第2章 吉祥寺のプラットフォーム
東京の下町へと行き着く前、高峰修二は、武蔵野の緑を孕んだ風が吹き抜ける街にいた。
吉祥寺。
若者や家族連れで賑わうその街で、三十八歳になった修二は、定まった居場所を持たない「流しの探偵」として日々を過ごしていた。
警察を辞めてから数年、彼の心はまだ灰色の霧の中にあった。組織への失望、信じた正義の崩壊。人間という生き物の身勝手さに疲れ果てた修二は、誰とも深く関わろうとはしなかった。
だが、生きていくためには日銭が必要だった。
修二は事務所を構えなかった。代わりに、吉祥寺駅とその周辺を巨大な“待合室”のように使っていた。
北口の、人混みが波のように押し寄せるハモニカ横丁の入り口。南口の、井の頭公園へと続く緩やかな坂道。あるいは、駅構内の喧騒を見下ろせる喫茶店の窓際。
百円のブラックコーヒーを片手に、彼はただ、行き交う人々の群れを眺めていた。
刑事時代、彼の鋭い目は「犯人の嘘」を暴くためにあった。
しかし今、その目は少し違うものを捉え始めていた。雑踏の中に埋もれる、ほんの微かな「世界の歪み」――誰かが心の中で上げている、音の出ない悲鳴のようなものだ。
十一月の、風が冷たくなり始めた金曜日の夕方だった。
修二は吉祥寺駅の南北自由通路にあるベンチに腰掛け、いつものように苦いコーヒーを口に含んでいた。
彼の目が、自動改札機の前に立つ一人の初老の男性に留まる。
上質な、しかしどこか草臥れたトレンチコートを着た男だ。男は改札から出てくる若い女性たちの顔を、すがるような目で一人一人確認しては、落胆の表情を浮かべて肩を落とす。それを何度も繰り返していた。
通り過ぎる人々は、誰もその男に目を向けない。ただの不審者か、待ち合わせの人違いだと思っているのだろう。
だが、修二の目は誤魔化せなかった。男の視線は「誰か」を探しているのではない。「特定の誰かが、ここに現れること」を確信し、そして恐れている。
「……探偵さん、ですか」
突然、声をかけられた。
見上げると、その初老の男が修二の目の前に立っていた。男の目は赤く充血し、指先が微かに震えている。修二が自分を観察していたことに気づいたらしい。
「ただの物好きですよ」
修二は短く答え、コーヒーをベンチに置いた。
「嘘を言わないでくれ。あんたの目は……普通の人の目じゃない。昔、仕事で嫌というほど見た、優秀な人間の目だ」
男は力なく笑うと、修二の隣に腰を下ろした。
「私は野上という。……情けない話だが、娘を探しているんだ」
野上の話は、警察がわざわざ捜査本部を立てるような派手な事件ではなかった。
一年前、大学卒業と同時に就職した娘の奈緒が、ある日突然、書き置き一つ残さずに失踪した。警察に捜索願いを出したが、成人女性の自発的失踪として、まともには動いてくれなかったという。
「だがね、先月からなんだ」
野上は自由通路を行き交う人混みに目を向けた。
「毎週金曜日の、ちょうどこの時間――夕方の五時半になると、この改札の向こう側に、奈緒にそっくりの女の子が現れるんだ。でも、私が声をかけようと近づくと、人混みに紛れてすぐに消えてしまう。スマホを向けて写真を撮ろうとしても、いつも足早に逃げられてしまうんだ」
「本当に、お嬢さんなんですか」
「わからない。顔の輪郭も、歩き方も奈緒そのものだ。だが、あの子は私を見ても、一言も発しようとしない。まるで……私を拒絶しているかのように。私はあの子に酷いことをした覚えはない。なぜ、こんな場所で、毎週私に姿だけを見せるんだ……」
野上は顔を覆った。
警察なら「見間違いか、悪質ないたずらでしょう」と一蹴する案件だった。事件性はない。実害もない。
だが、修二は野上の横顔に刻まれた、深い絶望と、隠しきれない「怯え」を見逃さなかった。
(この父親は、何かを隠している)
刑事時代の直感が、修二の脳裏で警報を鳴らす。
しかし、今の修二はそれを「暴く」ための引き金は引かなかった。ただ、ブラックコーヒーの苦味を噛み締めながら、静かに言った。
「分かりました。調べてみましょう。……ただし、私のやり方で」
翌週の金曜日。
修二は吉祥寺駅の改札が見渡せる、二階のカフェにいた。
五時三十分。自由通路のベンチには、今日も野上がじっと改札を見つめて立っている。
そして、予定通りの時刻。改札から、ベージュのコートを着た若い女性が現れた。
野上がハッとして立ち上がる。女性は野上の姿を確認すると、あからさまに視線を逸らし、北口の雑踏へと歩き出した。野上が慌ててその後を追う。
修二は席を立ち、二人を追った。
女性の足取りは速い。ハモニカ横丁の狭い路地をすり抜け、ダイヤ街のアーケードへ。野上は高齢ゆえに、次第に引き離されていく。
やがて、女性は路地裏の雑居ビルの陰に入り込んだ。野上は完全に見失い、その場にへたり込んでいる。
だが、修二は女性の先回りをして、その雑居ビルの非常階段の影で待っていた。
「……足が速いな、奈緒さん。いや、奈緒さんのご友人、と言うべきか」
影から現れた修二に、女性は息を呑んだ。
近くで見ると、彼女の顔は確かに野上が持っていた写真の「奈緒」に似ていたが、メイクの仕方も雰囲気も決定的に違っていた。
「な、誰ですか、あなた」
「あの父親に頼まれた探偵だよ」
修二は両手を上げて、敵意がないことを示した。
「彼は君を娘だと思い込んでいる。だが、君は奈緒さんじゃない。君が毎週金曜日にあの改札に現れるのは、彼をからかうためじゃない。……彼を『釘付け』にするためだ」
女性の身体が硬直した。
「君の目的は、あの父親を毎週金曜日の夕方、必ず吉祥寺駅に連れ出すことだ。彼がそこにいる間、別の場所で『何か』が起きている。……例えば、本当の奈緒さんが、父親のいない自宅から、自分の荷物を少しずつ運び出すとか」
女性は唇を噛み締め、やがて諦めたように俯いた。
「……やっぱり、探偵さんには敵わないね。そうだよ。私は奈緒の大学の友達」
彼女の口から語られた真実は、警察の書類には決して残らない、家族の泥沼だった。
野上は外面の良い厳格な父親だったが、家庭内では奈緒に対して異常なまでの束縛と、精神的な虐待を繰り返していた。奈緒の就職先も、交友関係も、すべて父親が支配しようとした。
耐えかねた奈緒は家を出たが、父親はストーカーのように彼女の行方を追おうとした。だから、彼女たちは一計を案じたのだ。「毎週金曜日に吉祥寺に現れる」という偽の希望(餌)を父親に与え、その隙に、奈緒は父親の追跡から完全に逃れるための準備を進めていたのだという。今日が、その最後の荷物運びの日だった。
「お願い、探偵さん」女性は涙ぐんだ。「あのおじさんに、奈緒の居場所を教えないで。あの子、今やっと、自分の人生を生き始めたの」
修二は黙って聞いていた。
刑事時代の彼なら、どうしていただろう。「どんな理由があれ、偽装工作をして親を欺くのは合理的ではない」と、野上にすべてを話していただろうか。
しかし、修二の脳裏に、かつての課長の言葉が蘇る。
『守られるべき人間と、守られない人間がいる』
(ああ、そうだ。あの時、俺は守られない側の人間だった)
そして今、目の前にいる、怯えながらも必死に生きようとしている娘もまた、法の枠組みでは「守られない」側にいる。
「……安心しろ」
修二は低く言った。
「俺の依頼人は、あの父親だ。俺の仕事は『娘の行方を調べること』。だが、調査の結果、『何も分からなかった』と報告する権利は、俺にある」
女性は目を見開いた。修二は彼女に背を向け、歩き出した。
日が落ち、完全に暗くなった井の頭公園。
池のほとりのベンチで、修二は野上と向かい合っていた。
「……見失った、だと?」
野上は信じられないという声を上げた。
「あんたほどの男が、あの雑踏で娘を見失ったというのか!」
「ええ。完全に巻かれました。あれはプロの動きだ。おそらく、お嬢さんは君から逃げるために、そういう手引きをする人間と行動を共にしている」
修二は嘘をついた。刑事時代なら、絶対に口にしなかった利敵行為としての嘘だ。
「そんな馬鹿な! 私はあの子を愛しているんだ! あの子のためを思って、すべてを教えてやったのに!」
野上は激昂し、ベンチを叩いた。その顔に浮かんでいるのは、純粋な愛情ではなく、自らの所有物を失ったことへの「怒り」と、支配からの脱却を許してしまった「寂しさ」だった。
修二はその怒りと寂しさを、ただ静かに見つめていた。
「野上さん。もう、お嬢さんを探すのはおやめなさい。彼女はもう、あなたの『待合室』には戻らない」
「な、何だと……!」
「人が人を縛る糸は、強く引きすぎればいつか切れる。切れた糸は、もう元には戻らない。……これ以上は、お互いに傷つけるだけだ」
修二の言葉には、かつて自分が組織の糸を断ち切って飛び出した時の、痛烈な実感が籠もっていた。
野上は修二の目を見て、これ以上の反論が通じないことを悟ったのか、がっくりと項垂れた。そして、約束の調査費用(それは刑事の月給に比べれば、あまりにも微々たるものだった)をベンチに置き、よろよろと立ち去っていった。
一人残されたベンチで、修二は夜の池を眺めていた。
缶コーヒーは、もうすっかり冷めていた。口に含むと、冷やされた苦味が喉を通り抜ける。
依頼人を騙し、真実を伏せた。探偵としては失格かもしれない。
だが、修二の心は、不思議と刑事時代のような刺さるような痛みを感じていなかった。
(俺は、真実を暴くために生きているんじゃない)
誰も見向きもしない小さな、歪んだ関係性の中に、ほんのわずかな「光」を守る。それが、たとえ不器用で、要領の悪い生き方だとしても。
「……いつまでも、流されてるわけにはいかないな」
吉祥寺の駅は、人が行き交うだけの場所だ。誰もが通り過ぎ、誰も留まらない。
だが、世の中には、傷つき、逃げ込み、じっと留まるための「場所」を必要としている人間がきっといる。
修二は立ち上がり、コートの襟を立てた。
吉祥寺の、お洒落で、どこか冷たい雑踏を離れ、もっと泥臭く、もっと人間の体温が近い街へ行こう。
三十八歳の高峰修二は、自分の本拠地となる「灯り」を灯すため、ゆっくりと歩き出した。下町の、あの古びたすりガラスのドアの向こう側へと、物語は繋がっていく――。




