崇徳院 ~瀬をはやみ~
「伯父貴、いよいよ始まるよ。ほら、例の崇徳院の若旦那みたいに、一目惚れした娘さんを探して寝込んで、一時はどうなることかと思ったあのお二人だ。……今日という日に、わざわざうちの店を両家の顔合わせの場所に選んでくれたんだから、気合が入るね!」
亀吉が、丁寧に打ち水をした店先を見やりながら、弾んだ声で報告してきました。伯父貴は、早朝から磨き上げた包丁を手に、いつになく真剣な表情でまな板に向かっています。
「……あぁ。あんなに衰えとった若旦那が、こうして晴れの日を迎えられたんや。わしらにとっても、これほどめでたいことはあらへん。……亀、今日は一番ええ酒を用意しておけよ」
やがて座敷からは、両家の親御さんたちが安堵したように笑い合う声が聞こえてきました。若旦那と娘さんの、恥ずかしそうに、けれど幸せに満ちた声が板場まで届きます。みんな嬉しがっちゃって、一番高い酒を次から次へと注文し、座敷は最高潮の盛り上がりを見せていました。
「伯父貴……大変だよ! みんなお祝いで、酒をどんどん開けてる。伯父貴、これ、しっかり計算しておかないと!」
亀吉が、空になった徳利を抱えて板場へ駆け込んできました。
「……亀。今日のあのお祝いの席、酒代は全部わしからの『ご祝儀』にしてやれ。勘定からは外しておくんや」
「えっ! 伯父貴、またかい! あんなに高い酒を何本も開けてるんだよ。サービスしちゃったら、うちの取り分がなくなっちゃうじゃないか!」
伯父貴は、炭火の加減を見ながら、少し困ったように、けれどどこか晴れやかな顔で笑いました。
「……しゃあないやろ。あんなに死にそうやった若旦那が、あんなに幸せそうに笑うとるんや。『瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の、われても末に逢わんとぞ思う』。一度は離ればなれになっても、こうして一つに重なる……。ええか、亀。二人や親御さんの幸せそうな顔を、こうして近くで見れた。わしはそれだけで、もう満足なんや」
「満足って……伯父貴、それじゃあ本当にお人好しが過ぎるよ。やっぱり伯父貴は商売が下手だよ」
「……やかましいわ。鰻代だけはきっちり頂くし、損ばっかりやあらへん。……あんなにええ顔を肴に、鰻を焼けるんは商売人冥利に尽きるっちゅうもんや。わしはな、あのお似合いの二人の門出に、無粋な真似はしたくないんや」
亀吉は、呆れた顔をしながらも、どこか誇らしげに特上の鰻を座敷へ運びました。
一人になった板場で、伯父貴は少しだけ軽くなった勘定書きを眺めながら、ふっと座敷から漏れる喜びの声を隠し味に、次の鰻を網に乗せました。
(……「われても末に、逢わんとぞ思う」、か)
伯父貴は、炭火の熱を顔に受けながら、独りごちました。
この酒代を祝儀にしたのは、単なるお人好しからではありません。
目の前の二人が「一度は離れかけても、また一つになれた」という事実そのものが、今の伯父貴にとって、何物にも代えがたい救いだったからです。
(お清。わしらも、激しい流れに岩でせき止められた、あの滝川と同じや。……わしの強欲っちゅう岩が、おまはんとの流れを二つに割ってしもた。……けどな)
伯父貴は、少しだけ潤んだ目で、店先の暗闇を見つめました。
(……「末に逢わんとぞ思う」。……この歌がある限り、わしは信じとるで。わしがこの板場で、誰かの幸せのために鰻を焼き続けていれば、いつか割れた流れがまた一つに重なる日が来ることを。……おまはんに、もう一度だけ、逢えることをな)
伯父貴は、小さく溜息をつくと、力強く団扇を振りました。
煙の向こうに、いつか帰ってくるはずの妻の笑顔を、一瞬だけ映しながら。




