第十九話 聞こえない声
次の日も、ミョンは戻らなかった。机の上には菓子が二袋並んでいて、朝起きて最初にそこを見るのが、もう癖になっていた。
「……増やさねえからな」
誰もいない部屋に言う。
返事はない。
昨日聞いた鈴の音。
あれが気になって、朝から『昨日までの音』を何度も再生した。
一回目。
何もない。
二回目。
何もない。
三回目。
やっぱり聞こえない。
「気のせいか」
そう思ってスマホを置いた。
でも。
曲が終わったあと。
ほんの一瞬。
また聞こえた。
ちりん。
「……今」
すぐに戻す。
最後の十秒。
再生。
曲が終わる。
静か。
「何でだよ」
もう一度。
ない。
もう一度。
ない。
「俺がおかしくなってんのかな」
ミョンがいた頃なら、
「元からじゃ」
くらい言っただろう。
「……うるせえ」
自分で返して。
余計寂しくなった。
◇
その日の夜。
三人でスタジオに入った。
「今日、顔やばいね」
シズクが言った。
「寝不足」
「ミョン?」
「半分」
「残り半分は?」
「曲聞いてた」
「昨日までの音?」
「うん」
ヒロキがドラムの前に座る。
「また何か直すの?」
「いや」
「じゃあ何で」
「鈴が聞こえた」
二人が止まった。
「鈴?」
シズク。
「曲の最後」
「入ってた?」
「分かんない」
「データに?」
「たぶん違う」
「じゃあ何」
「俺が聞きたい」
スマホをスピーカーに繋ぐ。
「聞いてみて」
最後の部分だけ再生する。
音が消える。
「……」
「聞こえた?」
シズクが首を振る。
「何も」
「俺も」
ヒロキ。
「もう一回」
再生。
「どう?」
「ない」
「マジ?」
「アキにしか聞こえてないんじゃない?」
シズクが言った。
「ミョンみたいに?」
「それなら」
その言葉が少し嬉しくて。
同時に怖かった。
「じゃあやっぱミョンなのかな」
「分かんないけど」
「神社の鈴?」
「似てる」
ヒロキがスティックを持った。
「とりあえず練習しない?」
「今この流れで?」
「予約時間減ってる」
「現実的だな」
「金払ってるし」
「はいはい」
ギターを繋ぐ。
マイクの前に立った。
「何から?」
シズクが聞く。
「昨日までの音」
「また?」
「確認したい」
「鈴?」
「それも」
ヒロキがカウントを出す。
始まる。
イントロ。
歌う。
でも。
集中できない。
壁際を見る。
いない。
サビ。
また見る。
いない。
二番。
やっぱり。
「アキ」
シズクの声。
「何」
「今、歌詞飛んだ」
「……ごめん」
「止める?」
「いや」
続ける。
最後まで。
曲が終わった。
何も聞こえない。
「もう一回」
俺が言う。
ヒロキがスティックを下ろした。
「今日はやめない?」
「何で」
「アキ無理じゃん」
「できる」
「できてない」
「一回歌詞飛んだだけだろ」
「そういう意味じゃなくて」
シズクもベースを下ろした。
「ずっとミョン探してる」
「探してない」
「壁見てる」
「癖だって」
「昨日も同じこと言ってた」
「……」
「アキ」
ヒロキが言った。
「ミョンいないと、できないの?」
腹が立った。
「何それ」
「そのまま」
「できるに決まってんだろ」
「じゃあやればいいじゃん」
「やってるだろ」
「やってない」
「お前に何が分かんだよ」
言ってから。
スタジオが静かになった。
ヒロキが俺を見る。
「分かんないよ」
声はいつも通りだった。
「見えたことないし」
「……」
「でも今、アキが俺らよりミョンの方気にしてるのは分かる」
「そんなこと」
「あるよ」
シズクも言った。
「私もそう思う」
「……」
「ミョンいなくなったの心配なのは分かる」
「じゃあ」
「でも、雨音クラブは三人でやってる」
その言葉が刺さった。
「ミョンはメンバーじゃない」
「分かってるよ」
「本当に?」
「分かってるって!」
声が大きくなった。
シズクが黙る。
ヒロキも何も言わない。
俺はギターを下ろした。
「……ごめん」
「うん」
「今日は帰る」
「アキ」
「無理だわ」
自分で言った。
今度こそ。
「今日、無理」
ケースにギターをしまう。
「スタジオ代、あとで払う」
「そういう問題じゃないけど」
「ごめん」
ドアを開ける。
誰も止めなかった。
◇
外に出る。
寒い。
歩く。
駅とは逆方向。
自分でもどこへ行くか分かっていた。
神社。
もう暗かった。
鳥居をくぐる。
「ミョン」
呼ぶ。
返事はない。
社の前。
シズクが置いた菓子は、なくなっていた。
「……え?」
近づく。
昨日は確かにあった。
赤い袋。
今日はない。
「食った?」
誰に聞いているんだ。
「お前?」
当然、返事はない。
「いるなら出てこいよ」
静か。
「菓子だけ食ってんじゃねえよ」
風が吹く。
木が鳴る。
「こっちはさ」
声が少し震えた。
「お前いないせいで、バンドまで変になってんだよ」
言い切った瞬間、自分で違うと分かった。
「……違うな」
ミョンがいないせいじゃない。俺が、ミョンの答えを待つことに慣れすぎていただけだ。雨音クラブも、シズクも、ヒロキも何も悪くない。
「俺さ」
社の前に座った。
「お前が何か言うの、待ってたみたい」
返事はない。
「この音違うとか」
「レンがいるとか」
「俺が聞こえないとか」
一つずつ。
思い出す。
「腹立ってたけど」
笑いそうになった。
「ないと困るな」
静かだった。
「俺、自分で分かるようになったと思ってたんだけど」
自分で分かるようになったつもりだった。実際、少しは分かるようになっていた。でも最後の最後で、「これでいい」と言ってくれるミョンの声を待っていた。
「……それじゃダメだよな」
ヒロキの言葉。
ミョンいないと、できないの?
「できるよ」
小さく言った。
「できる」
自分に言う。
「三人でやってきたし」
ギターケースを見る。
持ってきている。
何となく。
開けた。
「神社で弾いたら怒られるかな」
誰も答えない。
「小さくするから」
ギターを出す。
アンプはない。
生音だけ。
『昨日までの音』。
最初のコード。
小さい。
頼りない。
でも鳴る。
歌う。
声も小さく。
「昨日までの音を
まだ部屋に置いたまま」
夜の神社。
誰もいない。
客もいない。
シズクも。
ヒロキも。
ミョンも。
俺だけ。
「片づける理由もなくて
捨てるほどでもなくて」
歌い始めると、途中で「ミョンなら何て言うだろう」と考えかけた。すぐに打ち消す。今は聞かなくていい。最後まで、自分で決めればいい。
そのまま歌い、ギターを鳴らす。最後のコードの余韻が消えると、神社はまた静かになった。
「……どうだ」
言ってから。
苦笑した。
「聞いてどうすんだよ」
立ち上がろうとした。
その時。
ちりん。
鈴。
今度は。
はっきり聞こえた。
「……ミョン?」
立ち上がる。
誰もいない。
「ミョン!」
また。
鈴。
社の方。
近づく。
「いるの?」
返事はない。
でも。
耳を澄ます。
風。
木。
遠くの車。
それから。
ほんの小さく。
「……下手じゃのう」
聞こえた。
息が止まった。
「……は?」
もう一度。
「ミョン?」
返事はない。
「今、言っただろ!」
何もない。
「聞こえたぞ!」
静か。
「ふざけんな!」
それでも。
笑っていた。
自分でも分かる。
「下手って何だよ」
返事はない。
「出てきて言えよ」
鈴が。
もう一度だけ鳴った。
ちりん。
今度は。
それで十分だった。
◇
神社を出てすぐ。
グループチャットを開く。
『ごめん』
送る。
シズク。
『何が』
『今日』
ヒロキ。
『別に』
『次いつ空いてる?』
少しして。
シズク。
『木曜』
ヒロキ。
『俺も』
『じゃあ木曜』
送る。
続けて。
『ちゃんとやる』
ヒロキ。
『普通にやればいい』
シズク。
『ミョンいた?』
指が止まった。
『姿は見えなかった』
『でも声聞こえた』
すぐ。
『え!?』
シズク。
ヒロキ。
『なんて』
少し迷って。
『下手じゃのうって』
数秒。
シズクから。
『ミョンじゃん』
ヒロキ。
『それはミョンだわ』
思わず笑った。
「だよな」
スマホをしまう。
ミョンはまだ見えない。
どこにいるのかも分からない。
戻ってくるのかも。
分からない。
でも。
聞こえた。
なら。
もう少しだけ待てる気がした。
今度は。
ミョンの言葉を待ちながらじゃなく。
自分たちの音を鳴らしながら。




