千両みかん成らぬ千両鰻?
「伯父貴……大変だよ! 表に倒れ込んでたおじいさん、重い病気でね、『死ぬ前に、もう一度だけ、あの八軒家の脂の乗った鰻が食べたい』ってうなされてるんだ。でもね、そのおじいさん、一銭も持ってないんだよ……。伯父貴、やっぱり『うちは慈善事業じゃない』って追い返しちゃうのかい?」
亀吉が、板場の端っこで伏せっている老人の様子を伺いながら、おそるおどる尋ねました。
今の伯父貴なら、ここで「タダで食わせる」と言い出しそうですが、伯父貴は包丁を研ぐ手を止めず、低く笑いました。
「……亀、おまはんは相変わらずやな。……ただ飯を食わせるほど、わしはこの板場を安う見てへんで」
「えっ……じゃあ、やっぱり追い出すのかい?」
「……いや。そのおじいさんに、特上の鰻重を焼いてやれ。それも、わしが目利きした一番ええやつや」
「ええっ! でも、お金がないんだよ?」
「……あぁ。せやから、その代わりにおじいさんから『千両』頂戴するわ。……ただし、銭やあらへん。そのおじいさんが一生かけて蓄えてきた『鰻への思い出話』や。それをわしが千両で買い取ったことにする」
亀吉が驚きながらも鰻を運び、老人は涙を流しながら、かつて景気が良かった頃に食べた鰻の思い出や、家族と囲んだ食卓の話を、ポツリポツリと語り始めました。老人の顔には、いつの間にか血色が戻り、食べ終える頃には自力で立ち上がれるほどになっていました。
「……伯父貴、おじいさん、千両分の話を置いて、元気に帰っていったよ。でも、結局お代は一銭も入らなかったね。やっぱり伯父貴は商売が下手だよ」
伯父貴は、空になった重箱を丁寧に洗いながら、静かに答えました。
「……そうやな。銭は一銭も入らなんだ。……けどな、亀。あの爺さんが最後に『生きててよかった、明日からまた頑張ってみる』と笑った顔……ありゃあ、わしには千両以上の価値がある『景気』に見えたんや。……わしは、その『景気』を仕入れたんや。商売人なら、たまにはこういうデカい買いもんもせなあかん」
「……景気を仕入れる、かぁ。でも、女房さんに知られたら、また伊万里を割られちゃうね」
「……やかましいわ。それは内緒にしとけ」
伯父貴は照れ隠しに亀吉を追い出し、一人、誰もいない板場で、老人が置いていった「千両の笑顔」を思い出しながら、満足そうに鼻歌を漏らしました。




