第3話 未完の約束
その日も、イリーナは古い航海記を開いていた。初めて手に取ってから、旧書庫へ来るたびに同じ本を選んでいる。ほかにも読んだことのない本は数えきれないほどある。それでも棚の前に立つと、いつもこの一冊へ手が伸びた。
その本には、ところどころに絵師の手で彩色された挿絵があった。イリーナが何度も開くのは、海が描かれた見開きだった。年月を経て、色は褪せ始めている。それでも、沖へ向かうほど深くなる青も、陽を受けて白く輝く波も、まだ失われてはいない。遠くには帆を張った船が浮かび、その上には雲のない空が続いていた。
深く沈む青。光を跳ね返す青。風を受け、形を変える青。同じ色なのに、どれも違って見える。波が重なり、ほどけて、また重なる。岸の向こうには境目がなく、どこまで続いているのかも分からない。絵の中にあるはずなのに、風や水の音まで聞こえてきそうだった。見たこともない景色なのに、この頁だけは目を閉じても思い出せる気がした。
イリーナの指が、頁の端に触れる。綺麗だと思った。その言葉が浮かんだことに、自分で驚いた。
「また、それ見てる」
顔を上げると、向かいに座っていたシリルが本を閉じた。
「前は、面白いか分からないって言ってなかった?」
「……言いました」
「なのに、ずっと同じ頁だな」
からかうような声ではなかった。シリルは立ち上がると机を回り込み、イリーナの隣の椅子を引いた。二人の間には、本一冊分ほどの距離が残る。同じ見開きを覗き込むと、シリルの袖が頁の端に触れた。
「この船、小さすぎないか」
イリーナは挿絵を見直した。
「船が小さいのではなく、海が広いのだと思います。向こう岸が見えないほどだと書かれていました」
「陸が何も見えないのか」
シリルの指が、船から頁の端までをゆっくりと辿る。
「それは怖いな。帰る方角が分からなくなりそうだ」
イリーナは隣を見た。怖いなら、なぜいつまでも船を見ているのだろう。
「でも、見てみたい」
シリルが続けた。イリーナの視線に気づき、彼は少しだけ眉を上げる。
「怖くても、見たいことはあるだろ」
そんなことがあるのだろうか。尋ねようとしたが、何をどう聞けばよいのか分からなかった。イリーナが黙っていると、シリルもそれ以上は説明せず、挿絵へ目を戻した。
「イリーナは、なんで何度も見るんだ?」
答えを迫る様子はない。シリルは絵の中の船を指で示したまま、海を眺めている。イリーナは沖へ向かって濃くなる青を見つめた。
「……綺麗だから、かもしれません」
口にしてから、シリルを見た。彼は驚いたように瞬きをし、それから笑った。
「そっか」
「……何ですか」
「イリーナは、これが綺麗だと思うんだな」
イリーナはもう一度、見開きへ目を落とした。
「はい」
「なら、好きなんじゃないの」
「綺麗だと思うものが、好きなものなのでしょうか」
「たぶん」
シリルは少し考え、すぐに付け足した。
「違うかもしれないけど」
ずいぶん曖昧な答えだった。けれど、正しい答えとして押しつけられるより、その方が受け取りやすかった。シリルの指が、挿絵の水平線へ移る。
「この向こうには、何があるんだろうな」
「別の国や島があると書かれています」
「見たことのない町もあるかな」
「おそらく」
「変な魚もいるかもしれない。人より大きくて、歯が百本あるとか」
「それは、あまり見たくありません」
考える前に言葉が出た。シリルがこちらを向く。イリーナも、自分が何を口にしたのかに遅れて気づいた。
「歯が百本ある魚は嫌か」
「嫌です」
今度は迷わず答えた。シリルが吹き出した。肩を揺らして笑う彼を、イリーナは困惑しながら見つめる。
「どうして笑うのですか」
「悪い。やっと嫌って言ったから」
「おかしいですか」
「いや。そっちの方がいい」
何がよいのかは分からない。それでも、笑われたのに不快ではなかった。イリーナはもう一度、挿絵へ目を戻した。青い水。白く砕ける波。水平線へ向かう船。
「……見てみたい」
声に出したあとで、自分の言葉に驚いた。教師に問われたから答えたのではない。父や母が望む言葉でもない。ただ、見てみたいと思った。
「海を?」
イリーナはすぐには答えなかった。頁を閉じる代わりに、描かれた水平線を指で辿る。
「……はい」
王女が簡単に遠出などできない。海までは遠く、国境を越えなければならない。現実的ではないと、教師なら言うだろう。けれど、シリルはそう言わなかった。
「いいな。俺も見たい」
イリーナは隣を見た。シリルも、この海を見たことがない。二人とも知らないものを、同じように見たいと思っている。
「いつか、一緒に見に行こう」
あまりにも簡単に未来の話をされ、イリーナは彼を見つめた。
「……一緒に?」
「俺じゃ嫌?」
「いいえ」
思ったより早く答えていた。シリルが満足そうに笑う。
「じゃあ、決まり」
決まり。その一言で、挿絵の中にしかなかった海が、いつか辿り着ける場所になった。
*
シリルは机の隅にあった紙を一枚取り、イリーナの前へ滑らせた。
「書いておこう」
「……今のを?」
「うん。忘れないように」
イリーナは白い紙を見つめた。
「忘れないと思います」
「じゃあ、忘れなくても残しておこう」
シリルは紙の上を指先で叩いた。
「ほかにも見つかるかもしれないし」
「海のほかには、思いつきません」
「今はな」
何も書かれていない紙には、まだ広い空白がある。
「好きなものとか、やりたいこととか。見つけたら増やせばいい」
イリーナはしばらく紙を見つめた。海のほかに何かないかと考えてみたが、やはり浮かばなかった。
「……今は、ありません」
「じゃあ、そのうちでいい」
そのうち。以前にも、シリルは同じ言葉を使った。渡されたペンを持ち、紙の一番上にゆっくりと書く。
――海を見てみたい。
「一番目だな」
シリルが横から文字を覗き込む。
「一緒に行くことも書く?」
「それは……」
イリーナは余白を見つめた。自分のやりたいことを書く紙に、誰かの名前を加えてよいのか分からない。ペン先を浮かせたまま迷っていると、シリルが先に身を引いた。
「書かなくていい。俺が覚えてる」
「忘れませんか」
「忘れない」
迷いのない返事だった。紙には、まだ一行しかない。それでも、何もなかった場所に初めて、自分の言葉が残った。
イリーナは紙を二つに折り、航海記の海の頁へ挟んだ。それが、二人だけの隠し場所になった。
*
翌日、旧書庫の机には二冊の本が並べられていた。一冊は王国の歴史書。もう一冊は、遠い国の昔話を集めたものだった。
「どっちを読む?」
イリーナは二冊へ目を落とした。
「どちらでも構いません」
そう答えながら、目は白い鹿が描かれた表紙へ向いていた。シリルは何も言わず、二冊をイリーナの方へ少し押した。
歴史書には、見慣れた王家の紋章がある。昔話の本には、深い森の中を駆ける白い鹿。どちらが正しいのかを考えかけて、イリーナは手を止めた。正解を求められているわけではない。
迷った末に、白い鹿へ指を伸ばす。
「……こちらが、気になります」
「俺も」
シリルは歴史書を脇へよけ、昔話の本を二人の間に開いた。
数頁読んだところで、イリーナはふと顔を上げた。自分は先ほど、誰にも決められず、読みたいと思った本へ手を伸ばした。航海記を引き寄せ、中に挟んだ紙を取り出す。
「どうした?」
イリーナは答えず、空いている場所に文字を書いた。
――好きなものを、自分で選んでみたい。
書き終えてから、机の上の昔話へ目を向ける。
「……先ほど、ひとつ選びました」
シリルも、紙と昔話を見比べた。
「ああ。もうできたな」
イリーナは新しい願いの横へ、小さく書き足す。
――昔話の本を選んだ。
別の日には、誰かと並んで歩いてみたいと書いた。次に旧書庫へ行くと、シリルは扉の前に立っていた。本を持っていない。
「庭へ行こう」
「今日は、読まないのですか」
「あとで読めばいい。歩いてみたいんだろ」
先に廊下へ出たシリルを、イリーナは追った。庭へ出ると、離れた場所に護衛がついた。完全に二人きりではない。それでも、教師も侍女も間へ入らず、シリルが隣を歩いている。
分かれ道で、彼が足を止めた。
「どっちにする?」
右は噴水へ続き、左は花壇の間を抜けている。「どちらでも」と答えかけ、イリーナは左右を見た。花壇には小さな白い花が並び、その向こうで木の枝が風に揺れている。
「……左へ行きたいです」
「分かった」
シリルはすぐに左へ曲がった。歩幅は彼の方が大きい。けれど、しばらく進むうちに、少しずつ足取りが遅くなっていった。
イリーナは何も言わなかった。シリルも、歩調を合わせているとは言わない。二人で庭を一周し、旧書庫へ戻った。
イリーナは航海記から紙を取り出し、願いの横へ書き足した。
――誰かと、並んで歩いてみたい。
庭でシリルと歩いた。
文字を読んだシリルは、何も言わずに頷いた。
*
紙の上には、少しずつ言葉が増えていった。
好きな時に、好きな場所で風に当たってみたい。夜が更けるまで本を読んでみたい。雨の日に、傘を差さずに歩いてみたい。食べたい菓子を、自分で選んでみたい。行き先を告げずに、庭の端まで行ってみたい。
書けない日もあった。紙を広げたまま、何も浮かばずに帰ることもある。そんな日は、シリルも何も聞かなかった。向かいで本を読み、帰る時に紙を航海記へ戻すだけだった。
「今日は増えなかったな」
ある日、シリルが紙を折りながら言った。イリーナは小さく頷く。
「じゃあ、また今度」
それで終わった。
ある日、二人で古い物語本を読んでいた。物語では、勇敢な騎士が怪物を追い詰め、剣を振り上げている。けれど、隣の頁に描かれた怪物は妙に丸く、鋭い角よりも大きな腹の方が目立っていた。太い脚を縮めた姿は、騎士から逃げようとしているというより、地面を転がる大きな塊に見える。
「これ、本当に怪物なの?」
イリーナが言うと、シリルは挿絵を覗き込んだ。
「大きな芋かもしれない」
「芋を退治してるの?」
「国中の畑を食べ尽くした、悪い芋だ」
「芋が畑を食べるの?」
「悪い芋だから」
「それなら、騎士より農夫を呼んだ方がいい」
シリルが吹き出した。何がおかしいのか分からないまま見ていると、イリーナの口からも小さく声が漏れた。自分の声に驚き、手で口元を押さえる。
「今、笑った」
「シリルが、おかしなことを言うから」
「俺のせいか」
「悪い芋なんて、いるはずない」
言い切ったところで、また笑いがこぼれた。今度は、口元を隠さなかった。
笑いが収まると、イリーナは自分から航海記を引き寄せた。
――笑ってみたい。
その横に、小さく書き足す。
――旧書庫で笑った。
ペン先を離しかけてから、もう一度紙へ戻した。
――考えずに話してみたい。
シリルは何も言わず、挿絵の怪物を指で叩いた。丸い腹を見たイリーナの口元が、またわずかに緩む。新しい願いの横にも、続きを書いた。
――旧書庫で、できた。
*
紙の行が増えるにつれ、イリーナはシリルに尋ねられなくても、願いを考えるようになった。
ある日、彼が来る前に紙を裏返し、折り目に近い隅へ、小さな文字を書いた。
――手をつないでみたい。
書いたあとで、なぜそれを思いついたのか、自分でも分からなくなった。儀式で手を取られることはある。舞踏の練習でも、相手へ指先を預ける。けれど、そういうものとは違う気がした。
誰かに求められたからではなく、自分から手を伸ばしてみたい。
その時、扉が開いた。イリーナは紙を表へ返す。
「今、何か書いてた?」
シリルが向かいの席へ座り、紙を覗こうとする。イリーナはその上へ手を置いた。
「⋯⋯書いた」
「見せないの?」
「……見せない」
シリルが意外そうに目を見開く。
「俺にも?」
「全部を教えなくてもいいことも、あるんでしょう?」
以前、言いたくないことは言わなくてよいと教えたのは、シリルだった。彼はしばらく黙り、やがて口元を曲げた。
「それを言われたら、聞けないな」
イリーナは紙を折り、航海記へ戻した。裏側の隅に書いた一行だけは、シリルに見せなかった。
*
さらに日が経つと、紙に増えるのは、行きたい場所やしてみたいことだけではなくなった。
「怒ってみたい」
イリーナが言うと、シリルは本から顔を上げた。
「怒ったこと、ないの?」
イリーナはすぐに答えられなかった。腹を立てたことはあったのかもしれない。けれど、それが怒りなのか考えるより先に、顔へ出さないようにしてきた。
「……分からない」
ペンを持ったまま、自分の指先を見る。
「感情に振り回される者は、上に立つ資格がないと教えられてるから」
シリルは腕を組み、眉を寄せた。
「怒ることと、振り回されることって、同じなのかな」
答えを待ったが、シリルは黙って考え込んでいる。
「シリルにも、分からないの?」
「分からないことくらいある」
少し不満そうな返事だった。イリーナは紙へ目を落とし、そのままペンを動かした。
――怒ってみたい。
シリルは何も言わず、書き終えた文字を見ていた。
その数日後、イリーナは紙を前にしたまま、なかなかペンを取れずにいた。シリルも向かいで本を開いている。けれど、同じ頁のまま、しばらく指が動いていなかった。
「今日は、書かない?」
イリーナは首を横に振った。
「⋯⋯書く」
それだけ答えて、ペンを握る。紙へ触れた先が震え、最初の線すら書けなかった。声の方が先に出た。
「……泣いてみたい」
シリルが顔を上げる。しばらくイリーナを見ていたが、すぐには何も言わなかった。
イリーナは震えるペン先を紙へ押し当て、ゆっくりと文字を書く。
――泣いてみたい。
「理由は、聞かないの?」
シリルは少し迷ったあと、椅子の背から身体を起こした。
「聞いてほしい?」
イリーナは考えた。泣きたいと思った理由を話そうとしても、何を言えばよいのか分からない。ただ、泣くということがどのようなものなのか知りたかった。
やがて首を横に振る。
「じゃあ、今は聞かない」
シリルは本を閉じた。イリーナが書いた文字を見て、それ以上は何も言わなかった。
*
旧書庫で顔を合わせる日々が続くうちに、窓の外の木々は色づき、葉を落とし、枝先には小さな芽が膨らみ始めていた。
ある日、イリーナが高い棚の本へ手を伸ばそうとすると、隣から伸びてきた手が先に背表紙を掴んだ。
「取れた」
シリルが、少し得意そうに本を抜き出す。初めて会った日には、あの棚へ手が届かなかった。イリーナが代わりに本を取ると、不満そうな顔をしていたのを覚えている。
「背が伸びたのね」
「伸びたよ。ずっと俺の方が小さいままなわけないだろ」
シリルがこちらを向く。その顔を見て、イリーナは初めて気づいた。以前は、シリルを見る時、わずかに視線を下げていた。けれど今は、真っ直ぐ前を向いたところに彼の目がある。
「……同じくらい」
「もうすぐ追い越す」
「そうかな」
「追い越すよ」
シリルは言い切ると、取った本をイリーナへ差し出した。イリーナは本を受け取る。
これからも、少しずつ背が伸びていくのだろう。次に同じ棚の本を取る頃には、本当に追い越されているのかもしれない。その頃には、紙の余白にも、今よりたくさんの言葉が増えているはずだった。
海を見たい。好きなものを選びたい。誰かと並んで歩きたい。好きな時に風に当たりたい。考えずに話したい。笑いたい。怒りたい。泣きたい。
何も書かれていなかった紙に、イリーナの言葉が並んでいる。その日は、それ以上書かなかった。紙を二つに折り、航海記の海の頁へ挟む。
紙には、まだ大きな余白が残っていた。続きを書く日は、いくらでもある。
その時の二人は、そう思っていた。
*
シリルと旧書庫で顔を合わせるようになって、もうすぐ一年になるところだった。
初めの頃、イリーナは彼と話す時にも、口にしてよい言葉をひとつずつ選んでいた。敬語を使わなくていいと言われても、語尾を変えるだけで考え込み、名前を呼ぶ時にも、口にする前に小さく迷った。
けれど、いつからだったのだろう。気づけば、旧書庫で二人きりの時だけは、シリルに敬語を使わなくなっていた。
嫌なものは嫌だと言い、分からないことは分からないと言う。読みたい本があれば自分から手を伸ばし、何も話したくない時には、黙ったまま頁をめくることもできた。
扉を開ければ彼がいる。向かい合って本を読み、ときどき同じ頁を覗き込み、思いついた願いを紙に書く。いつの間にか、それはイリーナにとって、明日も変わらず続く日常になっていた。
その日常が終わると知らされたのは、朝のことだった。




