君は手にはいらない
イーゴリの脳裏に、あの忌まわしい記憶がよみがえる。
ヴェーラが成人を一年後に控えた、あの頃のことだ。
当時のイーゴリには、ひとつだけ――どうしても苦痛を伴う役目があった。
ボリスからの頼みごとだ。
第七騎士団長であるボリスは、月に一度、団長会議のため王都へ赴く。
一泊して戻る、その規則正しい往復。
問題は、その間だった。
イーゴリが独立し、騎士団の独身寮へ移ってからというもの、
ボリスはヴェーラを屋敷に一人残すことになった。
ある日、何の気なしに――本当に何の含みもなく、ボリスは言った。
「今月は四日から留守だ。いつものように、泊まってくれ」
それは、かつて同じ屋根の下で暮らしていたイーゴリに向けた、
ただの信頼の言葉だった。
だが――
イーゴリにとっては、そうではなかった。
もともと彼は、ヴェーラを“女”として強く意識してしまったがゆえに、家を出たのだ。
距離を置かなければならないと、そう判断したはずだった。
それなのに。
「……ああ、はい」
口から出たのは、あまりにも軽い返事だった。
断る理由はいくらでもあったはずだ。
だが同時に、断れない理由もまた、同じだけあった。
結果として――イーゴリは、その頼みを受け続けることになる。
最初は、問題などなかった。
ただ留守を預かるだけの、いつも通りの夜。
そう思っていたのは――いつまでだったのか。
『やめろ…っ我慢できなくなる』
イーゴリの脳を焼き切るような、甘い誘惑の温もりや息づかい。
ヴェーラの身体を組み敷いた時の、想像以上の柔らかさと小ささに震えた。
あの時の、記憶が蘇る。
ヴェーラはふざけていただけだったのかもしれない。
昔、くすぐられたお返しとばかりにイーゴリの首筋を指で刺激し、身体に手を伸ばす。
何もせず、ソファーに体を押し付けて抱きしめた時は、すでに限界を感じた。
視界がゆがみ、肉体が軋むほどの欲情を覚えた。
(…ヴェーラが欲しい。俺だけのものにしたい)
抱きしめるだけではなく、全てに触れる権利が欲しい。
一つになって、溶け合うほど求めてもいい関係になりたい。
自分の孤独や痛みを全て抱きしめてくれたヴェーラに、そんな風に欲望を抱く事は罪悪感が蓋をした。
だが…
その夜、イーゴリは第七騎士団の団長室…つまり、ポリスの執務室を業務終了後に訪ねた。
ボリスは団長らしく、騎士達が帰ったあとも残りの仕事を片付けている。
第七騎士団は、戦場では他の騎士団の補充やサポートを中心に行うが、そのぶん所属する騎士の数は倍である。
ボリスは常に多忙で、夜遅くまで職務をこなし夜中にヴェーラの待つ家に帰ることはざらだった。
部屋を訪ねると、ボリスは意外そうにイーゴリを見た。
書類に追われ、団長の机には山積みの仕事が並んでいる。
「お忙しい…ところ、失礼します」
「いや、助かる。お前、最近上級書記官1級を取得したらしいな」
「ええ。…思ったより、簡単に取れそうだったので」
「恐ろしい奴だなぁ。そんな台詞吐ける騎士は、古今東西どこを探してもお前くらいだぞ」
書記官の上位数%しかいないほどの難しい資格を、イーゴリは騎士でありながら取ってしまった。
彼の家系は、元は文官から身を立てた非常に優秀な祖父がおり、イーゴリは元々学者希望の男だった。
なんの気なしに数年前に「書記官の資格、取れそうなのでやってみます」と、働きながら取得。
その後、着々と上位の資格を取り始めついに書記官の最上位の資格を取ってしまった。
イーゴリはボリスの書類の片付け方を確認するなり、テキパキと仕分け始めた。
効率が悪い形で整理されていたからだ。
専属の書記官数名は、それを見て気まずそうにしている。
「なんか話があるんだろ?」
「はい。…でも、少し片付けてからにします。話すときは、人払いをお願いできますか?」
冷静をまとったつもりだった。
だが、ある程度仕事を終わらせるとその時が来たことに身体は想像以上に緊張し、手先が強張り微かに震えたのを感じた。
イーゴリは、一度深く息を吐く。
まだ20になったばかりだった。
「…ヴェーラのこと、将来はどんな風に考えていますか?」
君は手にはいらない
その2に続きます




