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渋柿探偵事務所  作者:


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第4章 渋柿の甘み

 高峰修二が下町に事務所を構えてから、さらに二年の歳月が流れていた。

 四十二歳になった彼の異名は、今や地元で完全に定着している。

 ――渋柿探偵。

 相変わらず愛想は悪く、要領も良くない。持ち込まれる依頼といえば、浮気調査、迷子ペットの捜索、あるいは近所の老人からの「無くした老眼鏡を探してくれ」という、およそ探偵とは呼べないような雑用ばかり。

 報酬よりも他人の心に首を突っ込んでしまうため、財布の中身は常に寂しかった。それでも、すりガラスのドアを叩く人は絶えなかった。嘘の裏にある優しさ、怒りの奥に潜む寂しさを、この男だけは絶対に見逃さないと、街の人間は知っていたからだ。

「おい、渋柿さん。またそんな儲からない仕事引き受けて!」

 階下の大家の老人が呆れ顔で、いつものように事務所のデスクに大ぶりの柿を置いていく。それは、じっくりと木で熟した、深い橙色の渋柿だった。

「まあいいや、これでも齧りな。時間はかかるが、最後には甘くなる。あんたみたいな男だよ」

 修二は無言でブラックコーヒーをすすり、その柿を見つめて微かに口元を緩めた。

 しかし、下町の平穏は、ある日突然破られることになる。

 すりガラスのドアを叩いたのは、フードを深く被った一人の若い男だった。その男が震える手で差し出したのは、ある一枚の暗号のような「裏帳簿のデータ」が入ったUSBメモリだった。

「……これ、兄貴が遺したものなんです。兄貴は二年前、新宿の裏路地で……強盗に殺されました。警察はただの強盗致死だって言ったけど、違う。兄貴は、これのせいで殺されたんだ」

 修二の身体が、硬直した。

 新宿の裏路地。二年前――いや、修二にとっては十年前、三十二歳の時にすべてを失った、あの始まりの事件。その被害者の弟が、今、目の前に立っていた。

 あの時、修二が暴こうとして闇に葬られた、次期総理候補と目される大物政治家・乃木のぎの不正献金。その決定的な「残りの証拠」が、巡り巡ってこの下町の事務所に流れ着いたのだ。

「高峰さん……僕、もう警察も誰も信じられない。でも、下町の渋柿探偵なら、僕らみたいな名もない人間の無念を晴らしてくれるって聞いたから……!」

 修二の脳裏に、かつて課長に言い放たれた言葉が蘇る。

『真実よりも優先されるものがあるんだよ。守られるべき人間と、守られない人間がいる』

(十年前、俺は誰も守れなかった)

 だが、今の修二の目は、十年前の冷徹な刑事の目ではなかった。幾多の傷ついた人々に寄り添い、下町の泥に塗れて熟してきた、深く、静かな目だ。

「……預かろう」

 修二はUSBメモリをポケットに仕舞い、ブラックコーヒーを飲み干した。

「お前の兄貴の無念も、お前が怯えて過ごした十年間も、全部ここで終わりにさせてやる」

 修二が動き出したことを、巨大な組織の影はすぐに察知した。

 その日の夜、事務所からの帰り道、修二の前に黒塗りの高級外車が止まった。降りてきたのは、かつて修二を組織から追い出した、今は警視庁の上層部に上り詰めた元課長だった。

「高峰。懐かしいな。相変わらず要領の悪い、貧乏探偵をやっているらしいじゃないか」

 元課長は冷笑を浮かべ、周囲を取り囲む屈強なスーツの男たちに合図を送る。

「十年前の警告を忘れたか? お前が握っているものは、国家を揺るがす爆弾だ。お前のような一介の探偵が抱えていいものではない。今すぐそれを渡せ。さもなければ、この下町の平穏も、この街のお前を慕う人間たちも、どうなるか分からんぞ」

 卑劣な脅しだった。十年前なら、修二は怒りに任せて掴みかかっていただろう。

 だが、四十二歳の渋柿探偵は、ただ静かに笑った。

「元課長。あんたは相変わらず、合理的じゃないな」

「何だと?」

「俺が十年間、ただ指をくわえてブラックコーヒーを飲んでいたとでも思っているのか?」

 修二はスマホを取り出し、画面を見せた。そこには、インターネットのライブ配信画面が表示されており、同接続数はすでに数万を超えていた。

「この街の人間はな、お節介なんだよ」

 修二が指差す路地の影から、次々と人が現れた。

 ハモニカ横丁の店主たち、井の頭公園で出会った人々、そして下町の商店街の住人たち。彼らは一様にスマホを掲げ、元課長たちの姿を撮影していた。吉祥寺時代に築いた「裏のネットワーク」と、下町で培った「人の繋がり」が、今、修二の背中を支える巨大な盾となっていた。

「俺はもう、十年前の孤立無援の刑事じゃない。この街の『渋柿探偵』だ。あんたたちが俺やこの街の住人に手を出した瞬間、その裏帳簿の全データと、今この恐喝の映像が世界中に同時拡散される」

 元課長の顔から血の気が引いていく。

「貴様……! こんな泥臭い方法で、国家の権力に勝てると思っているのか!」

「勝とうなんて思っちゃいない」

 修二は一歩、元課長へと詰め寄った。その眼光は、嘘の裏にある臆病さを完全に見抜いていた。

「俺はただ、目の前の守られない人間に、ほんのわずかな真実の光を返したいだけだ。……転んでも、間違えても、俺は絶対に諦めない。あんたたちの負けだ、引き揚げな」

 周囲の住人たちの鋭い視線と、無数のカメラのレンズに圧倒され、元課長はガタガタと震える手で車のドアを開けた。

「……撤退だ!」

 黒塗りの車は、夜の闇へと逃げるように走り去っていった。路地裏に、歓声が沸き起こる。

 数日後。

 ニュースでは、大物政治家・乃木の不正献金疑惑が連日大々的に報じられ、関係した警察上層部の更迭も発表されていた。十年の歳月を経て、ついに真実が白日の下に晒されたのだ。

 下町の高峰探偵事務所。

 修二はいつものように、ガスコンロで湯を沸かし、コーヒーを淹れていた。

 デスクの上には、あの大家の老人が置いていった渋柿がある。修二はナイフを手に取り、その熟しきった果実を一切れ切り分け、口に運んだ。

「……甘いな」

 十年前、あの大雨の夜に飲んだブラックコーヒーの、あの刺すような苦味。

 吉祥寺のプラットホームで味わった、冷たい孤独の渋み。

 それらすべてを通り抜けて、今、口の中に広がるのは、豊潤で、どこか優しい「人間の深み」の味だった。

 トントン、とすりガラスのドアが鳴る。

 逆光の中に映る、新たな依頼人の影。

「どうぞ。高峰探偵事務所です」

 修二はマグカップを置き、穏やかな笑みを浮かべて立ち上がった。

 噛めば渋いが、時間を経てば甘くなる。不器用な男の静かな人情ミステリーは、これからもこの下町の光の中で、続いていく。


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