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第十章 「懐かしい校舎」



 九月最初の土曜日。


 夏の名残を残しながらも、吹き込んでくる風には、ほんの少しだけ秋の匂いが混じり始めていた。


 カーテンの隙間から差し込む朝の光。


 柔らかな光が、ベッドの上で眠る二人を優しく照らしている。


 遥はゆっくりと目を開けた。


 まだ少し眠気の残る視界の中で、すぐ隣にいる葵の寝顔が目に入る。


「……。」


 静かな寝息。


 無防備な表情。


 高校の頃から何度も見てきたはずなのに、今でも見ているだけで胸が温かくなる。


(こうして隣にいる。それだけで、こんなにも安心できるなんて。)


 遥はそっと手を伸ばし、葵の頬に触れた。


 指先に伝わる柔らかな温もり。


 その感触だけで、胸の奥がじんわりと満たされていく。


「……ん。」


 葵が小さく声を漏らす。


 そのまま、ゆっくりと目を開けた。


「……遥?」


「おはよう。」


 遥が微笑む。


「おはよう……。」


 まだ眠そうな声で返しながら、葵は少しだけ体を寄せてくる。


 自然と距離が近くなる。


 肩が触れ、呼吸が重なる。


 葵の手が、そっと遥の腕に触れる。


 指先がなぞるように滑り、ゆっくりと手首へ。


 その優しい触れ方に、遥の体がわずかに震えた。


(……触れられるだけで、こんなに。)


 葵はそのまま、遥の頬へと手を移し、親指で軽くなぞる。


 くすぐったさと温もりが混ざり合い、遥は思わず目を細めた。


「……どうしたの?」


「なんでもない。」


 そう言いながらも、葵の指先は止まらない。


 頬から顎へ、そして首元へ。


 ゆっくりと、確かめるように触れていく。


 そのたびに、遥の中にじんわりとした熱が広がっていく。


「……ちょっと。」


「だめ?」


「……だめじゃないけど。」


 葵は楽しそうに笑いながら、今度は首筋に唇を寄せた。


 軽く触れるだけのキス。


 それなのに、そこから伝わる熱が強く感じられる。


 遥は思わず息を詰めた。


(こんなふうに触れられるたび、好きだって実感する。)


「……朝から、すごいね。」


「好きだから。」


 葵はそう言って、さらに肩へと顔を埋める。


 柔らかな吐息が肌に触れ、遥の体が小さく震える。


 強く触れているわけじゃない。


 むしろ、とても優しいのに。


 だからこそ、その一つひとつがはっきりと伝わってくる。


 遥はそっと葵の髪に触れた。


「……もう。」


「止める?」


「……止めない。」


 その言葉に、葵は少しだけ嬉しそうに笑う。


 そして、さらに距離を縮める。


 手が背中へ回り、ゆっくりと引き寄せられる。


 体が重なり、温もりが一つになる。


 遥の呼吸がわずかに乱れる。


 葵の唇が、今度は遥の唇へと触れた。


 軽く、確かめるようなキス。


 それだけで、胸の奥が熱くなる。


 もう一度。


 今度は少しだけ深く。


 触れ合うたびに、互いの温度が混ざり合っていく。


「……多い。」


「まだ足りない。」


「足りてる。」


「足りてない。」


 言い合いながらも、唇は離れない。


 朝の静かな部屋に、重なる吐息と、かすかな水音だけが響く。


「……幸せ。」


 葵がぽつりと呟く。


「……うん。」


 遥も小さく頷いた。


 抱きしめられたまま、しばらく離れられない。


 この温もりを、もう少しだけ感じていたくて。


     ◇


 やがて、ゆっくりと時間が進み、二人は名残惜しさを残しながらもベッドから起き上がる。


 カーテンを開けると、澄んだ青空が広がっていた。


「いい天気。」


「ほんとだ。」


 葵が伸びをする。


 その横で、遥はふと葵の顔を見る。


 さっきまで触れていた唇を思い出して、少しだけ頬が熱くなる。


「なに?」


「……。」


 遥は何も言わず、そっと近づいて――


 もう一度だけ、軽くキスをした。


「……まだするの?」


「最後。」


「さっきも聞いた。」


「ほんとに最後。」


「ほんと?」


「……たぶん。」


 二人は顔を見合わせて笑う。


     ◇


 その後、軽く朝食を済ませ、食器を片付ける頃には、部屋の中にもすっかり休日らしい穏やかな空気が満ちていた。


 特に予定のない一日。


 それでも、どこかへ出かけたくなるような気配が、自然と二人の間に流れている。


 遥は窓の外を眺めながら、ふと口を開いた。


「ねえ、葵。」


「ん?」


「今日さ。」


「うん。」


「高校、行ってみない?」


 葵は少しだけ驚いたように目を瞬かせる。


「高校?」


「うん。」


 遥は少し照れたように笑った。


「なんとなく。」


「なんとなく?」


「そう。なんとなく。」


 理由はうまく言えなかった。


 ただ、この朝の余韻と、穏やかな時間が、あの頃を思い出させた。


 葵は少しだけ考えてから、ふっと笑う。


「いいね。」


「行こうか。」


「ほんと?」


「うん。」


 葵は立ち上がりながら言った。


「私も、久しぶりに見たくなった。」


 遥も頷く。


 特別な理由なんていらない。


 ただ、二人で行きたいと思ったから。


 それだけで十分だった。


     ◇


 準備を整え、家を出る頃には、朝の光はすっかり高くなり、街はゆったりとした休日の空気に包まれていた。


 電車に揺られながら、二人は窓の外を眺める。


 見慣れた景色が少しずつ変わり、やがて懐かしい街並みへと移り変わっていく。


 そうして、いくつかの駅を乗り継いだあと――


 懐かしい駅へと降り立った。


 改札を抜けた瞬間、二人は同時に足を止めた。


「……変わってない。」


「うん。」


 二人は自然と並んで歩き始める。


 緩やかな坂道を上っていく。


 高校生の頃と違うのは、二人が制服を着ていないことくらいだった。


 やがて坂道を上りきると、視界の先に懐かしい校門が現れた。


 二人は自然と足を止める。


 白い校舎。


 広いグラウンド。


 遠くから聞こえる部活動の声。


 すべてが、あの頃のままだった。


「……入ってみる?」


「うん。」


 二人はゆっくりと校門をくぐる。


     ◇


 そのまま職員玄関へ向かい、声をかけると、奥から見覚えのある教師が現れた。


「あれ……?」


「上乃園と神原か?」


「先生!」


 高校時代の担任だった先生だった。


「久しぶりじゃないか。」


「お元気でしたか?」


「ああ、なんとかやってるよ。」


 先生は嬉しそうに笑う。


「今日はどうした?」


「なんとなく、来たくなって。」


「そうか。」


 先生は頷いた。


「せっかくだ。校舎、見ていくか?」


「いいんですか?」


「もちろんだ。」


 二人は顔を見合わせて、嬉しそうに頷いた。


     ◇


 案内されるようにして、静かな廊下を歩き始める。


 窓から差し込む光が、床に長い影を落としていた。


「懐かしいね。」


「うん。」


 教室の前で足を止める。


 中には誰もいない。


 整然と並ぶ机と椅子。


「ここでさ。」


 葵が言う。


「初めて話したよね。」


「……うん。」


 遥は小さく頷く。


 あの日、何気なく交わした言葉。


 それが、すべての始まりだった。


     ◇


 さらに校舎の奥へと進み、文芸部の部室の前へとたどり着く。


 扉には新しいポスターが貼られている。


「まだ続いてるんだ。」


「当たり前でしょ。」


 葵が笑う。


 その時、部室から数人の生徒が出てきた。


「あ、先生。」


「どうした?」


「その人たち……。」


 生徒の一人が遥を見る。


「もしかして、上乃園先輩ですか?」


「はい。」


「じゃあ……エデンさん?」


 遥は一瞬、言葉を失った。


 隣で葵が小さく笑う。


「まだ残ってるんだね。」


「先輩の作品、読んだことあります!」


「私、あれ好きです!」


 後輩たちの言葉に、遥は少し照れながら笑った。


「ありがとう。」


     ◇


 ひと通り校舎を見て回り、気づけば時間はゆっくりと午後へと傾いていた。


 名残を感じながら、二人は先生とともに校門へ戻る。


「また来いよ。」


「はい。」


「ありがとうございました。」


 先生に頭を下げ、校門を出る。


 遥は一度だけ振り返った。


 青い空と、白い校舎。


 変わらない景色。


「葵。」


「ん?」


「ここで会えてよかった。」


「私も。」


 二人は並んで坂道を下り始める。


     ◇


 坂を下り、駅へ向かう頃には、空はゆっくりと夕焼け色に染まり始めていた。


「夕飯どうする?」


「今日は買って帰ろう。」


「いいね。」


 二人はそのまま商店街へ足を向け、惣菜を選び、デザートも買った。


     ◇


 帰りの電車に揺られ、再び見慣れた街へと戻る。


 マンションへ着く頃には、すっかり夜の気配が広がっていた。


 玄関の扉を開ける。


「ただいま。」


「ただいま。」


 誰もいない部屋に、二人の声が重なる。


     ◇


 食事を終え、片付けを済ませたあと。


 夜の静けさに包まれた部屋から、二人はベランダへ出る。


 涼しい風が頬を撫で、空にはいくつもの星が瞬いていた。


「幸せだね。」


「うん。」


 遥は頷く。


 葵の肩にそっと寄り添う。


 昼間とは違う、静かな距離。


 それでも、指先が触れ合うだけで、また胸が熱くなる。


「これからも、一緒にいようね。」


「うん。」


「ずっと。」


「ずっと。」


 二人は同じ空を見上げる。


 そして、どちらからともなく、もう一度だけ唇を重ねた。


 今度はゆっくりと、確かめるように。


 昼間の思い出も、朝の余韻も、すべてを包み込むように。


 離れたあと、二人は少しだけ照れたように笑う。


 それでも、手は離さない。


 この温もりを、これからもずっと繋いでいくために。


 遥はそっと呟く。


「ただいま。」


 葵が、やわらかく応える。


「おかえり。」


 その言葉が、夜の空気に静かに溶けていく。


 帰る場所があること。


 隣にいる人がいること。


 それだけで、明日もきっと大丈夫だと思える。


 何気ない一日が、またひとつ重なっていく。


 そして、そのすべてが――


 ふたりで過ごす、かけがえのない時間になる。


 だからきっと、これからも。


 どんな日も。


 ふたりでいれば。


 それは――


 ふたり日和。

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