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特別編 「雨音よりも近く」



 朝から降り続いていた雨は、夕方になっても止む気配を見せなかった。


 窓ガラスを伝う雨粒。


 灰色に染まった空。


 時折吹く風が、ベランダの手すりを濡らしていく。


 そんな土曜日。


 遥と葵は、二人きりで家にいた。


「今日は外、無理そうだね」


 窓の外を眺めながら、遥がぽつりと呟く。


「いいじゃん。こういう日も」


 ソファに座ったまま、葵が軽く肩をすくめる。


「たまには一日中、家にいるのも悪くないでしょ」


「……まあ、そうかも」


 遥が振り返ると、


「ほら、こっち」


 葵が隣を軽く叩いた。


「え、なに?」


「いいから来なって」


 少し戸惑いながらも、遥は隣へ腰を下ろす。


 その瞬間。


「わっ」


 腕を引かれ、気づけば膝の上に引き寄せられていた。


「ちょっと、葵……」


「今日はさ、遥を独占する日」


 耳元で囁く声が、やけに低く甘い。


 その声が直接触れるみたいに、ぞくっと背筋が震える。


「急に何それ」


「雨の日限定の特別ルール」


「そんなの聞いたことない」


「今決めた」


 さらっと言い切る葵の手が、逃がさないように腰を引き寄せる。


 指先がゆっくりと背中をなぞる。


 わざと、時間をかけるように。


「……っ」


 思わず息が漏れる。


 触れられているだけなのに、じわじわと熱が広がっていく。


「……ねえ」


「ん?」


「近すぎない?」


「まだ足りないくらいだけど」


「十分近いってば……」


 声が少しだけ震える。


 それでも、離れようとはしない。


 むしろ、ほんの少しだけ体を預けてしまう。


 そのことに気づいた葵が、くすっと笑う。


「ほら、やっぱり」


「なにが」


「嫌じゃない顔してる」


「……うるさい」


 葵がゆっくり顔を寄せる。


 触れる直前で止める。


 わざと焦らすように。


 吐息がかかる距離。


 視線が絡む。


「……そういうの、ずるい」


「どのへんが?」


「分かってやってるでしょ……」


 声が少し掠れる。


 葵はあっさり頷いた。


「うん、分かってる」


 そのまま距離が消える。


 唇が重なる。


「……ん」


 軽くでは終わらない。


 すぐにもう一度。


 今度は、ゆっくりと深く。


 触れ合うたびに、息が乱れていく。


 遥の指が葵の服を掴む。


 ぎゅっと、無意識に。


 離れようとしない。


 むしろ、引き寄せるように。


 葵はそれを楽しむように、わざと少しだけ離しては、また触れる。


「……っ、あ……」


 焦らされるたびに、声が漏れる。


 呼吸がうまく整わない。


 胸が苦しいのに、離れてほしくない。


 やがて。


 離れることなく、長く重なったままになる。


 呼吸が混ざる。


 遥の肩がわずかに震える。


「……ん、ぁ……」


 小さく、抑えきれない声がこぼれる。


 葵の手が背中をゆっくり撫で、そのままさらに引き寄せる。


 逃げ場なんて最初からない距離。


 それでも遥は、逃げようとはしなかった。


 むしろ、自分から近づいていく。


     ◇


 昼を過ぎても、雨は降り続いていた。


 二人は映画を見ることにした。


 部屋の照明を少し落とし、ソファに並ぶ。


 けれど。


 気づけば遥は葵の膝の上に座り、背中を預けていた。


 葵の腕が自然に回る。


 そのまま、指先が腰へ触れる。


 軽くではなく、じわじわと。


「……ちゃんと見てる?」


 遥が小さく問いかける。


 けれど声はどこか上ずっている。


「見てるよ」


「絶対嘘……」


 触れられるたびに、意識がそちらへ引き寄せられる。


 映画の内容なんて、もう頭に入ってこない。


「さっきから、私ばっかり見てるでしょ」


 葵は否定しない。


 むしろ、楽しそうに笑う。


「だってさ」


 顎に指を添え、ゆっくり顔をこちらへ向けさせる。


「遥のほうが、ずっといい」


「意味分かんない……」


 そう言いながらも、視線を逸らせない。


 距離が近づく。


 呼吸が触れ合うほどに。


「ねえ」


「なに?」


「もう我慢しなくていい?」


「……してたの?」


「ずっと」


 その言葉に、胸が強く鳴る。


 熱が一気に上がる。


「……じゃあ」


 遥が小さく呟く。


「私も、いいよ……」


 その瞬間。


 葵が強く引き寄せた。


 唇が重なる。


「……っ、ん……」


 今度は最初から深い。


 逃がさないように、しっかりと。


 一度のキスが、長く続く。


 離れない。


 息が苦しくなるほど近いのに、それでも離れない。


 遥の手が葵の肩へ回る。


 ぎゅっと掴む。


 逃げるどころか、しがみつくように。


 葵が少しだけ角度を変える。


「……ぁ、ん……」


 呼吸が乱れる。


 声が漏れる。


 それでも唇は離れない。


 むしろ、さらに深く。


 互いの温度を確かめるように。


 やっと離れたとき。


 遥は小さく息を整えながら、葵を見た。


「……は、ぁ……もう映画どころじゃない……」


「最初からそうなると思ってた」


「確信犯じゃん……」


「うん」


 悪びれもなく笑う。


 そのまま、また距離を詰める。


「ちょっと、まだ……」


「まだ足りない」


 囁くように言って、再び唇を重ねる。


「……ん、ぁ……」


 今度はゆっくりと、じっくりと。


 逃げる隙なんて与えない。


     ◇


 雨は、まだ降っている。


 遥は葵の胸に背中を預けたまま、指を絡めていた。


 葵の手は、相変わらず遥の腰に触れている。


 時折、わざと意識させるように動く。


「ねえ、遥」


「……ん」


 声が少し甘くなる。


「今、幸せ?」


 遥は少しだけ考える。


「……うん」


 息を整えながら答える。


「こうして一緒にいて」


「触れて……」


「……キスして……」


 言葉にするたびに、さっきの感覚が蘇る。


 頬が熱くなる。


 葵がくすっと笑う。


「そこ、ちゃんと入れるんだ」


「入るよ……」


 遥は少しだけ振り返る。


 すぐ近くに葵の顔がある。


「すごく幸せ……」


 葵は何も言わず、ただ遥を抱き寄せた。


 そのまま、唇を重ねる。


「……ん……」


 今度はゆっくりと。


 けれど、確実に深く。


 遥の手が葵の頬へ触れる。


 指先が少し震えている。


 それでも離れない。


 むしろ、さらに近づく。


 何度も、何度も。


 短く重ねては、また深く。


「……ぁ、ん……」


 離れても、すぐにまた触れる。


 まるで、離す気なんて最初からないみたいに。


     ◇


 夕方。


 雨は少しだけ弱くなっていた。


 二人は夕食を作るため、キッチンへ立つ。


「遥、玉ねぎお願い」


「うん、任せて……」


 まだ少し息が残っている。


 並んで料理をする。


 けれど。


「葵」


「ん?」


「近いって……」


「キッチン狭いし」


「絶対それだけじゃないでしょ……」


 背後から抱き寄せられる。


 腰に回された腕。


 逃がさないように、しっかりと。


「これじゃ作業できない……」


「じゃあやめよ」


「極端すぎる……」


 遥は呆れながらも笑う。


 そして振り返る。


 そのまま、自分から唇を重ねた。


「……ん」


 短くではなく、ゆっくりと。


 少しだけ長く。


「……今の、何?」


「休憩……」


「それだけ?」


「……もう一回くらいなら……」


 葵が楽しそうに笑う。


「素直じゃん」


「うるさい……」


 そして今度は葵から。


 逃がさないように、さらに深く。


「……ぁ、ん……」


     ◇


 夜。


 雨はようやく上がった。


 窓を開けると、濡れた街の匂いが部屋へ流れ込んでくる。


 二人はベランダへ出た。


「やっと止んだね」


「うん」


 雲の隙間から、月が顔を出している。


 遥は隣にいる葵を見る。


「結局、どこにも行かなかったね」


「でも楽しかったでしょ?」


「……うん、楽しかった」


 素直に頷く。


「私も」


 葵がそっと手を差し出す。


 遥はその手を握り、指を絡める。


「また雨の日が来たらさ」


「うん」


「今日みたいに過ごそうよ」


 遥は少し考えてから、


「晴れの日でもいいよ」


「いいの?」


「二人きりなら、どっちでも……」


 葵が嬉しそうに笑う。


「それ、かなり嬉しい」


 遥は少しだけ照れながら、そっと近づく。


 そして。


 今度は自分から、深く唇を重ねた。


「……ん、ぁ……」


 ゆっくりと。


 長く。


 一度では終わらない。


 離れても、またすぐに重なる。


 何度も。


 何度も。


 夜の静けさの中で、雨の名残の匂いに包まれながら。


 互いの存在を確かめるように。


 離れたあと、遥は小さく笑う。


「……忘れなくていいよ」


 雨上がりの夜。


 二人の家。


 静かな時間。


 触れ合うたびに、確かめる想い。


 好きだと。


 大切だと。


 これからも一緒にいたいと。


 高校時代から続いてきた二人の物語は、今では穏やかな日常になった。


 けれど。


 隣にいるだけで胸が高鳴る気持ちは、あの頃から少しも変わっていない。


「おやすみ、遥」


「おやすみ、葵」


 明日になれば、また新しい一日が始まる。


 そしてきっと。


 明日も二人は、同じ場所で笑っている。


                ――完――

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