第五章 「思い出の帰り道」
八月最初の日曜日。
朝から青空が広がり、窓の外では蝉が元気よく鳴いていた。
珍しく、今日は二人とも予定のない休日だった。
「今日はほんとに何もないね。」
朝食を食べ終えた遥が、マグカップを両手で包みながら柔らかく微笑む。
「だからこそさ、どこか出かけたくない?」
葵はソファの背にもたれ、スマートフォンを閉じながら軽く首を傾げた。
「どこでもいい?」
「うん、遥が行きたいとこでいいよ。」
遥は少し考えたあと、照れくさそうに笑う。
「じゃあ……高校の近く、歩いてみない?」
その一言に、葵もぱっと表情を明るくした。
「やっぱり? 私もそれ考えてたんだよね。」
◇
電車を降りると、見慣れた駅前の景色が広がる。
新しいカフェが一軒増えていたものの、商店街の雰囲気はあの頃とほとんど変わっていない。
「懐かしいなあ。」
葵がゆっくり歩きながら、少し弾むように呟く。
「うん……なんか、ほっとするね。」
遥も自然と笑みを浮かべる。
学生服姿の高校生たちが楽しそうに歩いている。
その姿を見ていると、自然と高校時代の思い出が胸によみがえってきた。
「ねえ、遥。」
「ん?」
「……ちょっとだけ、あの頃に戻ってみない?」
葵が少しだけいたずらっぽく笑う。
「戻るって……?」
「ほら、あそこ。」
指差した先には、小さな古着屋があった。
店先には、見覚えのある制服が並んでいる。
「まさか……」
「ちょっとだけ、着てみよ?」
葵の提案に、遥は一瞬戸惑ったものの、やがてくすっと笑った。
「……ほんとにちょっとだけだよ?」
◇
店の試着室。
カーテン越しに、二人はそれぞれ制服に袖を通す。
「……なんか、変な感じ。」
遥が小さく呟く。
「でも、似合ってると思うよ。」
先に着替え終えた葵が、カーテンを少し開けて顔を覗かせる。
その姿は、どこか懐かしくて、でも少し大人びて見えた。
「葵こそ……全然変わってない。」
遥もカーテンを開ける。
二人は顔を見合わせて、思わず笑ってしまう。
「ほんとに高校生みたい。」
「いや、さすがに無理あるでしょ。」
「でもさ……」
葵は少しだけ照れながら、遥の袖を軽く引いた。
「こうしてると、あの頃に戻ったみたいで……ちょっと嬉しい。」
遥はその言葉に、優しく微笑む。
「うん……私も。」
二人は鏡の前に並び、少しだけその姿を見つめた。
制服越しに感じる、懐かしい時間。
でも隣にいるのは、あの頃よりもずっと近くなった存在だった。
「……あれ?」
ふと、遥が自分の胸元を気にするように手を当てる。
「どうしたの?」
「なんか……ちょっとキツいかも。」
少しだけ頬を膨らませて、拗ねたように言う遥に、葵はきょとんとしたあと、くすっと笑った。
「え、ほんと?」
「うん……前はこんなじゃなかった気がするのに。」
遥は少し不満そうに視線を落とす。
その様子が可愛くて、葵は思わず肩を揺らした。
「それはさ……」
葵は少しだけ顔を近づけて、小さく囁く。
「遥がいっぱい触るから、大きくなったんじゃない?」
「えっ……!」
遥は一瞬で顔を赤くする。
「そ、そんなこと……!」
「あるでしょ? 最近、よく触ってくるし。」
からかうような笑みに、遥はさらにむっとした顔になる。
「じゃあ……私が大きくならないのは、葵のせいだよ。」
「え?」
「だって、葵はあんまり触ってくれないし……」
少し甘えるような声でそう言って、遥は葵の袖をぎゅっと掴む。
「もっと……触ってくれてもいいのに。」
その言葉に、葵は一瞬言葉を失い、すぐに照れたように視線を逸らした。
「……なにそれ、ずるい。」
「ずるくないもん。」
遥は小さく笑いながら、少しだけ距離を詰める。
その距離感に、葵は観念したようにため息をついた。
「……帰ったら、ね。」
「ほんと?」
「うん、約束。」
その一言に、遥はぱっと嬉しそうに笑った。
「じゃあ、楽しみにしてる。」
二人は顔を見合わせて、またくすっと笑い合う。
「……そろそろ戻ろっか。」
「うん。」
名残惜しさを感じながらも、二人は制服を脱ぎ、元の服に着替える。
◇
二人は商店街を抜け、通学路だった坂道へ向かう。
「毎日ここ歩いてたんだよね、私たち。」
「うん、毎日。」
「雨の日もさ。」
「暑い日も……」
「寒い日も、ちゃんと来てたよね。」
言葉を重ねるたびに、記憶が少しずつ鮮明になっていく。
「覚えてる?」
葵がくすっと笑う。
「遥、冬になると手袋すぐ忘れてたじゃん。」
「……そんなに?」
「うん、結構な頻度で。何回貸したと思ってるの。」
「そ、そんなにだったかな……」
二人は顔を見合わせて、思わず笑い合った。
◇
校門の前まで来ると、休日の学校は静かだった。
グラウンドでは運動部が練習をしている。
校舎を見上げた遥は、小さく息をついた。
「ここに来ると……なんだか不思議な気持ちになるね。」
「わかる。高校生活って、ほんとあっという間だったよね。」
「でも、その分……いろんなことがあった。」
楽しかったこと。
悩んだこと。
涙を流したこと。
そして、何度も笑い合ったこと。
そのすべてが、今では大切な思い出になっていた。
◇
学校をあとにした二人は、駅前の商店街へ戻る。
ある店の前で、葵がふと足を止めた。
「ここ、覚えてる?」
湯気の立ちのぼる肉まん屋だった。
「まだやってるんだ。」
遥は嬉しそうに目を細める。
「入ろっか。」
「うん、食べたい。」
二人は肉まんを一つずつ受け取り、店の前のベンチへ腰を下ろした。
一口頬張ると、湯気と一緒に懐かしい香りが広がる。
「やっぱり、おいしいね。」
「うん、この味……変わってない。」
「高校の頃と同じだね。」
「こういうの、なんか嬉しいよね。」
変わらない味に、二人は自然と笑顔になった。
◇
帰り道。
夕暮れの空が街を優しく染めていた。
「社会人になってさ、もう半年くらい同棲してるじゃん。」
葵がゆっくり話し始める。
「最初はさ、ちゃんとやっていけるかなって思ってたんだよね。」
「私も……ちょっと不安だった。」
遥は少し照れたように笑う。
「でも今は、この生活が当たり前になってきた。」
「朝、『おはよう』って言ってさ。」
「夜、『おかえり』って言って……」
「それだけで、なんかすごく満たされるんだよね。」
葵の言葉に、遥は静かに頷いた。
「高校の頃は……明日も会えるって、当たり前じゃないって思った時期もあった。」
「うん、あったね。」
「だから今は、一日一日をちゃんと大切にしたいなって思う。」
「私も。同じ気持ち。」
二人はゆっくりと歩き続ける。
急ぐ必要はない。
隣には、これからも一緒に歩いていきたい人がいる。
ふと、葵が歩みを少し緩めた。
「ねえ、遥。」
「ん?」
呼びかけに振り向いた瞬間、葵はそっと遥の腕に自分の腕を絡めた。
「ちょっとだけ……こうしててもいい?」
少しだけ甘えるような声。
遥は一瞬驚いたものの、すぐに優しく微笑む。
「うん、いいよ。」
「えへへ……なんかさ、今日ずっと楽しくて。」
葵は肩を寄せながら、小さく笑う。
「こうやって歩いてると、高校の頃よりも……もっと近くなれた気がする。」
「……そうだね。」
遥はそっと葵の手を握り返した。
その温もりに、葵はさらに体を寄せる。
「ねえ、遥。」
「なに?」
「これからも、いっぱいこういう時間作ろうね。」
「うん、もちろん。」
「あとさ……」
葵は少しだけ顔を上げて、いたずらっぽく笑う。
「家帰ったら、もうちょっと甘えてもいい?」
「……もう十分甘えてると思うけど。」
「えー、まだ足りない。」
そう言って、葵はぎゅっと遥の腕に頬を寄せた。
その仕草に、遥は思わずくすっと笑う。
「じゃあ、帰ったらいっぱい甘えていいよ。」
「ほんと? 約束ね。」
「うん、約束。」
夕暮れの中、二人は寄り添いながら歩いていく。
◇
マンションへ戻ると、窓の外には星が輝き始めていた。
買ってきたお土産をテーブルに並べ、冷たい麦茶で乾杯する。
「今日は楽しかったね。」
葵が満足そうに笑う。
「うん、とっても。」
遥も穏やかに笑い返す。
「また思い出が一つ増えたね。」
「これからもさ、毎年行こうよ。」
「うん、約束。」
二人は微笑み合う。
高校時代の思い出は、過去の宝物。
そして今は、その宝物を胸に抱きながら、新しい毎日を少しずつ積み重ねている。
そんな穏やかな時間が、二人にとって何より愛おしいものになっていた。
(第六章へ続く)




