第十章 「懐かしい校舎」
九月最初の土曜日。
夏の名残を残しながらも、空気はどこかやわらかく、窓を開けると涼しい風が部屋の中へと流れ込んできた。遠くで鳴く虫の声が、季節の移ろいを静かに知らせている。
朝食を終えた遥は、窓辺に立ち、澄んだ青空を見上げながらぽつりと呟く。
「ねえ、葵。」
「ん?」
「今日は、高校に行ってみない?」
葵はマグカップを置き、少し驚いたように目を丸くする。
「高校?」
「うん。」
「なんとなく。」
遥は少し照れたように笑った。
「急に行きたくなった。」
葵も優しく微笑む。
「じゃあ行こう。」
「久しぶりに、あの景色を見に。」
◇
電車を乗り継ぎ、二人は高校の最寄り駅へ降り立った。
ホームに降りた瞬間、どこか懐かしい空気が胸に広がる。少し乾いた秋の風が頬を撫で、遠くから聞こえる踏切の音が、あの頃の記憶を呼び起こした。
土曜日ということもあり、駅前は平日ほどの賑わいはない。
制服姿の生徒もまばらで、部活へ向かうらしい数人が、軽やかな足取りで通り過ぎていく。
「静かだね。」
葵が小さく言う。
「うん。」
「平日はもっと人が多かったよね。」
二人は自然と歩幅を合わせ、通学路をゆっくり歩き始めた。
駅前の小さな商店街を抜けると、見慣れた坂道が現れる。
緩やかな上り坂。
両脇には背の高い木々が並び、葉の隙間から差し込む光が、まだら模様の影を地面に落としていた。
風が吹くたびに葉が揺れ、さらさらと心地よい音を立てる。
「この坂、毎日登ってたんだよね。」
「朝はちょっときつかった。」
「遅刻しそうな日は、ここ走ってた。」
「私は横で応援してた。」
「応援じゃなくて笑ってたでしょ。」
「ちょっとだけ。」
二人は顔を見合わせて笑う。
坂を上りきると、見慣れた並木道が続く。
少し色づき始めた葉が、秋の訪れを感じさせる。
その先には、昔よく立ち寄ったコンビニがあった。
「ここで肉まん買ったこともあったね。」
「寒い日に半分こした。」
「湯気がすごくて、手も温かくて。」
「懐かしい。」
当時と変わらない看板を見上げながら、二人はゆっくりと歩みを進める。
やがて、見慣れた校門が視界に入った。
◇
休日の校舎は静かだった。
広いグラウンドでは運動部が練習をしており、掛け声やボールの弾む音が、澄んだ空気の中に響いている。
その音が、静かな校内に心地よく広がっていた。
「やっぱり土曜日だと、人少ないね。」
「部活の人くらいしかいないね。」
遥が小さく呟く。
校門をくぐると、足元の砂利が軽く音を立てる。
見上げれば、校舎の白い壁が秋の空に映えていた。
「失礼します。」
職員玄関から声を掛けると、奥から懐かしい声が聞こえた。
「あれ?」
二人が振り向くと、担任だった先生が立っていた。
「上乃園! 神原!」
「先生!」
二人は思わず笑顔になる。
「久しぶりじゃないか!」
「お元気でしたか?」
「もちろん。」
先生は笑いながら二人を見比べる。
「二人とも、すっかり大人になったな。」
「社会人になって半年くらいです。」
葵が答えると、先生は嬉しそうに何度も頷いた。
「そうかそうか。」
「立ち話もなんだ。」
「よかったら校舎、見ていくか?」
「今日は土曜だからな、授業もないし静かだぞ。」
遥と葵は顔を見合わせる。
「……いいんですか?」
「卒業生なんだから遠慮するな。」
◇
先生に案内され、久しぶりに校舎へ足を踏み入れる。
廊下はしんと静まり返っていた。
窓から差し込む光が床に長く伸び、磨かれた床が淡く反射している。
遠くから聞こえる部活の掛け声が、かすかに響いてくる。
その静けさが、かえって懐かしさを際立たせていた。
「ここ、朝はすごく騒がしかったよな。」
先生が笑いながら言う。
「チャイム鳴る直前とか、みんな走ってて。」
「確かに。」
遥も思わず笑う。
「よくギリギリで教室に入ってました。」
「私は余裕だったけど。」
「それは知ってる。」
葵が少し得意げに言うと、先生がくすっと笑った。
◇
掲示板の前を通り過ぎようとしたとき、部室の方から数人の生徒が顔を出した。
「あ、先生。」
「どうした?」
「その人たちって……卒業生ですか?」
興味津々といった様子で、後輩たちがこちらを見ている。
「そうだ。文芸部の先輩だぞ。」
その言葉に、後輩たちの目がぱっと輝いた。
「えっ、もしかして……!」
一人の女子生徒が、遥をじっと見つめる。
「上乃園先輩って……エデンさんって呼ばれてた人ですか?」
遥は一瞬、固まった。
「……え?」
葵が横で小さく吹き出す。
「エデンさん?」
「やっぱりそうだ!」
後輩は嬉しそうに声を上げる。
「部誌に載ってる作品、すごく好きで!」
「先輩のペンネームが“エデン”って書いてあって……」
「みんなで『エデンさん』って呼んでたんです!」
遥の顔がみるみる赤くなる。
「ちょ、ちょっと待って……それ……」
「恥ずかしい……!」
思わず顔を覆う遥に、後輩たちはきょとんとする。
「え、でもすごく人気なんですよ?」
「先輩の作品、今でも読まれてます!」
先生も楽しそうに笑った。
「言っただろう? ちゃんと残ってるって。」
葵は肩を震わせながら、遥の方を見る。
「エデンさん、だって。」
「やめて……!」
遥は小声で抗議するが、葵は楽しそうに続ける。
「かっこいい名前じゃない?」
「そういう問題じゃない……!」
後輩たちはそんなやり取りを見て、くすくすと笑っている。
「でも、本当に憧れてます。」
一人の後輩が、少し真剣な表情で言った。
「先輩の作品読んで、文芸部に入りたいって思ったんです。」
その言葉に、遥は少しだけ驚いたあと、ゆっくりと顔を上げた。
「……ありがとう。」
照れながらも、まっすぐにそう答える。
後輩たちは嬉しそうに頷いた。
◇
その後、二人は教室や図書室を見て回る。
懐かしい場所を歩きながら、先ほどの出来事が頭から離れない遥。
「……エデンさん。」
葵がわざとらしく呼ぶ。
「もうやめて。」
「だって面白いんだもん。」
「忘れて。」
「無理かな。」
葵はくすっと笑う。
「でも、ちゃんと誰かに届いてたんだね。」
その言葉に、遥は少しだけ表情を緩めた。
「……うん。」
「それは、ちょっと嬉しい。」
◇
帰り際。
校門まで見送ってくれた先生が言った。
「またいつでも遊びに来い。」
「今度は文化祭でもいいぞ。」
「はい。」
二人はそろって頭を下げた。
「ありがとうございました。」
校門を出ると、秋の風が優しく吹き抜ける。
並木の葉が揺れ、さらさらと音を立てる。
遥は校舎を振り返り、小さく微笑んだ。
白い校舎と青い空。
その景色は、あの頃と変わらずそこにあった。
「帰ってきてよかった。」
葵も同じように振り返る。
「うん。」
「ここは私たちの始まりの場所だから。」
二人はもう一度校舎へ一礼すると、並んで歩き始めた。
通学路をゆっくりと下りながら、秋の風を感じる。
やがて駅前へ戻ると、夕方の気配が少しずつ街に広がっていた。
「夕飯、どうする?」
葵が尋ねる。
遥は少し考えてから、商店街の方を見た。
「今日は買って帰ろうか。」
「いいね。」
二人は並んで店をのぞきながら、惣菜やお弁当を選ぶ。
どれにするか迷いながら相談する時間も、どこか楽しい。
ふと、遥の視線が酒売り場に向いた。
「……これ、ちょっと気になる。」
手に取ったのは、小さな瓶のリキュール。
ラベルも可愛らしく、つい惹かれてしまう。
「遥。」
葵がくすっと笑う。
「また飲みすぎる気?」
「いや、今回はちゃんと控えるから……。」
「この前も同じこと言ってたよね?」
「……。」
遥は言葉に詰まる。
葵は楽しそうに笑いながら、その瓶をそっと棚に戻した。
「今日はやめておこう。」
「ね?」
「……はい。」
少しだけ名残惜しそうにしながらも、遥は素直に頷いた。
「じゃあ、その代わりにデザート買おう。」
「それならいい。」
二人は顔を見合わせて笑う。
袋を受け取り、並んで歩き出す。
高校生だったあの日から時は流れ、今は社会人としてそれぞれの毎日を歩んでいる。
それでも、この場所で出会い、笑い、支え合った日々は、これから先も決して色あせることはない。
静かな土曜日の校舎を背に、そして夕飯とデザートを手に、二人は穏やかな笑顔で帰路についた。




