第十一話 鹿鳴館が泣く夜
この館では、ときどき不可解なことが起きる。
夜中に鳴るはずのない呼び鈴。
誰もいない廊下を横切る気配。
閉めたはずの扉が、朝にはわずかに開いている。
けれど、それらは決して幽霊の仕業ではない。
鹿鳴館に残るのは、行き場を失った感情の偏り。
言えなかった言葉。
渡せなかった想い。
途中で途切れた、誰かの「未完了」。
もっとも、この館には秩序を重んじる管理者がいる。
白く、気高く、荒れ狂う館の意志さえも、ジロリと睨みつけてしまう女王陛下。
名を、ジョセフィーヌ。
「ジョセ〜。おやつだよー」
「愚か者。“フィーヌ”までが私よ。そこに私の気品と、お前の無能を隔てる深い溝がある」
……と、このような女王陛下と、だいたい役に立たない管理人、佐伯。
これは鹿鳴館で起きる、感情の名残と、ささやかな物理トラブルの記録である。
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今夜、鹿鳴館は泣いていた。
ただの軋みではない。
一階から三階まで、すべての扉がいっせいに苦しげな悲鳴を上げ、誰もいないはずの玄関ホールで、呼び鈴が狂ったように連打される。
床板は波打つようにあちこちで鳴り響き、壁の奥からは、無数の声が重なり合ったような低い震えが伝わってくる。
(……騒がしいどころではないわね。これは、氾濫よ)
ジョセフィーヌはラウンジのソファーの上で、四本の足を固く踏ん張った。
これまで扱ってきた住人たちの「未完了」など、
この奔流に比べれば、さざ波に等しい。
これは館そのものの最深部。
地下よりもさらに奥――
この建物の礎に刻まれた「最初の記憶」が、制御を失って溢れ出しているのだ。
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「うわあああ! やばい、やばいって!
ジョセ、離れてろ!」
一階ラウンジ。
佐伯が、頭を抱えて叫んでいた。
天井で、巨大なシャンデリアがブランコのように大きく揺れている。
原因は地震ではない。
床下の梁が不自然に歪み、建物全体の荷重バランスが、たった一点に向かって崩壊しようとしているのだ。
「あんなのが落ちたら、俺の給料何百年分!?
いや、それ以前に死んじゃう!」
佐伯は慌てて、ぐらつく梯子を引っ張り出してきた。
シャンデリアを固定しようというのか、あるいは単なるパニックか。
だが――
彼の「だいたい役に立たない」性質は、ここで最大の転機を呼び込む。
ガッシャーン!!
「あべしっ!?」
梯子を立てようとした佐伯は、案の定、浸水で腐食していた床板を思い切り踏み抜いた。
派手な音を立てて佐伯の片足が床下に吸い込まれ、
その衝撃で床板が数枚、ドミノ倒しに跳ね上がる。
そこにあったのは――
今の住人たちの誰も知らない、古い石造りの基礎。
鹿鳴館の、一番古い部分だ。
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跳ね上がった床板の隙間から、一つの古い木箱が、まるで日の光を求めて這い出してきたかのように姿を現した。
箱の中には、錆びついた鈴と、ボロボロになった赤いリボン。
そして――
湿り気を帯びた、一冊の古い日記。
ジョセフィーヌは、その日記に記された筆跡を、ひと目で理解した。
(……あの、指先の、匂い)
佐伯が震える手で日記を開く。
そこには、幼い少女の文字で、こう記されていた。
『今日、白いうさぎを拾った。弟は怖がって近づかない。
この子はとても賢い。名前は、ジョセフィーヌ。』
その文字が読まれた瞬間。
――ギギギ、……ガアアアアアン!!
鹿鳴館が、絶叫した。
床板が跳ね上がり、壁の漆喰がパラパラと剥がれ落ちる。
無数の呼び鈴が重なり合い、まるで館全体が、一人の少女の名前を叫んでいるかのようだった。
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「わわわっ! ジョセ、危ない!
天井が落ちてくるぞ!」
佐伯が日記を抱えたまま、床下に足を取られてもがいている。
シャンデリアは今にも固定具を引きちぎらんばかりに揺れ、館の「未完了」が、形を成して溢れ出そうとしていた。
ジョセフィーヌは、その騒乱の真っ只中で、静かに一歩を踏み出した。
(……仕方ないわね。このままでは、この無能な管理人が下敷きになってしまうわ)
彼女は理解していた。
これは、館が「思い出そう」として、けれど記憶のピースが繋がらずに悶えている叫びなのだと。
ジョセフィーヌは、佐伯が床下に落としたあの「小さな鈴の付いた首輪」を、前足で器用に手繰り寄せた。
泥に汚れ、錆びついた銀の鈴。
彼女はそれを、震動する床のちょうど中央――
館の拍動が最も激しい場所へと、鼻先で静かに押しやった。
そして。
女王は、一度だけ、その鈴を前足で叩いた。
――チリン。
澄んだ、けれど力強い音が、館の咆哮を切り裂いた。
その瞬間。
あれほど激しく揺れていたシャンデリアが、嘘のように動きを止めた。
鳴り止まなかった呼び鈴は静まり、波打っていた床板は、まるで魔法が解けたかのように、本来の水平へと戻っていく。
未完了だった記憶の回路が、ジョセフィーヌという「今」と、鈴の音という「過去」によって、一つの円を描いて繋がったのだ。
「……え? 止まった……?」
佐伯が、呆然と顔を上げた。
館を覆っていた重苦しい湿り気が、霧が晴れるように消えていく。
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嵐の去ったラウンジで、佐伯は日記の最後のページをめくった。
そこには、一行だけ、他のページよりも力強い筆致でこう記されていた。
『もしこの子がいなくなっても、この館は覚えている。
白いうさぎの女王様が、ここにいたことを。』
佐伯は、その文字をじっと見つめ、それから足元に座るジョセフィーヌを見た。
「……ジョセ。お前、まさか……」
少しだけ不思議そうに、けれど、核心に触れる一歩手前で、彼の思考はいつものように逸れていく。
「……まさか、お前が鈴を鳴らしたのか?
偶然だよね。あはは、びっくりしたなぁ」
(……本当に、どこまでも救いようのない男ね)
ジョセフィーヌは、あえて彼から視線を外し、窓の外の夜空を見上げた。
耳を澄ませば、もう館の悲鳴は聞こえない。
ただ、心地よい夜風が古いカーテンを揺らしているだけだ。
だが――
日記を閉じる佐伯の手が、微かに震えていた。
彼はまだ気づかないふりをしている。
目の前にいる「わがままな女王陛下」が、かつて自分が失った、最も大切な記憶の断片そのものであることに。
⸻
鹿鳴館に残るのは、形のない想い。
それはときどき、館そのものを揺らす。
そしてそれを見届けるのは――
言うまでもなく、
女王である。




