第十話 呼ばれる名前
この館では、ときどき不可解なことが起きる。
夜中に鳴るはずのない呼び鈴。
誰もいない廊下を横切る気配。
閉めたはずの扉が、朝にはわずかに開いている。
けれど、それらは決して幽霊の仕業ではない。
鹿鳴館に残るのは、行き場を失った感情の偏り。
言えなかった言葉。
渡せなかった想い。
途中で途切れた、誰かの「未完了」。
もっとも、この館には秩序を重んじる管理者がいる。
白く、気高く、その瞳に館の深淵を映す女王陛下。
名を、ジョセフィーヌ。
「ジョセ〜。おやつだよー」
「愚か者。“フィーヌ”までが私よ。そこに私の気品と、お前の無能を隔てる深い溝がある」
……と、このような女王陛下と、だいたい役に立たない管理人、佐伯。
これは鹿鳴館で起きる、感情の名残と、ささやかな物理トラブルの記録である。
⸻
今夜の鹿鳴館は、いつもより饒舌だった。
真夜中。
誰もいないはずの廊下の突き当たりから、チリン……と、硬く冷たい鈴のような音が響く。
無人の階段では、目に見えない誰かが一段ずつ確かめるように床板を鳴らし、湿った壁の奥からは、聞き取れないほど微かな、掠れた吐息のような声が漏れていた。
(……騒がしいわね。館が、うなされているわ)
ジョセフィーヌは暗闇の中で瞳を細めた。
これらの現象は、住人たちの浅い後悔とは明らかに質が違う。
もっと古く、粘りつくような、土の下から這い上がってくる「未完了」の気配だ。
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「うわ、冷たっ! なんだよこれ、また古い配管かぁ……」
翌朝。
管理人室の足元まで染み出してきた水を見て、佐伯が情けない声を上げた。
浸水元は鹿鳴館の最下層。
めったに人が立ち入ることのない、地下倉庫だ。
「ジョセ、悪いけど付いてきてくれよ。あそこ、暗くて一人だと怖いんだ」
佐伯は錆びついた工具箱を抱え、おぼつかない足取りで地下への階段を下りていく。
地下に足を踏み入れた瞬間。
ジョセフィーヌは、ぴたりと足を止めた。
空気が、違う。
今までの「未完了」が、寂しさや焦りといった表面的な揺らぎだったとするならば、ここにある震えはもっと根源的だ。
ドクン。ドクン。
コンクリートの床を通じて重く、冷たい拍動が前足に伝わってくる。
まるで、館そのものの巨大な心臓が、すぐ真下で脈打っているかのような――
(……鹿鳴館。お前、何を思い出しているの?)
ジョセフィーヌのひげが、緊張でピンと張り詰める。
⸻
その時、暗がりの奥で、佐伯がいつものように盛大な音を立てた。
「おっとっと! わわっ!」
漏水で滑りやすくなった床で、佐伯がダンスを踊るようにしてバケツを蹴飛ばし、さらには積み上げられていた古い棚を、背中で豪快に押し倒したのだ。
ガッシャーン!!
凄まじい破壊音と共に、棚の天板から一つの古い木箱が、まるで狙い澄ましたかのようにジョセフィーヌの目の前へと転がり落ちた。
パカリ、と蓋が開く。
中から滑り出したのは、
泥に汚れた一本の赤いリボン。
そして――
小さな、小さな、銀色の鈴が付いた首輪だった。
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「なんだこれ……。
うさぎ用、かな?
ずいぶん古そうだけど……」
佐伯が呑気に首輪を拾い上げた、その瞬間だった。
――ズズ、……ドクン!!
鹿鳴館が、鳴いた。
それは大きな揺れではなく、建物の最下層から、太い背骨を伝ってせり上がってくるような、深く重い震動。
床、壁、巨大な柱のすべてが、一斉に「ミシ……」と軋みを上げる。
(……っ!?)
ジョセフィーヌは、四本の足を突っ張って床にしがみついた。
館が、呼んでいる。
地下倉庫の淀んだ空気が、
突然、別の匂いに塗り替わる。
陽だまりの庭。
笑い声。
赤いリボンを揺らす自分。
そして――
柔らかな指先が、首元の鈴に触れる。
『ジョセフィーヌ』
たしかに聞こえた。
それは佐伯の抜けた声でも、住人の誰かのものでもない。
この館の記憶そのものが一度だけ、その名前を呼んだのだ。
⸻
「うわ、この首輪かわいいな!
ジョセに似合うんじゃないか?
……あ、でもこれ、だいぶボロボロだな。
後で磨いてみるよ」
佐伯は館の激しい震動さえ「配管のせい」だと思い込んでいるのか、ズレた感想を口にしながら、漏れ出しているパイプのバルブを力任せに締め上げた。
ギギギ……、カチッ。
金属が噛み合う乾いた音が響くと、あんなに激しく波打っていた館の拍動が、嘘のように静まり返った。
物理的な水の流れが止まると同時に、逆流していた過去の残滓もまた、再び地下の奥底へと押し込められたのだ。
(……この館は、覚えているわ)
ジョセフィーヌは、佐伯が雑にポケットにねじ込んだ首輪を見つめ、静かに息を吐いた。
(私よりも。……ずっと、正確に)
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管理人室に戻ると、いつものように窓から夕刻の光が差し込んでいた。
「いやあ、地下は冷えるな。
ほら、ジョセ〜、今日は特別にご褒美。
お取り寄せのドライリンゴだぞ!」
(…………!)
小皿の上に乗せられた、蜜をたっぷりと含んだ半透明の果実。
女王の自尊心が「先ほどの深遠なる体験を反芻すべきだ」と警鐘を鳴らす。
だが、甘美な香りが、理性を、記憶の重みを、情け容赦なくなぎ倒していく。
(……ふん。館の深淵に触れた私の神経を鎮めるために、毒を食らわば皿までよ)
ジョセフィーヌはあごを引き、一拍。
さらに一拍おいてから――
ムシャムシャムシャ!!
ひげを震わせ、無我夢中でリンゴに噛み付いた。
女王の威厳は、糖分の前にあっけなく霧散した。
「やっぱり甘いのには勝てないか」
(……うるさいわね。これは必要な栄養補給よ!)
佐伯は鼻歌を歌いながら、また書類の山を崩している。
だが、ジョセフィーヌは気づいていた。
地下の、さらに奥。
もう誰の目も届かない、暗闇の底から。
……ちりん。
もう一度だけ。
何かが、小さく鳴った。
⸻
鹿鳴館の奥には、まだ別の「未完了」がある。
そしてそれを見届けるのは――
言うまでもなく、
女王である。




