第九話 白いうさぎの記憶
この館では、ときどき不可解なことが起きる。
夜中に鳴るはずのない呼び鈴。
誰もいない廊下を横切る気配。
閉めたはずの扉が、朝にはわずかに開いている。
けれど、それらは決して幽霊の仕業ではない。
鹿鳴館に残るのは、行き場を失った感情の偏り。
言えなかった言葉。
渡せなかった想い。
途中で途切れた、誰かの「未完了」。
もっとも、この館には秩序を重んじる管理者がいる。
白く、気高く、過去さえもその気品で塗り替える女王陛下。
名を、ジョセフィーヌ。
「ジョセ〜。おやつだよー」
「愚か者。“フィーヌ”までが私よ。そこに私の気品と、お前の無能を隔てる深い溝がある」
……と、このような女王陛下と、だいたい役に立たない管理人、佐伯。
これは鹿鳴館で起きる、感情の名残と、ささやかな物理トラブルの記録である。
⸻
最近、管理人室の夜が妙に騒がしい。
夜中に何かが床に落ちる乾いた音。
鍵のかかっていない引き出しが、ひとりでに数センチだけ滑り出す音。
そして、古い紙と紙が、誰かに指でなぞられているような、カサリとした擦れ音。
ここは鹿鳴館の心臓部であり、同時に、行き場を失った過去の遺物が積み上がる終着駅でもある。
(……うるさいわね。眠れやしないわ)
ジョセフィーヌはケージの隅で耳を伏せた。
音の主は、誰の目にも見えない。
だが、そこには確かに――
「誰かに見つけてほしい」という、古く、埃っぽい意志が漂っていた。
⸻
「うわあああ、またやっちゃった!」
翌朝。
管理人室で、佐伯が盛大な音を立てていた。
棚の整理をしようとして、あろうことか書類の山を崩し、その拍子に足元にあった古い木箱を蹴飛ばしたのだ。
中から溢れ出したのは、色褪せた領収書や、いつのものかも分からない古い備品名簿。
その雑多な紙の海の中で、一つの小さな写真立てが、コロンと転がった。
額のガラスは割れ、中から一枚の黄ばんだ写真が滑り出す。
「おや、珍しいねえ」
回覧板を持って通りかかった古参の住人が、床の写真を覗き込んで言った。
「懐かしいねえ……。これ、佐伯さんのお姉さんだよ。まだ館が賑やかだった頃の」
佐伯の動きが、ぴたりと止まった。
「……姉ちゃん」
床に落ちた写真には、
陽だまりの庭で笑う一人の少女と、
その隣でむっつりと口を結んだ幼い佐伯。
そして――
少女の腕に抱かれた、一羽の、真っ白なうさぎ。
ジョセフィーヌは、吸い寄せられるようにその写真を見つめた。
瞬間。
――庭の匂い。
――子供の笑い声。
――自分を包み込む、柔らかく温かな腕。
経験したはずのない光景が、激しい目眩とともにジョセフィーヌの脳裏を駆け抜ける。
(……なに、今の)
ひげが、微かに震える。
⸻
(……その名前は、もう呼ばれない)
ジョセフィーヌは、突き刺さるような既視感から逃れるように、ふいと写真から視線を逸らした。
心臓の鼓動が、毛皮の奥で騒がしく波打っている。
この館に漂う「未完了」など、これまで散々見てきたはずだ。
だというのに、今、目の前にあるこの色褪せた光景は、女王としての冷徹な観察を許さない。
庭。笑い声。柔らかな腕。
そして――
(……馬鹿げているわ。私は私よ。誰の所有物でもない。この館の、唯一無二の支配者なのだから)
自分に言い聞かせるように、ジョセフィーヌは鼻先を高く掲げた。
「うわー、俺、昔こんな変な髪型だったんだな。しかもめちゃくちゃ不機嫌そうだし」
一方、佐伯はといえば、感慨に浸るどころか、自分の幼少期の姿を見てマヌケな声を上げていた。
「姉ちゃんは相変わらず綺麗だけどさ、俺のこの半ズボン、短すぎない? これじゃまるでお坊ちゃんだよ。ジョセ、見てよこれ、笑えるだろ?」
(……救いようのない木偶の坊ね)
ジョセフィーヌは、佐伯のあまりにズレた反応に、毒気を抜かれたように小さく息を吐いた。
佐伯は割れたガラスを危なっかしい手つきで片付けると、写真を適当なバインダーに挟み、また山積みになった書類の中へと紛れ込ませてしまった。
彼は気づかない。
その写真が床に落ちた瞬間、
管理人室を覆っていた「誰かに見つけてほしい」という重い空気の震えが、ふっと消えたことに。
そして、それと入れ替わるように――
ジョセフィーヌの瞳の奥に、
消えない火が灯ったことに。
⸻
その夜。
ジョセフィーヌは、月明かりが差し込む窓辺に座っていた。
静寂が支配する管理人室。
佐伯ののんきな寝息だけが響いている。
ジョセフィーヌは、先ほどの写真があった場所をじっと見つめ、それから自分の白い前足を見つめた。
(……忘れたわけではないわ)
言葉にすれば消えてしまいそうな、脆い確信。
だが次の瞬間には、
彼女はいつものように優雅な所作でひげを整え、
丁寧に毛づくろいを始めた。
女王は感情を見せない。
たとえその胸の奥で、
かつて自分を抱きしめた少女の温もりが、
館の拍動と重なり合っていたとしても。
⸻
鹿鳴館に残るのは、
形のない想い。
それはときどき、
過去さえも呼び起こす。
そしてそれを見届けるのは――
言うまでもなく、
女王である。




