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渋柿探偵事務所  作者:


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第3章 すりガラスの向こう側

 吉祥寺を離れた高峰修二が辿り着いたのは、隅田川から吹き込む風が、どこか潮の匂いを運んでくる東東京の下町だった。

 築数十年の木造家屋がひしめき、軒先には植木鉢が並び、夕方になれば惣菜を揚げる匂いが路地に満ちる。機能性と洗練を極めた警視庁とも、誰もが通り過ぎていく吉祥寺の駅とも違う、人間の生活の垢がそのまま残ったような街。

 四十歳になった修二は、その路地裏にある錆びついた鉄製階段を上った二階に、小さな一室を借りていた。

 大家の老人が「もう何年も空き家だから好きに使え」と格安で貸してくれた部屋の入り口には、古びたすりガラスのドアが一枚。そこに、黒いペンキで「高峰探偵事務所」とだけ書き入れた。

 しかし、事務所を開いたからといって、すぐに依頼が舞い込むわけではない。

 修二は相変わらず、要領が悪かった。近所の人間から「何をしている男だ」と怪しまれれば、愛想笑い一つできずに「探偵です」と無愛想に答えるだけ。当然、怪しまれて終わりだった。

 部屋には、小さなデスクとパイプ椅子が二脚。そして、ガタつくガスコンロの上に置かれた、年季の入ったコーヒーメーカー。それだけが、今の彼の全財産だった。

 十二月の、冷たい風がすりガラスの隙間から吹き込む日の夕方だった。

 修二がいつものように、豆から淹れたブラックコーヒーをすすっていると、トントン、と遠慮がちな音がドアを叩いた。すりガラスの向こうに、小さな人影が縮こまるように立っている。

「どうぞ」

 修二が声をかけると、開いたドアから入ってきたのは、まだ中学生とおぼしき少年だった。

 薄手のジャンパーを着た身体は寒さで小刻みに震えており、大きな瞳には、世界中を敵に回したような強い警戒心と、それ以上の怯えが宿っていた。

「……ここ、探偵事務所、だよね」

 少年は、掠れた声で言った。

「ああ。高峰探偵事務所だ」

「おじさん、迷子とか、探してくれる?」

「迷子、か。ペットか? それとも友達か」

「ううん、違う」

 少年はぎゅっと拳を握りしめ、言った。

「お母さん。……お母さんが、一週間前から家に帰ってこないんだ」

 少年の名前はハルト。母親と二人暮らしだったが、ある日「すぐ戻る」と言い残したきり、連絡が途絶えたという。

 警察には行ったのか、と修二が尋ねると、ハルトは激しく首を振った。

「行けないよ。警察に行ったら、僕、施設に入れられちゃうかもしれない。お母さんが育児を放棄したって言われて……。でも、違うんだ! お母さんは僕を置いていくような人じゃない。絶対に、何かに巻き込まれたんだ!」

 ハルトの衣服は少し汚れており、ここ数日、まともな食事をしていないことは明らかだった。

 刑事時代の修二なら、少年の安全を最優先し、即座に児童相談所や警察の生活安全課に連絡していただろう。それが「合理的」であり、大人のルールだからだ。

 だが、修二は受話器に伸ばしかけた手を止めた。

 ハルトの目。その奥にあるのは、ただの母親への恋しさではない。自分が「大人の仕組み」によって、母親から引き離されることへの、底知れない恐怖。

 かつて自分が、警察という巨大な仕組みに押し潰され、一人で雨の中に放り出されたあの夜の孤独が、ハルトの姿に重なった。

「……分かった」

 修二は立ち上がり、ガスコンロの火をつけた。

「お母さんを探そう。だが、その前に一つ条件がある」

「え……? お金? 僕、これしか持ってないけど……」

 ハルトがポケットから取り出したのは、しわくちゃの千円札二枚と、いくつかの小銭だった。

「いや、報酬はそれでいい」

 修二はハルトの前に、湯気の立つマグカップを置いた。中身はコーヒーではない。近所の商店街で分けてもらった、粉末のインスタントココアだ。

「それを全部飲め。腹が減っていては、真実も見えなくなる」

 ハルトは目を見開き、やがて溢れそうになる涙を堪えるように、温かいココアを一気に啜り込んだ。

 修二の捜査は、泥臭いものだった。

 刑事時代のような警察手帳はない。データベースにアクセスすることもできない。頼れるのは、己の足と、吉祥寺時代に培った「人の心の隙間を覗く」観察眼だけだった。

 ハルトの母親が働いていたという、スナックや深夜の清掃現場を泥臭く聞き回る。

 地元の人間たちは、最初は無愛想な修二を警戒したが、彼がハルトのために必死に頭を下げ、夜を徹して歩き回る姿を見て、次第に口を開き始めた。

「ハルトのお母さんかい? 良い人だよ。でも、最近、変な男につきまとわれてたね……。借金の取り立てみたいな、ガラの悪い男だよ」

 その言葉から、修二は一つの線を手繰り寄せた。

 母親は、かつての夫が残した多額の借金を背負わされ、その返済のために闇金業者に追われていたのだ。そして一週間前、ついにその業者に「実力行使」として、どこかへ連れ去られた可能性が浮上した。

 修二は執念の追跡で、下町の外れにある、半ば廃墟と化した倉庫に闇金業者のアジトがあることを突き止めた。

 かつての刑事なら、ここで応援を要請し、一網打尽にするところだ。しかし、今の修二は単身、その場所に踏み込んだ。

 倉庫の奥、冷たい床に座り込まされ、泣き腫らした顔をしていたのがハルトの母親だった。周囲を三人の男たちが取り囲んでいる。

「何だ、てめえは」

 男の一人が、懐からナイフをチラつかせながら修二を威嚇した。

「高峰探偵事務所だ」

 修二は感情を表に出さず、ただ静かに男たちを見据えた。

「その女性を連れ戻しに来た。彼女には、家で帰りを待っている息子がいる」

「探偵ィ? ふざけるな、この女は金を返してねえんだよ。身内が肩代わりするか、どっかの風俗に沈むまで返すわけにいかねえな」

 男たちが一斉に掴みかかってくる。

 修二は元刑事だ。制圧術の心得はある。だが、四十歳になった身体は全盛期ほど動かない。男たちの拳を浴び、脇腹に鋭い痛みが走る。床に転がり、口の中から鉄の味が広がった。

「おいおい、大したことねえな元デカさんよぉ。警察にでも駆け込めば良かったのによ。要領の悪い奴だ」

 男たちが嘲笑う。

 その言葉に、修二の目が怪しく光った。

 転んでも、間違えても、諦めない。彼を突き動かしているのは、もはや大義名分としての「正義」ではなかった。目の前で泣いている母親と、あの事務所でココアを飲んだ少年の「痛み」が、彼の身体を無理やり立ち上がらせた。

「……確かに、俺は要領が悪い」

 修二は口の端の血を拭い、低い声で笑った。

「だがな、お前たちのそのやり方は、合理的じゃない。……すでに、この場所の音声と位置情報は、信頼できる『外部の人間』にリアルタイムで送信されている」

 修二がポケットから取り出したスマホの画面には、通話状態の画面が表示されていた。相手は、吉祥寺時代に知り合った、警察の枠組みに縛られない「裏のネットワーク」の人間たちだった。さらに修二は、刑事時代の数少ない人脈である倉田にも、事前にこの場所のメモを残していた。

「あと三分で、ここには本物の警察が来る。不法監禁、恐喝、傷害。お前たちの組織ごと、芋づる式に挙がるぞ。……今すぐ彼女を解放して、ここを去るか。それとも俺と一緒に刑務所へ行くか。どちらが合理的か、選べ」

 修二の、寸分のブレもない冷徹な眼光に、男たちは気圧された。

 パトカーのサイレンの音が、遠くから微かに聞こえ始める。男たちは忌々しげにチッと舌打ちをすると、ナイフを収め、裏口から蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。

 翌日。

 高峰探偵事務所のすりガラスのドアの向こうで、ハルトと母親は、何度も、何度も修二に頭を下げていた。

「本当に、ありがとうございました……。あの、お代は、これだけで本当に良いんでしょうか」

 母親が、ハルトの出した二千円ほどの小銭の袋を見て、申し訳なさそうに言った。

「契約は成立しています。これ以上は受け取らない」

 修二はブラックコーヒーを口に含み、無愛想に言った。

「それと、借金に関しては、知り合いの信頼できる弁護士を紹介する。法的に整理すれば、もうあの男たちが現れることはない」

 ハルトが修二のズボンの裾を、ぎゅっと掴んだ。

「おじさん。……僕、大きくなったら、おじさんみたいな探偵になる」

「やめておけ」修二は少年の頭にぽんと手を置いた。「俺みたいになるな。もっと要領よく生きろ」

 親子が帰った後、静まり返った事務所で、修二は一人座っていた。

 体中が痛む。大した報酬にもならず、ただ怪我をしただけだ。

 だが、すりガラスの向こうへ消えていった親子の背中を見送った時、彼の心には、長年消えていた小さな灯火が、確かに灯っていた。

 ここは、傷ついた人間が逃げ込んでくる場所。

 誰も見向きもしない小さな事件の中に、ほんのわずかな「真実の光」を見つける場所だ。

 その時、階下の大家の老人が、トントンとドアを叩いて入ってきた。手には、真っ赤に熟した、しかしどこか不格好な果実が握られている。

「おい、高峰。田舎から送られてきたんだがよ、これ食うか? 渋柿だよ。今はまだ噛めば渋くて堪ったもんじゃねえが、軒先に吊るして、じっくり時間を置けばよ……驚くほど甘くなるんだ」

 修二は、その不格好な果実を見つめ、それから自分の淹れた苦いコーヒーを見た。

「渋柿、ですか……」

 男の顔に、数年ぶりの微かな笑みが浮かぶ。

 

 噛めば渋いが、時間を経てば甘くなる。

 この下町の路地裏で、不器用な元刑事の、本当の物語がここから始まろうとしていた――。


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