第三話 三人じゃ、雨音クラブじゃない
レンは、その日も来なかった。
連絡もない。
スタジオに入って最初に目に入ったのは、いつもレンが使っていたマイクだった。
昨日のまま。
スタンドの高さも変わっていない。
誰も触っていないから、当たり前だけど。
「……」
「何見てんの」
シズクが言った。
「別に」
「レン?」
「違う」
「絶対そうじゃん」
言い返す前に、ヒロキがドラムの椅子へ座った。
「じゃあ何する?」
「せっかくスタジオ取ってるし、三人でやろう」
「昨日やったじゃん」
「今日もう一回」
「何か変わる?」
「知らない」
「アキそういうとこ強いよね」
褒められてはいない。
「じゃあ帰る?」
「それはもったいない」
「俺は帰ってもいいけど」
「お前は毎回それ言うな」
「帰りたい時に言ってるだけ」
「ほぼ毎回じゃん」
ヒロキは何も悪びれずにスティックを回した。
シズクがベースを繋ぐ。
「私もやる」
「いいの?」
「家帰っても考えるだけだし」
少しだけ間があった。
何を考えるのかは、聞かなかった。
たぶん。
聞かなくても分かる。
「じゃあ昨日の一曲目」
「うん」
俺もギターを繋ぐ。
アンプの電源。
ノイズ。
チューニング。
いつもと同じ手順。
なのに。
一人分だけ、何も始まらない場所がある。
マイク。
レンの立ち位置。
「アキ」
「何」
「始めないの」
「あ、ごめん」
ヒロキがカウントを出す。
一、二、三、四。
三人で音を出す。
昨日と同じ曲。
そして。
昨日と同じように、全員が弾きすぎた。
歌がない場所を埋める。
俺はギターを増やす。
いつもレンの声が入るところまで、コードを伸ばす。
隙間が気になって。
フレーズを足す。
シズクはベースを前へ出す。
普段ならボーカルの後ろに引いているところまで、音を押し出す。
ヒロキはフィルを増やす。
何もない場所へ。
何かを投げ込むみたいに。
曲がどんどん重くなる。
音だけは多い。
なのに。
足りない。
「……止めよ」
俺が言うより先に、シズクが手を止めた。
ヒロキも止まる。
「何か変」
「昨日より悪くない?」
ヒロキが言った。
「昨日より合わせてるだろ」
「合わせてるけど、うるさい」
「お前も叩いてるだろ」
「だから言ってる」
「ベースも?」
シズクが自分のアンプを見る。
「私も弾きすぎてる」
「じゃあ減らす?」
「どこ」
「……」
分からない。
レンがいれば。
どこを空けるかなんて考えなくてもよかった。
声が入る。
そこへギターもベースもドラムも合わせる。
ずっとそうやってきた。
「もう一回」
俺が言う。
「減らして?」
「うん」
「どのくらい」
「いつも通り」
言ってから。
気づいた。
「いつも通りって何」
シズクが言った。
「……」
「レンいないのに」
「分かってる」
「じゃあどうする?」
「分かんない」
ヒロキがスティックで膝を叩く。
「じゃあ一回、何も埋めないでやれば」
「何も?」
「レンのとこ」
「歌なしで?」
「今も歌なしだけど」
「そうだけど」
「空いたままやる」
嫌だった。
その空白を。
そのまま聞くのが。
「……やってみる」
もう一度。
カウント。
今度は、余計な音を足さない。
ギター。
ベース。
ドラム。
レンの声が入るはずだった場所。
何もない。
空いている。
思っていたより。
ずっと広い。
「……」
弾きながら。
身体が勝手にそこを埋めようとする。
ギターを足す。
シズクもベースを動かす。
ヒロキもフィルを入れる。
結局。
また同じになった。
「うるさい」
ミョンが言った。
壁際。
アンプの上に座っている。
いつの間に来たのか知らない。
無視する。
「うるさいぞ」
さらに無視。
「耳が疲れる」
「お前には関係ないだろ」
思わず言った。
シズクとヒロキがこっちを見る。
「出た」
ヒロキ。
「ミョン?」
シズク。
「うん」
「何て?」
「うるさいって」
「合ってる」
「シズクまで?」
ミョンが足をぶらつかせる。
「三人とも、いないものを鳴らそうとしておる」
俺の手が止まった。
演奏も崩れる。
ヒロキが最後にスネアを一発鳴らして止まった。
「ごめん」
シズクがこっちを見る。
「今度は何」
「三人とも、いないものを鳴らそうとしてるって」
ヒロキが眉を寄せた。
「どういう意味」
「知らん」
「本人に聞けば」
「ミョン」
「なんじゃ」
「どういう意味」
「そのままじゃ」
「分かんない」
ミョンは少しだけ俺たちを見る。
シズク。
ヒロキ。
最後に俺。
「レンの音を三人で出そうとしておる」
「……」
「おらぬ者の分まで鳴らせば、戻ってくると思っておるのか」
「そんなこと」
言いかけて。
止まる。
思っていない。
はずだった。
「ない音は、鳴らぬ」
短い。
それだけ。
腹が立つ。
でも。
否定できなかった。
「神様ってそういうの分かるの?」
思わず聞く。
ミョンの目が少し細くなった。
「神とは言っておらぬ」
「じゃあ何なんだよ」
「ミョンじゃ」
「便利だなそれ」
「便利ではない。菓子もない」
「今関係ないだろ」
「ある」
「ない」
「アキ」
ヒロキが言う。
「何」
「今また一人で喧嘩してる?」
「してない」
「結構してるように見える」
シズクが笑った。
少しだけ。
本当に少しだけ。
久しぶりに。
スタジオの中で誰かが笑った。
ヒロキも、
「見えない相手と喧嘩できるのすごいよね」
とか言う。
「だから見えてるって」
「アキにはね」
「ほんとにいるから」
「はいはい」
「信じてないだろ」
シズクがまだ笑っている。
それを見て。
少しだけ。
胸の奥が軽くなった。
レンがいなくなってから。
誰も笑ってなかった。
◇
休憩中。
シズクがスマホを持った。
「電話する」
「レンに?」
「うん」
俺とヒロキは黙った。
ミョンはコンビニで買ってきた菓子を勝手に開けている。
「それ俺の」
「供物じゃ」
「供えてない」
「今供えた」
「置いただけだろ」
「静かにして」
シズクに睨まれた。
「はい」
電話。
呼び出し音。
一回。
二回。
三回。
出ないかと思ったところで。
「……もしもし」
シズクの声。
俺は何となく下を向いた。
「うん」
短い。
「今、スタジオ」
間。
「分かった」
それだけ。
通話が切れる。
シズクはしばらく画面を見ていた。
「何て?」
俺がすぐ聞く。
「次のライブは出るって」
「ほんと?」
「うん」
少し安心した。
胸の奥に引っかかっていたものが、一つ取れた気がする。
「じゃあそのあと話せば」
「アキ」
「何」
シズクがこっちを見る。
さっきまで少し笑っていた顔じゃない。
「最後にするって」
「……は?」
「次のライブで」
言葉が消えた。
「最後って」
「そのまま」
「雨音クラブを?」
「うん」
「……」
ヒロキも何も言わない。
スタジオの機材の音だけ。
アンプの小さいノイズ。
換気扇。
遠くの部屋から漏れてくるドラム。
「何で」
「知らない」
「聞かなかったの?」
「聞いた」
「じゃあ」
「今は話したくないって」
「何それ」
「アキ」
「だって」
立ち上がる。
「次のライブ出るんだろ」
「うん」
「じゃあまだ」
まだ。
何だ。
「ライブ終わったあと話せばいい」
「……」
「四人でちゃんとやったら」
シズクが黙る。
「今日みたいなのじゃなくて」
「アキ」
「レンがいて」
「うん」
「ちゃんと四人で音出して」
「うん」
「それで」
それで。
何が変わる。
「気が変わるかもしれない」
言った。
自分でも。
無理があると思った。
それでも。
口にした。
ミョンが俺を見る。
「アキ」
「何」
「お前は、戻したいのか?」
「当たり前だろ」
「何を」
「四人を」
「もう帰ろうとしておるぞ」
「まだライブある」
「うむ」
「最後じゃない」
「最後にすると言ったのであろう」
「変わるかもしれない」
「何が」
「レンが」
「なぜ」
「……ライブが良かったら」
「良かったら?」
「やっぱ続けたいって思うかもしれない」
自分で言いながら。
それしか考えられなかった。
次のライブ。
ちゃんと成功させる。
四人で。
今までみたいに。
いや。
今までより。
もっと。
そうすれば。
「戻るよ」
誰に言うでもなく言った。
「まだ戻せる」
シズクは何も言わなかった。
ヒロキも。
ミョンだけが。
少し困った顔をした。
「嫌な音じゃのう」
「何が」
「お前の音」
胸の奥がざらつく。
「何それ」
「今のお前は」
一度。
ミョンが言葉を止める。
「帰る者の音を、掴んで離さぬ音がする」
「……意味分かんない」
「そうか」
「分かんない」
「ならよい」
「よくないだろ」
ミョンはもう何も言わなかった。
俺も。
聞かなかった。
聞きたくなかった。
次のライブまで。
あと六日。
六日あれば。
何か変えられる。
そう思うことにした。
それ以外を。
考えたくなかった。




