第六章 「遥頑張った」
八月も終わりに近づき、朝の風に少しだけ秋の気配が混じり始めていた。
いつものように、目覚まし時計が鳴る少し前。
遥が目を覚ますと、隣では葵がまだ静かな寝息を立てている。
その寝顔を見つめながら、遥は小さく笑った。
「今日は私が先かな。」
そっとベッドを抜け出そうとした、その瞬間。
「……どこ行くの?」
まだ眠そうな声が背中から聞こえた。
「起こしちゃった?」
振り返ると、葵が目を細めながら遥の手をそっと握る。
「もう少しだけ。」
「あと五分。」
甘えるようなその声に、遥は苦笑しながらベッドへ戻った。
「今日は仕事なんだから。」
「分かってる。」
そう言いながらも、葵は離そうとはしない。
「五分だけ。」
「本当に五分?」
「……たぶん。」
「それ、一番信用できない返事。」
二人は思わず笑い合った。
◇
朝食を終え、それぞれ出勤の準備をする。
玄関では、いつものようにバッグを肩へ掛ける遥が、ふと立ち止まった。
「今日、帰り少し遅くなるかも。」
「棚卸し?」
「うん。」
「じゃあ夕飯は私が作っておくね。」
「ありがとう。」
当たり前のように交わされる会話。
同棲を始めた頃なら照れていた言葉も、今では自然に口をついて出る。
「じゃあ、行こうか。」
「うん。」
◇
棚卸しは思っていた以上に大変だった。
数を数え、確認し、記録して。
途中でミスが見つかり、やり直しになる場面もあった。
それでも遥は最後まで集中を切らさず、丁寧に作業を続けた。
「お疲れさま、遥さん。」
同僚に声をかけられたとき、ようやく終わったのだと実感する。
「ありがとうございます。」
時計を見ると、すっかり夜になっていた。
疲れはある。
でも、それ以上にやり切ったという充実感が胸に残っていた。
「……よし。」
小さく息を吐き、遥は帰路についた。
◇
帰宅すると、玄関から食欲をそそる香りが漂ってくる。
「ただいま。」
「おかえり!」
エプロン姿の葵が笑顔で迎えた。
「遅くまでお疲れさま。」
その一言を聞いた瞬間、遥の肩からふっと力が抜けた。
「……うん、終わった。」
「ちゃんとやり切ったよ。」
そう言いながら、遥は靴を脱ぐと、そのまま葵の方へ歩み寄る。
そして――
「葵。」
「ん?」
ぎゅっと、抱きついた。
「ちょ、遥?」
「ちょっとだけ。」
顔を肩に埋めるようにして、遥は小さく息を吐く。
「頑張ったから。」
「……うん。」
葵は驚きながらも、優しく背中に手を回した。
「えらいね。」
「うん。」
「すごく頑張った。」
その言葉に、遥は少しだけ力を込めて抱きしめる。
「こういうの、たまにはいいでしょ。」
「もちろん。」
葵はくすっと笑った。
「むしろ、もっと甘えていいよ。」
「じゃあ、もう少しだけ。」
◇
少し落ち着いてから、二人は夕食を囲む。
「今日はカレー。」
「いい匂い。」
「いっぱい作ったから、明日のお弁当もあるよ。」
「助かる。」
スプーンを口に運びながら、遥はほっとしたように息をつく。
「美味しい。」
「よかった。」
「なんか、すごく染みる。」
「疲れてる証拠だね。」
「うん。」
遥は少しだけ笑った。
◇
食後、ベランダへ出る。
夜風は昼間よりも少しだけ涼しい。
街の灯りが遠くで瞬いていた。
ここではいつも、二人で飲み物を飲みながら一息つくのが習慣になっている。
「もう夏も終わりだね。」
葵が空を見上げる。
「早いね。」
遥も隣へ並んだ。
しばらく何も話さず、虫の声だけが静かに響く。
その沈黙が心地よかった。
「ねえ、遥。」
「ん?」
「私たちさ。」
葵は少し照れたように笑う。
「ちゃんと大人になれてるかな。」
遥は少し考えた。
「どうだろう。」
「でも。」
「高校の頃より、笑うことは増えた気がする。」
「それは私も思う。」
葵は嬉しそうに頷く。
「毎日忙しいけど。」
「帰ってきて、遥と話して、ご飯食べて。」
「それだけで、疲れがなくなる。」
「私も同じ。」
「そういえばさ。」
遥がふと思い出したように言う。
「今週末、久しぶりにゆっくりできそうなんだ。」
「ほんと?」
葵の目が少し輝く。
「じゃあさ、ちょっと豪華なご飯作らない?」
「ご馳走?」
「うん。いつもよりちょっと手の込んだやつ。」
「いいね。」
遥は楽しそうに笑った。
「じゃあ、私も手伝う。」
「一緒に作ろうか。」
「うん、楽しみ。」
◇
部屋へ戻ると、テーブルの上には一冊のノートが置かれていた。
「これ、まだ書いてたんだ。」
葵がページをめくる。
そこには遥が休日に少しずつ書きためている短編小説が並んでいた。
「仕事始めてから、前みたいには書けないけど。」
「少しずつ。」
「遥らしいね。」
葵は微笑みながらページを閉じる。
「いつか本になるといいな。」
その言葉に、遥は少し照れながら笑った。
「その時は、一番最初に読んでもらう。」
「約束?」
「うん、約束。」
◇
寝る前。
部屋の照明を落とし、二人はソファで温かい紅茶を飲んでいた。
明日も仕事。
忙しい一日になる。
それでも、不思議と不安はなかった。
遥はそっと葵の肩にもたれかかる。
「……今日、ほんとに疲れた。」
「うん。」
「でも、帰ってきてよかった。」
「私も。」
葵は優しく頭を撫でる。
「明日も頑張ろう。」
葵がマグカップを持ち上げる。
遥も同じように持ち上げた。
「うん。」
「一緒に。」
カップが小さく触れ合い、澄んだ音が静かな部屋に響く。
未来はまだ、これから続いていく。
忙しい日も、笑う日も、少し落ち込む日も。
二人なら、きっと乗り越えていける。
そんな穏やかな確信を胸に抱きながら、二人は新しい明日を迎える準備を始めるのだった。
(第七章へ続く)




