第二十二話 願いが叶ったあと
シズクが雨音クラブに残ると決めてから。
スタジオの空気は、少し変わった。
いい方に。
たぶん。
「そこ、もう一回」
俺が言う。
「どこ?」
「サビ前」
「また?」
ヒロキが面倒そうにスティックを持ち直す。
「今ちょっと走った」
「俺?」
「多分」
「多分で止めたの?」
「確認」
「細か」
「ライブ近いんだからいいだろ」
シズクが笑う。
「アキ、最近また細かくなったね」
「前からだろ」
「レン辞めた直後より」
「そう?」
「うん」
次のライブまで、あと一週間。
三人になってから三本目。
もう「新体制初ライブ」ではない。
『昨日までの音』も、新曲扱いされなくなってきた。
俺が歌うことも。
シズクとヒロキが横にいることも。
客にとっては、これが今の雨音クラブになり始めている。
「じゃあもう一回」
「はいはい」
カウント。
サビ前。
さっきよりいい。
そのまま最後まで。
音が止まる。
「どう?」
俺が聞く。
「いいんじゃない?」
シズク。
「普通」
ヒロキ。
「普通って何」
「いいってこと」
「なら最初からいいって言えよ」
「めんどい」
「お前ほんと」
笑いながら。
いつもの壁際を見る。
何もいない。
最近。
ミョンの声は、たまにしか聞こえない。
神社へ行けば。
鈴が鳴ったり。
一言だけ聞こえたり。
でも。
姿は戻らない。
「……アキ」
「何」
シズクが俺を見る。
「また見た」
「何を」
「そこ」
「ああ」
「ミョン?」
「いない」
「そっか」
「癖」
「うん」
前みたいに。
音を止めることはなくなった。
ミョンがいなくても。
三人で決められる。
それはもう分かっている。
でも。
いないことに慣れたわけではなかった。
◇
練習の帰り。
今日は神社へ寄らないつもりだった。
そう思って。
駅まで歩いて。
途中で引き返した。
「……俺ほんと学習しねえな」
鳥居の前。
誰もいない。
夜。
いつもの小さな神社。
「ミョン」
呼ぶ。
返事なし。
「今日は菓子あるぞ」
コンビニ袋を持ち上げる。
赤いやつ。
「しかも二袋」
静か。
「来ないと俺食うからな」
俺はあまり甘いものを食べない。
それも知っているはずだ。
「……ほんとに食うぞ」
返事はない。
「じゃあ一個だけ置いとく」
社の前へ行く。
袋を置く。
立ち上がる。
「帰るからな」
何もない。
数歩。
歩いた。
「……二つではないのか」
止まった。
振り返る。
「ミョン?」
いた。
社の前。
久しぶりに。
ちゃんと。
「……お前」
「なんじゃ」
「いるじゃん」
「おるぞ」
「今までどこ行ってたんだよ!」
走って戻る。
ミョンは少し驚いた顔をした。
「うるさいのう」
「うるさいじゃねえよ!」
「神社で騒ぐでない」
「お前のせいだろ!」
「わし?」
「何日いなかったと思ってんだよ」
「知らぬ」
「二週間近いぞ!」
「そうなのか」
「そうなのかじゃねえ!」
腹が立つ。
本当に。
腹が立つのに。
顔を見たら。
それ以上言えなくなった。
「……戻ったの?」
聞く。
ミョンが少しだけ首を傾げた。
「戻った?」
「また俺んとこ来る?」
少しの沈黙。
嫌な感じがした。
「何」
「アキ」
「何」
「わしは」
ミョンは足元の菓子を見た。
「もう、あまりお前のところへ行けぬかもしれぬ」
胸が落ちた。ミョンがいない二週間で、いなくてもバンドはできると分かったはずなのに、「もう来ないかもしれない」は別の話だった。できることと、いてほしいことは同じじゃない。
「……何で」
「知らぬ」
「またそれ?」
「本当に分からぬ」
「じゃあ何でそう思うんだよ」
ミョンは少し考える。
「遠くなった」
「何が」
「お前の音が」
「……は?」
「前は、どこにいても聞こえた」
「俺の?」
「うむ」
「今は?」
「ここへ来なければ、あまり聞こえぬ」
「何で」
「知らぬ」
「だから」
「願いが叶ったからではないか」
言葉が止まった。
「願い?」
「解散しませんように」
最初の日。
百円。
菓子。
雑な願い。
「……でも」
「解散しておらぬ」
「そうだけど」
「三人で続いておる」
「そうだけど!」
声が大きくなった。
「それでお前いなくなるの?」
「知らぬ」
「そんなの聞いてねえよ」
「わしも聞いておらぬ」
「誰に」
「知らぬ」
「全部知らねえじゃん!」
「そうじゃな」
ミョンが笑った。
それが余計腹立つ。
「笑うなよ」
「すまぬ」
「俺」
言葉が詰まる。
「俺、お前が来るなんて頼んでない」
「うむ」
「菓子だって事故だった」
「そのあとやると言った」
「それはそうだけど」
「うむ」
「勝手についてきて」
「うむ」
「勝手に曲に口出して」
「うむ」
「勝手にいなくなるの?」
最後だけ。
少し声が弱くなった。
ミョンは黙った。
「……ずるくない?」
「そうかもしれぬ」
「そこ否定しろよ」
「嘘は嫌いじゃ」
「こういう時だけ真面目になるなよ」
何も言わない。
俺は社の前に座った。
ミョンも隣に座る。
しばらく。
何も喋らなかった。
◇
「なあ」
「なんじゃ」
「願い叶ったら、神様って消えるものなの?」
「知らぬ」
「お前に聞いた俺が馬鹿だった」
「うむ」
「肯定するな」
「では違う」
「適当」
ミョンが少し笑う。
「でも」
「何」
「お前は、もうわしに聞かなくなった」
「……」
「音がよいか」
「うん」
「歌い方はこれでよいか」
「うん」
「この三人でよいか」
「……うん」
「自分で決めておる」
「それとこれ関係ある?」
「あるかもしれぬ」
「ないかもしれない?」
「うむ」
「便利だな」
「便利じゃ」
少し笑った。
笑ってから。
また静かになる。
「ミョン」
「なんじゃ」
「俺さ」
「うむ」
「お前いなくても、バンドはできる」
「知っておる」
「曲も作れる」
「うむ」
「歌える」
「前よりはな」
「そこ余計」
「下手ではなくなった」
「褒めてる?」
「かなり」
「ヒロキみたいな言い方」
ミョンが笑う。
「だから」
一度息を吸う。
「いなくても大丈夫ではある」
「うむ」
「でも」
続ける。
「いなくなってほしいわけじゃない」
ミョンがこっちを見る。
「それは違うから」
「……うむ」
「そこ勘違いすんなよ」
「分かった」
「本当に?」
「分かったと言っておる」
「ならいい」
ミョンは足元の菓子を取った。
「これはもらう」
「二袋あるって言っただろ」
「もう一つは?」
「鞄」
「出せ」
「話の余韻とかないの?」
「菓子は別じゃ」
「ほんとお前」
もう一袋出す。
ミョンが受け取る。
少し嬉しそうだった。
◇
「アキ」
「何」
「今度のライブ」
「うん」
「聞けるかもしれぬ」
「来る?」
「分からぬ」
「……そっか」
「でも」
ミョンは俺を見る。
「鳴らせ」
「何を」
「雨音クラブを」
「ダサいのに?」
「ダサい」
「最後までそこ変わらないの?」
「名前と音は別じゃ」
「はいはい」
「アキ」
「何」
「わしが聞いておらずとも」
少しだけ。
ミョンの声が遠く聞こえた。
「鳴らせ」
「……うん」
「止めるな」
「うん」
「誰かが去っても」
「うん」
「誰かが戻っても」
「うん」
「形が変わっても」
ミョンが笑った。
「お前が鳴らしたいなら、鳴らせばよい」
俺も少し笑う。
「簡単に言うなよ」
「簡単じゃ」
「お前はいつもそれだな」
「難しくするのは人間じゃ」
「知ってる」
その時、風が抜けて思わず目を閉じた。ほんの一瞬だった。
「……ミョン?」
開けた時には、社の前からミョンも菓子も消えていた。
「……またかよ」
今度は追わなかったし、呼びもしなかった。
「ライブ来いよ」
社に向かって言う。
「菓子用意しとくから」
返事はない。
鈴も鳴らない。
「約束だからな」
勝手に決める。
それでいい。
◇
翌日のスタジオ。
「ミョン見えた」
準備しながら言う。
シズクがすぐこっちを見る。
「ほんと?」
「うん」
「戻ってきた?」
「分かんない」
「また?」
「たぶん、前みたいには来ない」
ヒロキがスティックを止める。
「何で」
「願い叶ったからじゃないかって」
「解散しなかったから?」
「うん」
シズクが少し黙った。
「……そっか」
「まだ分かんないけど」
「アキは大丈夫?」
「何が」
「ミョンいなくても」
少し考える。
「寂しい」
正直に言った。
「でも大丈夫」
「そっか」
ヒロキがスティックを上げる。
「じゃあやる?」
「うん」
「何から」
「新曲」
「二曲目?」
「そう」
まだ名前のない曲。
シズクがベースを構える。
ヒロキがカウント。
俺もギターを持つ。
マイクの前。
「行くよ」
一、二、三、四。
音が鳴る。
三人。
ミョンはいない。
それでも。
ちゃんと鳴った。
途中。
いつもミョンがいた壁際を見る。
何もない。
今度は。
そのまま前を見る。
歌う。
最後まで。
音が消える。
「どう?」
シズクが聞く。
「いい」
俺が答える。
「ヒロキは?」
「普通」
「それ褒めてる?」
「かなり」
三人で笑った。
誰にも聞かなかった。
これでいいのか。
もう。
俺たちが決めればいい。
次のライブまで、あと六日。
三人の雨音クラブは。
神様がいなくても。
ちゃんと続いていた。




