最終話 女王様のいる館
この館では、ときどき不可解なことが起きる。
夜中に鳴るはずのない呼び鈴。
誰もいない廊下を横切る気配。
閉めたはずの扉が、朝にはわずかに開いている。
けれど、それらは決して幽霊の仕業ではない。
鹿鳴館に残るのは、行き場を失った感情の偏り。
言えなかった言葉。
渡せなかった想い。
途中で途切れた、誰かの「未完了」。
もっとも、この館には秩序を重んじる管理者がいる。
白く、気高く、この館の記憶そのものとして君臨する女王陛下。
名を、ジョセフィーヌ。
「ジョセ〜。おやつだよー」
「愚か者。“フィーヌ”までが私よ。そこに私の気品と、お前の無能を隔てる深い溝がある」
……と、このような女王陛下と、だいたい役に立たない管理人、佐伯。
これは鹿鳴館で起きる、感情の名残と、ささやかな物理トラブルの記録である。
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昨夜の喧騒が嘘のように、
今夜の廊下は静まり返っていた。
呼び鈴は鳴らず、
扉は固く閉ざされ、
床板が不意に鳴ることもない。
館が、深く、穏やかに眠っている。
まるで、
長く止まっていた時計の針が、
ようやく正しい時を刻み始めたかのように。
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翌朝、
鹿鳴館は柔らかな光に包まれていた。
ラウンジでは松下さんが穏やかな顔で新聞を広げ、
若い画家は窓辺で、
朝日を浴びるカーテンの陰影を熱心にスケッチしている。
漂う空気はどこまでも軽く、
住人たちの顔からは、
説明のつかない「焦り」が消えていた。
「いやあ、古い建物ってのは、本当に手がかかるよな」
佐伯は腰をさすりながら、
昨夜剥がれた漆喰の破片を掃除していた。
その手には、あの一冊の日記があった。
姉の遺した、館の記憶。
佐伯はそれを捨てることも、仕舞うこともしなかった。
彼はラウンジの最も立派な本棚――
歴代の住人たちが残していった古い蔵書の隣に、
その日記をそっと置いた。
「……なんか、ここに置くのが一番自然な気がするんだ」
ジョセフィーヌは、
その様子をソファーの上から静かに見守っていた。
(……ふん、たまにはまともな判断をするじゃない)
女王は、何も言わずにひげを整える。
日記はこの館の一部であり、
館こそがその記憶の正当な守護者なのだから。
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その時、
掃除を終えた佐伯が、
ふとクローゼットの扉を閉めようとして
「あ、あれ?」と声を上げた。
扉が、あと数センチのところでどうしても閉まらない。
佐伯が力任せに押し込もうとしたその時、
手が滑って持っていたハタキをクローゼットの隙間に落としてしまった。
「うわ、もう! これじゃ余計に……あ」
ハタキを拾おうと無理な体勢で手を突っ込んだ拍子に、
クローゼットの奥で、
何かが「カチリ」と噛み合う音がした。
すると、
あんなに頑固だった扉が、
吸い込まれるように滑らかに閉まった。
「……直った。やっぱり、俺って整備の才能あるかもな」
(……ただの不器用が奇跡を起こしただけでしょうに。相変わらず、めでたい男ね)
いつもの、やり取り。
いつもの、鹿鳴館の風景。
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管理人室に戻ると、
佐伯が小皿を差し出してきた。
「はいはい、ジョセフィーヌ様。今シーズン最後のご褒美。
とびきりのドライマンゴーだぞ」
(…………っ!)
黄金色に輝く、
濃厚な果実の香り。
女王の理性が
「最終話だからといって、安易に尻尾を振ってはならぬ」と厳命を下すが、
南国の甘い誘惑が、
気高き精神をあっさりと凌駕する。
(……これは、館の平穏を祝した儀式のようなものよ。
断るのは無作法というものね)
ジョセフィーヌはゆっくりと、
威厳を保ちながら皿へ近づく。
だが、一口噛んだ瞬間――
ムシャムシャムシャ!!
ひげを激しく動かし、
なりふり構わずマンゴーを咀嚼する姿があった。
女王は、糖分の前に全面降伏した。
「はは、やっぱり甘いのには勝てないか」
佐伯が、咀嚼に夢中のジョセフィーヌを優しく見つめ、
何気なく言った。
「ジョセ、お前さ……」
少しだけ、間。
「……うちの館の、女王様だな」
それは軽口のようでいて、
どこか確信に満ちた、温かい声だった。
(…………!)
ジョセフィーヌは一瞬、咀嚼を止めた。
鼻先をわずかに動かし、
そっけなく鼻を鳴らす。
(……当然でしょう。今更何を言っているの)
けれど――
その心の中には、
マンゴーよりも甘い余韻が広がっていた。
(……覚えていたのね。あの指先の温もりを。)
⸻
夜。
静まり返った鹿鳴館を、
ジョセフィーヌが悠々と歩く。
館は静かに呼吸している。
未完了の想いたちは、
女王の足音を聞いて、
安らかに闇へと溶けていく。
その時。
どこからともなく、
微かな音が響いた。
……チリン。
それは、誰にも届かないほど小さな鈴の音。
⸻
鹿鳴館に残るのは、
形のない想い。
それはときどき、
優しく、誰かを呼ぶ。
そしてそれを見届けるのは――
言うまでもなく、
女王である。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
鹿鳴館で起きる小さな違和感と、行き場を失った“未完了の想い”を、ジョセフィーヌと佐伯とともに見届けてきました。
大きな出来事はなくとも、何気ない一言や仕草の中に、少しでも余韻を感じていただけたなら嬉しいです。
物語は一区切りとなりますが、どこかでまた、こうした小さな「違和感」を描けたらと思います。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




