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第2話 静かな場所

 それから数日後、イリーナはまた旧書庫へ向かった。


 自分でも、不思議に思う。あの日、あの少年と特別な出来事があったわけではない。同じ本に手を伸ばし、わずかに言葉を交わした。ただそれだけだ。思い返すほどのことでもない。そう言い聞かせれば、それで終わる程度の出来事だった。


 それでも、扉の前で手が止まる。


 中に、いるだろうか。


 そんなことを考えた自分に、イリーナは気づかないふりをして扉を開けた。ひんやりとした空気が頬に触れ、紙と古い木の匂いが鼻をかすめる。


 窓際の席に、あの少年がいた。


 机の上に本を開き、頁に目を落としている。こちらを見ない。けれど、扉が開いたことには気づいているようだった。


 イリーナは何も言わずに本棚へ向かい、前と同じように一冊を選んだ。それから、少年と同じ卓の、前と同じくらい離れた席に腰を下ろす。


 椅子が小さく鳴った。


 少年は顔を上げず、イリーナも声をかけなかった。しばらくのあいだ、頁をめくる音だけが続く。廊下を歩く誰かの足音も、やがて遠ざかっていった。


 ここでは、ただ本を開いているだけでよかった。


 王宮の中にあるのに、王宮ではないように思える。誰も呼ばない。誰も試さない。何を学んだのか、どの答えが正しいのかと尋ねる者もいない。


 何も答えなくていい時間が、そこにある。


 ふと、向かい側で紙の擦れる音がした。


「……それ」


 変声期に差しかかったのか、その声はわずかに掠れていた。


 イリーナが顔を上げると、少年は彼女の手元を見ている。開いていたのは、古い航海記だった。海の向こうの港や潮流について書かれた、かなり傷んだ本だ。


「面白い?」


 あの日よりも、いくらか気安い問い方だった。


 イリーナは考えてから、首を横に振る。


「……分かりません」

「分からないのに読んでるの?」

「はい」


 それ以上、言葉が出てこない。けれど少年は呆れもせず、責めもせず、ただ不思議そうに彼女を見た。


「変わってる」

「……そうでしょうか」


 少年の口元が緩んだ。ほんの短い変化なのに、顔つきが急に年相応に見える。


 イリーナは本へ視線を戻したものの、同じ行を二度読んでしまった。


 誰かが自分に向かって、こんなふうに言うのは珍しい。評価でも指摘でもない。ただ感じたことを、そのまま口にしただけの言葉。そこに悪意も期待もないことが、かえって落ち着かなかった。


 再び会話が途切れる。


 けれど、次に何を言うべきか考えなくてもよい沈黙だった。


     *


 その次に会った時も、少年は先に旧書庫へ来ていた。


 窓際ではなく、本棚の前に立っている。高い棚を見上げ、上段の背表紙を睨むようにしていた。どうやら目当ての本に手が届かないらしい。


 イリーナはそのまま通り過ぎかけ、足を止めた。彼の隣へ行き、何も言わずに棚の上段へ手を伸ばす。


「……これですか」


 抜き出した本を差し出すと、少年は目を見開いた。


「あ」


 本を受け取ってから、少し遅れて言う。


「ありがとう」


 イリーナは頷いた。


「いえ」


 そこで会話は終わると思っていた。だが少年は、受け取った本とイリーナを交互に見た。


「この前も思ったけど、背、意外と高いな」

「……そうでしょうか」

「いくつ?」

「十一です」

「俺より二つ下か」


 少年は自分の頭の辺りに手を置き、次にイリーナを見る。比べているらしい。


「とってくれてありがとう。助かった」

「いえ」


 礼を言われることはある。けれどそれは、王女として何かをした時に向けられるものだった。ただ本を取っただけのことを、こんなふうに喜ばれた覚えはない。


 何と返せばよいのか分からず、イリーナは本棚へ目を向けた。


「そういえば」


 少年は本を抱え直した。


「俺、名前を言ってなかったな。シリル」


 王子だとか、どこの誰だとか、余計なもののつかない名乗りだった。


 イリーナも、互いに名乗っていなかったことに今さら気づく。何度も同じ部屋にいて、それでも相手の名前を尋ねずに過ごしていた。そのことが妙におかしかった。


「シリル様。私は、イリーナです」

「知ってる」


 あまりに当然のように返され、イリーナは瞬きをした。


「……私のことをご存じだったのですか」

「名前は聞いてた。王宮へ来た時に、この国の王族について教えられたから。それに何度か見た。廊下とか、庭とか。いつも誰かがそばにいたから、すぐ分かった」


 イリーナのそばには、侍女か教師か護衛がいる。一人で歩くことは許されない。それをシリルも見ていたらしい。


「では、なぜ……」


 イリーナが口にすると、シリルは首を傾げた。


「なぜ?」

「私が誰か知っていたのなら、最初に会った時、もっと……」


 その先がうまく続かない。


 王女に対するように礼をするべきだった。言葉を選び、距離を取り、許しなく声をかけることなど控えるべきだった。だが、それを説明しようとすると、なぜか言葉が出てこなかった。


 シリルは考えるように眉を寄せ、やがて言った。


「ここには、本を読みに来ただけだろ」


 イリーナは彼を見つめた。


「王女として来たわけじゃない。俺だって、ここには本を読みに来てるだけだ。ルグランの王子としてじゃない」


 シリルは手にした本へ目を落とした。


「そういう場所が、ひとつくらいあってもいいだろ?」


 王女ではなく、ただ本を読みに来た子。それだけでよいと言われたのは、初めてだった。


「……はい」


 ようやく返せたのは、それだけだった。


「それから、様もいらない」

「ですが」

「シリルでいい。俺もイリーナって呼ぶから」


 その言い方に、命じる響きはない。シリルは思い出したように付け加えた。


「それに、敬語じゃなくてもいいよ。話しやすい方でいいけど」

「……分かりました」

「敬語」


 シリルが笑った。これまでの控えめなものではなく、白い歯が見える、明るい笑い方だった。


「……すみません」

「謝ることじゃない」


 シリルの口元には、穏やかな笑みが残っていた。


「無理に変えなくていいよ。そのうちで」


 そのうち。


 できないことを急かすのではなく、いつかできるかもしれないものとして待ってもらったのは、初めてだった。


 イリーナは手にしていた本の背を指でなぞる。


「……はい」


 また敬語になったが、今度はシリルも何も言わなかった。


 それでも、イリーナはまだ彼の名を呼べなかった。


     *


 旧書庫の外でも、イリーナは何度かシリルを見かけた。


 人質だからといって、檻に閉じ込められているわけではない。許された範囲なら王宮内を歩けるし、庭へ出ることもできる。


 けれど、自由ではなかった。


 シリルがどこへ行く時も、離れた場所に兵がついている。庭の木陰で立ち止まっても、誰かと話していても、一人になることはない。


 衣服も部屋も、王子にふさわしいものが与えられている。食卓では丁重に扱われ、教師もつけられている。


 それでも、彼は客ではない。


 旧書庫の外にいるシリルは、決して大きく笑わなかった。誰に対しても必要な分だけ答え、礼を失わない。けれど、自分から会話を広げることもない。


 最初に会った時、イリーナは彼の目をあたたかいと思った。けれど廊下や庭で見かけるシリルは、いつも周囲を気にしていた。


 旧書庫では、廊下から足音が聞こえても、すぐに顔を上げることはなかった。


 ある日のことだった。


 開けていた窓から強い風が入り込み、机の上の紙が一斉にめくれた。


 開けていた窓から強い風が入り込み、机の上の紙が一斉にめくれた。イリーナの髪が顔へかかり、向かい側にいたシリルも本を押さえる。


 その拍子に、袖が肘の近くまでずれた。


 腕に、薄い痣が残っている。一つではない。細い傷も混じっていた。


 昨日今日についたものではない。だが、遠い昔の傷にも見えない。


 イリーナはそれを見たあと、何も言わずに自分の本へ目を戻した。驚いた顔もしない。理由を尋ねることもしない。


 やがて、向かいから声がした。


「……イリーナ」


 顔を上げると、シリルはまだ袖を戻していなかった。


「何も聞かないんだな」

「……はい」

「気づいたのに?」

「はい」


 シリルがイリーナを見る。


「どうして」

「私が聞いてもよいことなのか、分かりません」

「聞きたいとは思わない?」

「シリルが話したいことなら、話すと思います」


 初めて、彼の名を呼んだ。


 言ってから、そのことに気づく。


 シリルも気づいたらしい。傷を見られた時よりも驚いた顔をした。


「今、名前で呼んだ」

「呼んでよいと、言われましたから」

「うん」


 シリルは袖を下ろしながら笑った。


「いいな、それ」


 そして、自分も確かめるように呼ぶ。


「イリーナ」

「……はい」


 返事を求められたわけではない。ただ名前を呼ばれたから、答えた。


 その「はい」は、誰かに教えられたものではなかった。


 シリルはしばらくイリーナを見ていたが、やがて手元の本へ視線を戻した。


「何も聞かれないの、楽だな」


 イリーナは返事をしなかった。


 傷についても、誰につけられたのかも、シリルは話さない。イリーナも訊かなかった。けれどその日から、彼の名を呼ぶことだけは、以前より難しくなくなった。


     *


 それからも、二人は旧書庫で同じ時間を過ごした。同じ卓で本を開き、時折、読んでいるものについて言葉を交わす。


 何か大きな出来事が起こるわけではない。だからこそ、そこへ行くことが日々の一部になっていった。


 イリーナは相変わらず、何が好きなのか分からない。欲しいものも、やりたいことも思いつかない。


 けれど、旧書庫へ行くことだけは、誰かに決められた予定ではなかった。


 扉を開け、シリルがいる日は迷わず同じ卓へ向かう。いない日には、本を一冊選んだあと、なぜか棚へ戻してしまうことがあった。


 その理由を、イリーナはまだ知らない。


 ただ、彼がいるかもしれないと思いながら旧書庫へ向かうことも、彼の名を呼ぶことも、誰かに命じられたことではなかった。


 そしてその先で、二人の間に初めて、いつかの話が生まれることを、この時のイリーナはまだ知らなかった。

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