第七章 「乾杯の夜」
待ちに待った土曜日。
二人とも久しぶりに仕事のない休日だった。
目覚ましをかけずに眠れた朝。
窓から差し込む柔らかな光に包まれながら、遥はゆっくりと目を開ける。
すぐ隣には、まだ眠っている葵の寝顔。
穏やかな寝息と、少しだけ乱れた髪。
その無防備な姿に、遥は思わず微笑んだ。
「……おはよう。」
小さく呟きながら、そっと顔を近づける。
触れるか触れないかの距離で一瞬ためらい、そして軽く唇を重ねた。
柔らかくて、温かい感触。
「ん……」
葵がわずかに目を開ける。
「……遥?」
「起きた?」
「今の……キス?」
「うん。」
照れくさそうに笑う遥に、葵は少しだけ頬を赤くした。
「ずるい……」
「起きたばっかりなのに。」
「じゃあ、もう一回する?」
そう言って、今度は葵の方から顔を寄せる。
今度は少し長く、ゆっくりとしたキス。
朝の静かな空気の中で、二人の距離が自然と溶けていく。
「……おはよう。」
改めて、葵が優しく言った。
「おはよう。」
二人は顔を見合わせて、くすっと笑った。
◇
顔を洗ってリビングへ行くと、テーブルの上には今日の献立を書いたメモが置かれている。
「今日は本気だね。」
遥が笑うと、葵は得意そうに胸を張った。
「今日はご馳走の日だから。」
メモには、
・ローストビーフ
・サーモンのカルパッチョ
・生ハムサラダ
・じゃがいものポタージュ
・手作りガーリックライス
と書かれていた。
「すごい。」
「全部作るの?」
「もちろん。」
「じゃあ私はローストビーフ担当。」
「お願い。」
二人は顔を見合わせて笑った。
◇
昼前。
二人は近所のスーパーへ向かった。
「お肉はこっちかな。」
「サーモンも新鮮そう。」
休日のスーパーは多くの買い物客で賑わっている。
「これなら美味しくできそう。」
遥がお肉を持ち上げると、葵が満足そうに頷いた。
「今日はちょっと奮発しちゃおう。」
「たまにはね。」
カートには少しずつ食材が増えていく。
デザート用のプリンまで入れると、二人は思わず笑ってしまった。
「結局これも買うんだ。」
「食後のお楽しみ。」
◇
帰宅すると、さっそく料理が始まる。
オーブンではローストビーフが焼き上がり、鍋ではポタージュが静かに煮込まれる。
「味見お願い。」
葵がスプーンを差し出す。
遥は一口飲んで目を丸くした。
「おいしい。」
「ほんと?」
「お店みたい。」
「よかった。」
一方で遥はローストビーフを丁寧に切り分けていた。
「厚さ、このくらい?」
「ちょうどいい。」
キッチンには終始笑い声が響いていた。
◇
すべての料理が並ぶ頃には、外は夕焼け色に染まっていた。
「完成!」
テーブルいっぱいに並んだ料理を見て、二人は思わず拍手する。
「こんなに作ったの初めてかも。」
「頑張ったね。」
その時、葵が冷蔵庫を開け、小さな箱を取り出した。
「そうだ、これ。」
「職場でもらったんだ。」
中には一本のワインが入っていた。
「店長が『二十歳ならぜひ』って。」
「いいものらしいよ。」
遥は少し驚いたように瓶を眺める。
「せっかくだし。」
「今日はこれも開けよう。」
「うん。」
◇
グラスへワインがゆっくりと注がれる。
赤い色が照明に照らされ、穏やかに揺れた。
二人は向かい合って座る。
「いただきます。」
そして、グラスを軽く合わせた。
「乾杯。」
小さく澄んだ音が部屋に響く。
遥は少しだけ口に含み、ゆっくり味わう。
「どう?」
「思ってたより飲みやすい。」
「ほんと?」
葵も一口飲んで微笑んだ。
「料理によく合うね。」
「うん。」
ローストビーフを口に運びながら、二人は今日の料理を褒め合う。
「これ、また作ろう。」
「今度はクリスマスかな。」
「いいね。」
そんな会話が自然と弾んでいく。
◇
食事も終盤になる頃。
葵はふとテーブルの上のワインボトルに目をやった。
「……あれ?」
さっき開けたばかりのはずなのに、すでに半分以上減っている。
視線を上げると、遥がグラスを傾けていた。
「遥、ちょっと飲みすぎじゃない?」
「んー……?」
頬をほんのり赤く染めた遥が、ゆるく笑う。
「だって、おいしいんだもん。」
言葉の調子が少しだけいつもより柔らかい。
葵は苦笑しながらグラスをそっと取り上げた。
「ペース早いよ。」
「大丈夫?」
「だいじょーぶ……」
そう言いながら、遥はふらりと立ち上がり、葵の隣へ移動してきた。
「ちょ、遥?」
そのまま、ぎゅっと腕に抱きついてくる。
「葵ぃ……」
甘えるような声。
普段よりも距離が近く、体温がじんわり伝わってくる。
「どうしたの?」
「なんか……すごく、幸せで……」
遥は葵の肩に顔を埋めたかと思うと、すぐに顔を上げてじっと見つめた。
「ねえ、葵……」
いつもよりも距離を詰めて、逃がさないように腕を絡める。
「もっと、こっち来て。」
「え、もう十分近いけど……」
「やだ。」
少し拗ねたように言いながら、ぐいっと引き寄せる。
ほとんど密着する距離。
「遥……?」
「今日の葵、すごくかわいい……」
じっと見つめたまま、頬に指先を触れさせる。
「ずっと見てたい……」
そのまま、ためらいなく顔を近づけてくる。
軽く触れるだけだったはずのキスが、少しだけ長くなる。
「……ん、遥……」
「だめ?」
潤んだ瞳で見上げながら、さらに距離を詰める。
「もっとしたい……」
恥じらいのない、まっすぐな言葉。
普段の遥からは想像できないほど素直で大胆だった。
「葵のこと、いっぱい触りたい……」
そう言って、肩に回した手に少しだけ力を込める。
逃がさないように。
「好き……すごく好き……」
何度も繰り返すように囁きながら、頬や唇に軽くキスを落としていく。
無邪気で、でもどこか危うい距離感。
葵は一瞬戸惑いながらも、遥の様子に苦笑した。
「……ほんとに酔ってるね。」
「うん……でも、ほんとだよ……」
真剣な顔で言い切る遥。
「葵がいるから、毎日頑張れるし……」
「こういう時間も……全部、大事で……」
「だから……もっと、くっついてたい……」
ぎゅっと抱きしめる力が強くなる。
いつもよりも、ずっと積極的に。
葵は少しだけため息をつきながらも、その背中に手を回した。
「……今日は甘えんぼだね。」
「だめ……?」
「だめじゃないけど。」
優しく頭を撫でながら、少しだけ距離を整える。
「でも、今日はもうワインはおしまい。」
「えー……」
「ほら、顔真っ赤。」
「うそ……?」
「ほんと。」
遥は少し不満そうにしながらも、再び葵に寄りかかった。
「じゃあ……このままでいい……?」
「いいよ。」
葵はそのまま肩を貸し、ゆっくりと背中をさする。
窓の外では夏の夜風がカーテンを揺らしていた。
テーブルの上には、半分以上空いたワインボトルと、食べ終えた皿。
そして、寄り添う二人。
少しだけ騒がしくて、でも温かい夜。
酔いに任せてこぼれた言葉も、すべてが愛おしくて。
その何気ない幸せを胸に刻みながら、二人の時間は静かに流れていくのだった。
(第八章へ続く)




