第五話
大学というものは、高校のように生徒一人ひとりを楽しませるようにはできていない。
高校生の頃までは、体育祭や文化祭、課外学習や修学旅行など、クラスメイトと仲良くなりつつ楽しむことのできる、受動的な人間に配慮されたプログラムが用意されていた。それらは言わば充実した学生生活の種。種を育てるのは自分次第だが、全員にその種は配布されていた。
だが大学生活は決してそうではない。楽しむには自分から動く必要がある。
サークルの新歓に自分から参加したり、留学プログラムに自分から申し込んだり、アルバイトに自分から応募したり。能動的な人間はそれらを軽々こなすが、僕のように適当に生きてきた人間にとって大学生活はなかなか合わない。
僕が総社大学で半年過ごして得た結論はずばり向いてない、だ。
2時間近くかけて兵庫からキャンパスのある京都まで向かい、授業を受けて、また2時間近くかけて京都から自宅のある兵庫まで帰る生活。
サークルの類は帰る時間が遅くなって面倒だから全部辞めた。留学はお金がない。アルバイト先の個別指導塾も別にやりがいはない。新しく何かを始めるのも億劫で動き出せない。
このまま適当に過ごして卒業していくんだろうな、という思いがある。
「あの、隣いいですか?」
「え? ああ……はい」
韓国語履修者を集めた教室は、いつの間にかひどく人が集まっていた。
後期の初めの授業だからみんなやる気を出して登校しているのだろう。
僕に話しかけた女性は良かった、と言って荷物を置き隣に腰かけた。
彼女は茶色のブラウスに淡いブルーグレーのズボンを履いていた。そんなシンプルな格好でも十分なほど彼女は綺麗だった。
彼女は律義にもこちらに向かって頭を下げた。その拍子に背中の真ん中あたりまで伸びた茶みがかった髪がふわりと揺れた。
「よろしくお願いします」
綺麗な声だ。鈴が鳴るような感じ。
ボーっと見ていると、カラメル色の瞳と目が合ってなんとなく目をそらす。
「よろしくお願いします」と何とか言葉を紡いだ。大学生活もまあそんなに悪くないなと思った。
そして僕はこの恋愛に失敗して更に拗ら捻くれるようになる————。
***
「あははー————」
髪をハイトーンに染めた女子たちが、明るくきゃぴきゃぴとした声を出している。話題は最近付き合い始めた彼氏についてらしい。
いわゆるどこまでいったのかというくだらない会話に花を咲かせている。その恋愛脳でお花畑な脳内に僕は内心悪態をつく。
人の恋愛の進捗を逐一確認して何が楽しいんだ、と僕は思っている。Aだから何。BCだから何。自分に何の利益が生まれるかといえば何も生まれない。他人を鏡にして自分もその恋愛を追体験しているのであれば今すぐそれはやめた方がいいね。
何故ならふとした瞬間に(でも自分は……)となるから。予期しない瞬間にいきなりむなしい感情。自分という人間の底の部分を見させられる。
ソシャゲをしていて画面が暗転した瞬間に自分の顔が映ってちょっと嫌になるあの気持ちをなぜ自分から味わいに行くのか理解できない。
とか言いながら、僕も僕でラブコメラノベや漫画を買って毎回ちょっと嫌な気持ちになっているのだから人のことは言えないか。
言語の授業は少人数形式で行うから、部屋の広さは高校の教室程度と少し手狭。しかも彼女たちはバカでかい声で会話しているから嫌でも会話の内容は耳に入ってくる。金切り声を出す金髪ハイトーン女は彼氏とキス寸前まで行ったらしい。
これは来週の韓国語で会う頃にはもうすでにことを済ませているだろうな。大学生の貞操感なんてないに等しいんだから当然の理だ。
話の中心となっている金髪女子を囃し立てる数人の集団。その中で、口を手に当てて小さく控えめに笑っている女子と一瞬目が合う。
カラメル色の瞳はすぐにどこか別の方に消えた。
櫛木千夏。僕が少し前まで仲の良かった女。
櫛木は、1年生の後期に取った韓国語の授業で席が隣だった。
前期も同じだったが特に話す機会はなく、後期になってからペアワークや発音確認などを行ううちに徐々にお互い慣れてきて関わる機会が増えていき、二人でおしゃれなカフェや観光名所などに行く機会が増えていった。
そしてひと月前のある日、彼氏がいるから会う機会は控えたいというメールをいきなり受け取ったわけだ。どてーっである。
僕は金や時間は有限であると思っている人間で、その中でも人にかける時間と金は選びたいと思っている人間である。色々回りくどい例え方をしたわけだが、一言で言い表すなら金返せ。
お前と付き合うために投じた時間は許してやるから金返せ。
その金でバランタインの17年とか21年とかのたっけえ酒を買うんだよ。金返せや。イキって奢るんじゃなかった。
「では、この長文訳を……櫛木さん」
「————————」
「正解ですっ」
少し訛りのある日本語を操る韓国人先生の出題に対し櫛木が滑らかな発音で回答する。
前期の授業登録期間中はまだ僕と櫛木の関係性が続いていたから、櫛木と韓国語はもちろんそのほかの授業を被せているせいでかなり気まずい。
国沢も同じく取っている法律系の科目は国沢と受けるから櫛木の存在は特に気にならないが、こういう自分一人だけの時は嫌でも櫛木の存在が気になってしまう。
櫛木は一仕事終えたみたいにふうと息を吐いた。その姿を見て、俺との関係を終わらせた後もそんな風にやっと終わったかみたいな態度を取っていたのかな、などと被害妄想を膨らませた。
***
授業終わり。教室内に留まっていても仕方がないので荷物をまとめてそそくさ帰ろうとしていると「一谷くぅーん」という猫撫で声でこちらを妙にイラつかせるテンションで呼びとめられた。
振り返ると、授業前に恋愛与太話で騒いでいた金髪ハイトーンボス女がにたにた嫌な笑みを張り付けている。口角が嫌な感じにねじ上がっているし、目は気持ち悪いくらいに細くなっている。
取り巻きの女たちも勢ぞろいで全員揃いも揃ってこちらをムカつかせる顔だ。
その女たちの後ろに櫛木はいた。
「……何?」
「いやぁ、千夏が何か話したいこと? あるらしくてさあ。ねっ?」
「あっ、いや、うん……」
櫛木がもじもじと、意味もなく手と手をすり合わせたり体を少し揺らしたりして前に出てくる。何の用だ、と思ったが紡がれた言葉は僕の予想の範疇から外れていた。
「この後時間あるなら話さない?」
断っても良かったが、僕が了承しなければこの話は終わらない予感がしたので頷いておいた。
僕の言語学を学ぶモチベーションはもう前期4月にして低下しつつあった。




