第八話 鹿鳴館という生き物
この館では、ときどき不可解なことが起きる。
夜中に鳴るはずのない呼び鈴。
誰もいない廊下を横切る気配。
閉めたはずの扉が、朝にはわずかに開いている。
けれど、それらは決して幽霊の仕業ではない。
鹿鳴館に残るのは、行き場を失った感情の偏り。
言えなかった言葉。
渡せなかった想い。
途中で途切れた、誰かの「未完了」。
もっとも、この館には秩序を重んじる管理者がいる。
白く、気高く、柔軟な知性を持つ女王陛下。
名を、ジョセフィーヌ。
「ジョセ〜。おやつだよー」
「愚か者。“フィーヌ”までが私よ。そこに私の気品と、お前の無能を隔てる深い溝がある」
……と、このような女王陛下と、だいたい役に立たない管理人、佐伯。
これは鹿鳴館で起きる、感情の名残と、ささやかな物理トラブルの記録である。
⸻
「……なんだか、この館。生きているみたいですね」
エントランスのホールで、
一人の若い男が天井を仰ぎ見て呟いた。
二階に新しく入居することになった、
駆け出しの画家である。
窓から差し込む斜光が、
宙に舞う埃を黄金色に染めている。
使い込まれた床板は、
歩くたびに――
……みしっ。
まるで眠りから覚めた獣が
小さく吐息をもらすように沈み込む。
階段の手すりは、
長年の手垢で磨かれ、
生き物の骨のような
滑らかさを持っていた。
廊下の空気は場所によって、
驚くほど密度が違う。
ある場所は春の日のように温かく、
数歩先では、
冬の底のような冷気が足を撫でる。
(ふん、青二才のくせに
鼻だけは利くようね)
ジョセフィーヌは、
二階のテラスからその様子を見下ろしていた。
(人間が「老朽化」と呼ぶそれは、
私に言わせれば「新陳代謝」よ)
壁が夜中に微かに鳴くのは、
住人たちの吐き出した溜息や、
飲み込んだ言葉を、
館がゆっくりと咀嚼し、
糧にしているからだ。
(当然よ。
ここは人の想いを食べて生きている)
(それこそが、
鹿鳴館という名の生命の拍動――)
⸻
――ガタ、ガタガタッ!
何の前触れもなく、
一階の配膳室の扉が
激しく震え出した。
「うわあぁっ!? なんだ、地震か?」
管理人室から佐伯が、
寝癖だらけの頭で飛び出してくる。
「あー、またか……。
ここ最近よく暴れるんだよな」
そして彼は、
迷いなく――
間違った方向へ進む。
「こういう時は確か……」
引っ張り出されたのは、
使い古された工具箱。
(……嫌な予感しかしないわね)
「いいか、鹿鳴館。
大人しくしてくれよ」
佐伯はぶつぶつ言いながら、
扉の前に立つ。
そして――
歪んだ蝶番ではなく、
なぜか、
横の壁を見据えた。
金槌を振り上げる。
――コン、
――バチィィン!!
「あだだだっ! 手がっ!」
金槌が跳ね返り、
佐伯はその場に尻餅をついた。
だが、その衝撃が
館の「急所」を突いたらしい。
壁の奥で、
カチリ。
何かが噛み合う音。
次の瞬間――
暴れていた扉は
嘘のように静まり、
廊下の軋みも止んだ。
「お……? 直った」
佐伯はぽかんと口を開ける。
「やっぱり俺、
天才かもしれないな」
(……ただの幸運を
才能と呼ぶその図太さ)
(少しは見習いたいものだわ)
ジョセフィーヌは
静かに歩き出す。
佐伯が叩いた場所は、
建物の荷重が偏っていた支点。
彼の無造作な一撃が、
住人たちの「焦り」や「苛立ち」によって
蓄積された館の凝りを、
物理的に解きほぐしたのだ。
「結果オーライ、ってやつですよ」
佐伯は鼻歌まじりに、
扉の確認すらせず
管理人室へ戻っていった。
⸻
夕暮れ。
オレンジ色の光が、
館の奥まで差し込んでいる。
ジョセフィーヌは
窓辺で毛づくろいをしていた。
新しい住人は、
荷解きの手を止めて、
壁に触れている。
「やっぱり……
ここは生きている」
「優しい音がする」
(ええ。生きているわ)
(そして――とても空腹なのよ)
ジョセフィーヌは目を細める。
館は今日も、
住人たちが落としていった
「未完了の想い」を吸い込み、
その血肉へと変えている。
だが――
ふと、
毛づくろいの手が止まった。
(……まだ、残っている)
床の奥。
さらに深い場所から――
ドクン。
重く、冷たい拍動。
それは、
これまでのような
些細な感情ではない。
もっと古く、
もっと深い、
館そのものに染みついた
巨大な「未完了」。
ひげが、
わずかに震える。
(鹿鳴館は、
まだ何かを隠している)
それは、
女王である彼女ですら
触れたことのない深淵。
そのとき。
管理人室から、
軽快な音が響いた。
――パリッ。
乾燥パパイヤの袋。
(……緊張感というものが
欠片もないわね)
ジョセフィーヌは耳を伏せる。
(まあいいわ)
(せいぜい、
笑っていなさい。佐伯)
闇の奥から届く拍動は、
まるで――
誰かの名前を
呼んでいるようだった。
⸻
鹿鳴館に残るのは、
形のない想い。
それはときどき、
館そのものを
震わせる。
そしてそれを解くのは――
言うまでもなく、
女王である。




