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渋柿探偵事務所  作者:


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第1章 甘い果実

 ネオンの光も届かない、新宿の裏路地。アスファルトに染み込んだ雨水が、パトカーの赤色灯を鈍く跳ね返している。

 張り巡らされた黄色い規制線の向こう側で、三十二歳の高峰修二は、ぬかるんだ地面に膝をついていた。

「……高峰、またお前の悪い癖が出ているぞ」

 背後からかけられた声は、年の離れた相棒のベテラン刑事、倉田のものだった。

 修二は答えない。ただ、ビニールシートに覆われた遺体の、妙に不自然な衣服の乱れを凝視していた。

「被害者は身元不明、懐の財布は空だ。状況から見て、ただの強盗致死。鑑識もそう言っている。さっさと引き揚げるぞ」

「倉田さん」

 修二は立ち上がり、コートについた泥を払うこともせず、ポケットから缶コーヒーを取り出した。もちろん、ブラックだ。一口すすると、尖った苦味が容赦なく舌を刺激する。

「被害者の靴底を見てください。すり減り方にひどい偏りがある。おそらく、深刻な足の障害か、あるいは慢性的な疾患を抱えていた。そんな男が、この大雨の夜に、わざわざ傘も差さずにこんな見通しの悪い路地裏へ足を運んだ。強盗に襲われるためですか?」

「……偶然迷い込んだんだろう」

「いいえ。彼のジャケットの内ポケット、糸が引きちぎられています。財布を奪うだけなら、わざわざ内ポケットの生地ごと引きちぎる必要はない。犯人が探していたのは、財布じゃない。『何か別のもの』です」

 修二の目は、暗闇の中でも恐ろしいほど冷たく、鋭かった。

 一度見た光景は忘れない。死者の身体が残した微かな違和感、現場の空気の歪み。修二の脳内では、バラバラのピースが急速に組み合わさろうとしていた。

「合理的じゃありません。このヤマ、強盗じゃなく、計画的な殺人です」

 倉田は深いため息をつき、修二の肩を叩いた。

「お前のその『見抜く目』は確かに対したもんだ。だがな、高峰。世の中には、見つけても救えない真実ってのがあるんだよ」

「俺は正義を信じています、倉田さん。警察官ですから」

 修二はコーヒーを飲み干し、まだ見ぬ犯人の足跡を追うように、夜の街へと歩き出した。この時の彼はまだ、自分が信じている「正義」という盾が、どれほど脆いものかを知らなかった。

 捜査は修二の読み通りに進んだ。

 被害者の身元は、ある大手建設会社の元経理課長。そして彼が死の直前まで握りしめていた「何か」とは、政界の巨頭へ流れた巨額の不正献金を記録した裏帳簿のデータだった。

 修二の執念深い捜査は、ついに一人の男へと行き着く。

 事件の夜、現場周辺の防犯カメラに映っていた高級外車。その持ち主は、次期総理候補と目される大物政治家の実の息子だった。

「これで、すべて繋がります」

 修二は確信を持って、捜査一課の課長室のデスクに捜査報告書を叩きつけた。犯人の動機、証拠、すべてが完璧に揃っていた。

 しかし、課長は報告書に目を通そうともせず、ただ静かに引き出しへと仕舞い込んだ。

「高峰。この事件は、被疑者死亡のまま書類送検で幕引きだ」

 部屋の空気が、凍りついたように止まった。

「……何を言っているんですか。犯人は生きています。今ものうのうと、街を歩いている」

「現場で被害者を襲ったのは、別の不良グループだ。そいつらがすでに自首してきた。政治家の息子は関係ない。いいな?」

「自首? そんなトカゲの尻尾切りに騙されるわけがないでしょう! あいつが裏帳簿を奪うために被害者を呼び出し、口封じに殺したんだ。真実から目を背ける気ですか!」

 修二の怒号が響く。だが、課長は冷徹な目で修二を見据えるだけだった。

「真実よりも優先されるものがあるんだよ、高峰。お前一人の正義感で、警察組織全体を泥沼に引きずり込む気か? 守られるべき人間と、守られない人間がいる。それがこの社会の仕組みだ」

「守られるべき人間……? 人殺しが、政治家の息子だからという理由で守られるのが、あなたの言う仕組みですか!」

「口を慎め!」

 課長が机を叩いた。

「要領の悪い奴だ。お前のその真っ直ぐすぎる目は、組織にとってはただの凶器なんだよ。もう上が決めたことだ。これ以上首を突っ込むなら、お前の警察官としての寿命は終わるぞ」

 修二は拳を固く握りしめた。爪が手のひらに食い込み、血がにじむほどの怒りが全身を駆け巡る。

 

(俺が信じていたものは、何だったんだ)

 真実を明らかにするために刑事になった。弱い者を守るために、この制服を着たはずだった。しかし、巨大な壁を前にして、自分自身の無力さと、組織の腐敗が白日の下に晒されていた。

「……お断りします」

 修二は低く、しかしはっきりと言った。

「俺は、自分の目を裏切ることはできない」

 それからの修二の行動は、無鉄砲そのものだった。

 要領よく立ち回る術を知らない彼は、単身で上司の不正――事件の揉み消し工作の証拠を集め、内部告発を試みた。

 しかし、組織の壁はあまりにも厚く、そして冷酷だった。

 修二の動いた形跡は事前に察知され、証拠はすべて闇に葬られた。そればかりか、修二自身が「捜査情報の漏洩」という無実の罪を着せられ、孤立無援へと追い込まれていく。

 かつての同僚たちは、彼と目を合わせようともしなくなった。すれ違う背中に、冷ややかな視線が突き刺さる。

「高峰、もうやめろ」

 雨の降る夕方、警察署の屋上で、倉田がぽつりと言った。

「お前の勝ち目は、万に一つもない」

「倉田さんまで、あいつらの肩を持つんですか」

「違う。お前が壊れていくのを見たくないだけだ。お前は正しすぎる。だが、正しすぎる人間は、この泥の中で息ができないんだよ」

 修二は空を見上げた。灰色に濁った雲から、冷たい雨が顔を叩く。

 自分が信じた正義のせいで、自分自身が引き裂かれていく。激しい焦燥感と、底知れない人間不信が、修二の心をじわじわと侵食していった。

 一週間後。

 高峰修二は、警察手帳をデスクに置き、警視庁を去った。

 最後の日、彼はいつものように自販機でブラックコーヒーを買った。

 口に含むと、その味はこれまでになく苦く、そしてひどく渋かった。まるで、自分の人生そのもののようだった。

 三十二歳。すべてを失った男は、傘も差さずに、ただ一人、冷たい雨の街へと消えていった。

 彼の手元には、もう何も残されていなかった。鋭すぎる観察眼と、深く傷ついた心、それだけを抱えて――。

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