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こぼれおちた雫

 人と感覚がズレている一ノ瀬。

 そんな彼女は今、俺の前で謎のポーズをとっていて。 


「何やってんの?」

 俺はそう尋ねた。


 一ノ瀬は片目をつぶりながら、空き缶を握った右手を伸ばし、教室の端を見つめている。



「何って、距離測ってんの。もし、この空き缶が向こうのゴミ箱に入ったら……」

 そう言って彼女は肘を曲げ、缶を放り投げた。



 投げられた空き缶は、綺麗な放物線を描いて……


 「きっと、星倉が私と付き合ってくれる」


 驚きのセリフと共にゴミ箱に吸い込まれていった。



「ナイスシュート!」

 こぶしを振り上げて喜ぶ一ノ瀬。


 どういうことだ?

 思考が追いついていかない。

 二か月前のこいつは、どちらかといえば『俺と付き合うのは仕方ない』……って感じだったのに。

 何だこの変わりようは。

 


 動揺する俺の目を見て、彼女は静かに笑う。

「星倉、あの時の返事を聞かせて。……私に思い出をくれませんか?」




☆゜*・。.。・*゜*・。.。・*゜*・。.。・*゜*・。.。・*☆



 思い出をくれませんか、って一体どういうことなんだ。


 必死に考えてみるが、降り注ぐ太陽の強い日差しと、アスファルトの照り返しという強力タッグのせいで頭が回らない。



 そうそう。

 告白の返事の催促さいそくみたいなさっきの話についてだが、結局俺はまた返事を引き延ばした。

 どう考えても、一ノ瀬の態度の変化がおかしすぎるから。

 

 そのことを伝えると、彼女は沈痛な面持ちでずいぶんと長い間考え込んでいて。



 そんな彼女の返答は……

「今日、一緒に帰ろう。そしたらわかるよ」




 そんなわけで、校門を出た俺の隣には今、一ノ瀬がいる。

 ちらりと横顔を見るが、先ほどのような苦しげな様子もなく、いつものようににこにことしていて……さっきの表情は幻だったのではないかと疑いたくなってしまうほどだ。



「うーん。建設現場は危険だよねぇ。住宅街のほうを通ろうかな」

 悩んでいる俺の気も知らないで、一ノ瀬はのんきに呟いていく。


 建設現場は危険って……。お前は大工のおっさんたちが働く中をかいくぐって帰る気なのか?



「建設現場って、近所のマンションのか? 中に入るわけでもあるまいし、危険なんかねぇだろうが」

 ため息をついてそう言うと、一ノ瀬は困ったように笑う。


「中に入らなくても、あそこは今一番危険なんだ。まだ死にたくないから近づきたくない」


「なんだ、それ。大げさな」

 そう言って笑うと突然声をかけられた。


「よう!」

 明るく元気な男の声。



 声のした方を見やると、黒髪短髪の長身で爽やか系な男が校門前に立っていた。

 その男はこんな暑い日に汗一つかかず、笑顔で俺たちを見つめている。



「よう!って……一ノ瀬の知り合いか?」

 隣を見ると、一ノ瀬はうんざりしたように下を向いていて。


「こんなやつ知らないよ。無視無視!」

 ぷいっとそっぽを向いて、足早に校門から離れていく。


「何だよ、(はるか)。お兄ちゃん相手に無視って、つれないなぁ」

 こぼれんばかりの笑顔で、男は後ろから一ノ瀬を抱きしめていった。



 あぁ、この男、一ノ瀬の兄貴か。

 同じ黒髪だし、たまにへにゃへにゃしたしゃべり方になる所もどことなく似ているような、似ていないような……

 しかし、兄貴にしちゃスキンシップが激しい。

 抱きしめるだなんて、妹に対する可愛がり方が異常。


 そう思っていたら、一ノ瀬の兄貴は妹の頬にキスを一つ落としていって。

 

 妹のほっぺたにキスなんてするか普通……

 そう思ってその光景を眺めていると、一ノ瀬の目つきが急に鋭く、そして……潤んだものに変わった。



「何すんの! 黒沼ハヤト、アンタなんか嫌いだ! お兄ちゃんづらしないで!」

「ってぇぇ! 急にどうしたんだよ悠、ひどいなぁ。いてて」


 一ノ瀬は黒沼と呼ばれた男のみぞおちに肘鉄を食らわせ、男を睨みつけながら、右手の甲でキスされた頬をぐいっと(ぬぐ)っていく。

 そして、苦笑いしながら痛がる黒沼と、立ちつくす俺を置いて走り出した。



 おいおい。こいつ、兄貴じゃなかったのか。

 それにさっき、こいつはあいつに何をした?

 いきなり頬にキス……。

 黒沼は『急にどうしたんだよ』って言っていたが、好きでも何でもないヤツからそんなことされたら、そりゃ動揺もするだろう。

 ましてや恋愛経験の少ない女子なら、なおさらだ。



「なぁ。アンタ、一ノ瀬のお兄ちゃんなんだろ? 追いかけないのかよ」

 黒沼に皮肉を交えてそう尋ねるが、


「悠ってばさ、素直じゃねぇよなぁ。そこがまぁ、可愛いんだけど」

 黒沼はそう言って、一ノ瀬が去っていく方向を笑いながら見つめているだけ。



 そのセリフを聞いて、腹のあたりから熱いものがこみ上げてきて、頭の方にも血が上っていった。

「くそっ、ふざけやがって! テメェなんかには絶対、一ノ瀬はやらねぇからな!」


 学校指定のスクールバックを肩にかけ直し、お気に入りのスニーカーで地面を蹴り上げ、俺は走り出した。

 案外、一ノ瀬は足が速い。

 距離も開いているし、全力で走らなければきっと追いつけない。



「はぁっ……はぁっ、ちくしょうめ。あいつ何なんだよ」

 走りながら、黒沼という男を思い出し、怒りがこみ上げてくる。 

 黒沼に悪意はなくても、一ノ瀬にとっては衝撃の出来事だったはずだ。

 正直なところ、一発くらいは殴ってやりたかった。



 きっと今、一ノ瀬のやつは走りながら……泣いている。


 去り際に、潤んだ目からこぼれ落ちた雫。

 乾いたアスファルトの上に出来た小さな染みが、あいつの思いを物語っていた。

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