厩火事 ~口は災いのもと~
「おぅ亀吉、おまはん『厩火事』っちゅう落語、知っとるか」
板場で鰻を捌きながら、伯父貴がふとそんなことを聞き出しました。亀吉は手を止めて、首をかしげます。
「ええ。女房が旦那の愛を確かめたくって、大事な皿をわざと割る話でしょ? 旦那が皿を嘆くか、それとも自分の怪我を心配してくれるかで、愛があるかどうかを確かめるっていう……」
「おー、そうよ。それがな、昨日、わしとこの女房のやつが何を思ったか、うちの大事な伊万里を割っちまってな」
「ええっ! あの伊万里を!? ……それで伯父貴、なんて言ったんだい?」
伯父貴は、炭火の熱を顔に受けながら、自慢げに続けました。
「『大丈夫か、怪我はないか?』と聞いたんや。そしたら女房のやつ、いきなり泣き出しよってな。『御前さん、そんなにわてのことを思ってくれてたのかい』って、すっかり感激しよったわ。……単純なもんやで、亀」
亀吉は少し顔を綻ばせました。
「へぇ……伯父貴も、たまには優しい所があるんだねぇ」
すると、伯父貴は鰻のタレを塗りながら、冷たい目でニヤリと笑いました。
「……いや、女房には言わなんだがな。あいつに怪我でもされて、鰻の串打ちが出来んようになられたら困るっちゅうだけのことや。代わりの職人を雇えば金がかかるが、心配してるふりをするだけならタダや。これぞ最高の商売やろ?」
「……伯父貴、そりゃあひどいよ。いくらなんでも……」
亀吉が言いかけた、その時でした。
板場の隅、暗がりに立っていた女房の震える声が響きました。
「……全部、聞こえてたわ」
伯父貴の手が止まりました。女房の目は、これまでに見たこともないほど冷たく、悲しく、絶望に満ちていました。
「御前さん。わては今まで、あんたがどれだけ口が悪うても、心の奥には情けがある人やと信じて、必死にこの店を支えてきた。けど……あんたの心には、もう金と鰻の脂しか詰まってへんのやね。わては、あんたにとっての『商売道具』やったんやね」
「待て、お清。今のは商売人の冗談で……」
「もう、ええわ」
翌朝、亀吉が店に来ると、板場に女房の姿はありませんでした。そこには、丁寧に磨き上げられた包丁と、真っ二つに割れたままの伊万里が残されているだけでした。
伯父貴は、火の入っていない冷たい焼き台の前で、ただ立ち尽くしていました。
「……亀。わしは、何を言うてしもたんやろうな」
伯父貴の震える手が、割れた伊万里の破片を拾い上げました。その破片に映る自分の顔は、金に取り憑かれ、温かさを失った、醜い「亡者」そのものでした。
「わしは、何をしとったんや。銭を積み上げて……一番大事なもんを、自分の口で捨てちまった」
伯父貴の目から、一筋の涙が溢れ、割れた伊万里の中に落ちました。
「亀……わしは、もう亡者の芝居はやめる。……これから、この店をやり直したいんや。銭のためやない、あいつがいつか帰ってきた時に、『あぁ、この店は温かい匂いがするな』と思ってもらえるような……そんな店に、したいんや」
伯父貴は、自らの業に深く苦しみながら、今日からは「情け」を隠し味にするために、新しい炭に火を入れました。




