えると思ってた」
口にした途端、涙がまた溢れた。シリルが顔を上げる。
イリーナは考えるより先に、彼の袖を掴んでいた。
「帰ってほしい。家族に会ってほしい。でも……」
指が布を強く握る。
「私の前から、いなくならないで」
最後の言葉は、泣き声に崩れた。シリルの顔がまた歪んだ。
「俺もだよ」
しゃくり上げながら、何度も首を横に振る。
「俺だって離れたくない。帰りたいけど、離れたくない。イリーナと一緒にいたい……っ」
シリルはイリーナの袖を掴み返した。互いがまだそこにいることを確かめるように、二人とも相手の服を握っていた。
「迎えに来る」
シリルが言った。涙で息を詰まらせながら、それでも言い切ろうとする。
「絶対……っ、絶対、迎えに来るから。何年かかっても戻る。今度は俺が、イリーナを迎えに来る。だから……待ってて」
イリーナは泣きながら頷いた。
「待ってる」
シリルは、机の上の航海記へ目を向けた。開かれた頁には、青い海が広がっている。
「海も、まだ見てない」
「……うん」
「一緒に見るって、決めた」
シリルは袖を握ったまま、イリーナの目を見た。
「迎えに来たら、一緒に海を見よう」
「……約束して」
「約束する」
イリーナは何度も頷いた。それでも、ひとつだけ怖かった。
「私のこと、忘れないで」
シリルは泣きながら、強く首を横に振った。
「忘れるわけないだろ」
声が詰まり、最後はほとんど泣き声になった。
「絶対に忘れない」
二人はそれ以上、まともに話せなかった。帰国を止めることも、自分たちで未来を決めることもできない。ただ、互いの袖を掴んだまま、二人で泣いた。
やがて、廊下の向こうから足音が近づいてきた。シリルの身体が強張る。
扉が控えめに叩かれた。
「シリル殿下。お時間でございます」
シリルは返事をしなかった。イリーナの袖を握ったまま、俯いている。
もう一度、扉の向こうから声がした。
「殿下」
シリルは乱れた息を何度か吸い、ようやく指を離した。イリーナの手も、すぐには動かなかった。
シリルは机の上の願いの紙を二つに折った。涙で濡れた場所を避けるように丁寧に折り、イリーナの掌へ戻す。
先ほど自分が開いたばかりの指を、今度は紙を包むように閉じさせた。
「持ってて」
「……うん」
「次に会ったら、続きを書こう」
イリーナは掌の中の紙を見た。まだ、いくつもの願いを書ける余白が残っている。
「うん。続き、一緒に書こう」
イリーナは紙を胸元へ抱えた。
シリルは立ち上がり、扉へ向かって二歩進んだところで足を止めた。
振り返った顔は涙で濡れ、目も鼻も赤くなっていた。それでも、イリーナを真っ直ぐに見た。
何かを言おうと唇を開き、けれど声にはならなかった。イリーナも何も言えなかった。
扉が開く。
シリルは廊下へ出てからも、何度も振り返った。イリーナも、扉が閉じる最後の瞬間まで彼を見ていた。
やがて扉が閉じた。
向かいの席には、もう誰もいなかった。
机の上では、開かれた航海記の海だけが、変わらず青く広がっていた。




