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第9話「地下十二メートル」

 西側を掘ろう、と決めたのは朝食の後だった。

 リーネが焼いた最初のパンを食べながら——丸くて不格好で、焼きむらだらけだったが、温かいパンを噛んだのは廃領に来て初めてだった——私は測量図を広げて考えていた。

 床下の熱は西から東へ流れている。ブラントは温泉脈だと言った。ならば、源は西だ。屋敷の西側を掘れば、熱の正体がわかる。


「嬢ちゃん、また掘るのか」


 ドルフが鼻を鳴らした。屋根の瓦葺きを終えたばかりの男が、泥だらけの長靴を履き直している。


「温泉脈かどうか確かめたいの。屋敷の西側に、何かがある」

「温泉ねえ。確かに地面が温いのは気になってたが——掘るとなると深いぞ。地表の熱がこれだけ広いなら、源はかなり下だ」


 ドルフの見立ては正しかった。


 掘り始めた。ドルフが鶴嘴を振り、トーマスが土を運び、私は地層を記録した。表土の下に粘土層、その下に砂利、さらに下に岩盤。掘るほどに地温が上がる。五メートルで手が熱い。八メートルで湿気が増した。


「水だ」


 十メートルを過ぎたとき、ドルフの鶴嘴が水脈に当たった。透明な水が岩の隙間から滲み出してくる。温かい。手を浸した——熱い、ではない。体温よりわずかに高い程度。湯だ。


「温泉脈、当たりだな」


 ドルフは太い腕で額の汗を拭った。日焼けした顔に、認めた、という表情が浮かんでいる。


「ただし——嬢ちゃん、この水の下にまだ何かある。岩の振動が変だ。水脈だけじゃねえ」


 もっと深く。岩を慎重に剥がしながら、十二メートルほど掘ったとき——空気が変わった。


 岩盤の亀裂の奥から、光が漏れていた。

 薄い、青白い光。水でもなく火でもなく、岩の内側を走る脈のように、細い光の筋が枝分かれしながら地層の間を流れている。触れていないのに、肌がざわめいた。魔力だ。舞踏会の夜にオスカーが梁を支えたとき感じたのと同じ種類の——けれど比べものにならないほど大きな、流れ。


「……何じゃ、これは」


 声は背後から聞こえた。振り返ると——セレスティアがいた。

 半透明の輪郭。けれどいつもより濃い。壁の中から声だけで話しかけてくるいつもの存在感ではなく、輪郭がはっきりと浮き出ている。ドレスの襞、髪の一筋一筋が見える。


「セレスティア様。地上に出てきたのは初めてでは——」

「わからぬ。ただ——何かに引かれたのじゃ。地下から、とても強い力が」


 セレスティアの輪郭が揺れた。光の脈動と同じリズムで。


(この力が——セレスティア様を維持している?)


 通常のポルターガイストは数年で消える。二十年残っている理由がわからなかった。けれど、もしこの地下の魔力が——怨霊の存在を支え続けていたのだとしたら。


「セレスティア様。この光が見えますか」

「……見える。妾がここに縛られている理由が、これだとでも言うのか」

「わかりません。でも——可能性はある」


 セレスティアは黙って光を見つめていた。怒りでも悲しみでもない顔だった。自分の存在の根源を見せられて、言葉を失っている——そんな顔だった。


 その日の夕方、オスカーが来た。三日ごとの巡回。

 門をくぐり、馬を繋ぎ、屋敷に向かう途中で——足を止めた。西側に掘った穴のそばに来ただけで、目の色が変わった。


「何を掘った」

「温泉脈の調査をしていたら、その下に——」

「見せろ」


 短い命令だった。穴の縁に立ち、中を覗き込み——オスカーは目を閉じた。掌を地面に押し当てる。いつものように壁を読むときの仕草。けれど今回は、壁ではなく、大地を。


 長い沈黙。


「……龍脈だ」


 初めて聞く言葉だった。


「龍脈——大地の深層を流れる魔力の水脈のようなものだ。天然の魔力が地中を走っている。人の手で作れるものではない」


 オスカーの声が低く、慎重になっていた。普段の短い言葉遣いではなく、意図して丁寧に説明している。それだけで——この発見がどれほど重大なものか、伝わってきた。


「温泉脈は龍脈の熱で温められた地下水だ。白い霧も、床下の熱も、壁の析出物も——全部、龍脈が原因だった」


 呪いの正体。二十年間、この土地を恐怖で覆っていたものの正体が、ようやくわかった。呪いではなく、大地の力だった。


「そして——おそらく、ポルターガイストが二十年も持続している理由も」


 オスカーは地面から手を離し、立ち上がった。私を見た。壁ではなく、私を。真っ直ぐに。


「エリシア。この龍脈のことは、まだ誰にも言うな」


 名前を呼ばれた。「お前」ではなく、初めて——名前を。


「龍脈は貴重な資源だ。王都に知られれば、管理権を取り上げられる可能性がある。代理管理証書で守れる範囲を超えている」


「……ブラントさんにも?」

「特に商人には。龍脈の噂が商人筋を通って王都に届けば——この土地は別の意味で狙われる」


 私は頷いた。龍脈のことは、今この場にいる人間だけが知っている。私とオスカーとドルフとセレスティア。


「ドルフさんには——」

「ドルフには俺から言う。口の堅い男だ」


 オスカーの目が——真剣だった。建物を読むときの冷静な目ではなかった。もっと深い場所を見ている目だった。この土地を守ろうとしている目。そして——私を、守ろうとしている目。


(……守ろうとしている? 何から?)


 わからない。けれど胸の奥が、魔力石を握ったときと同じ温度で、じわりと温かくなった。


「ただし——龍脈の熱は使える。温泉水を管に通して、床の下を巡らせれば暖房になる。龍脈そのものに触れず、地下水の熱だけを利用するなら——」


「管?」


 私の頭の中で、図面が描き始めた。


「陶管です。焼き物の管を繋いで、温泉の湯を屋敷の床下に通す。管の分岐点を作って、各部屋に熱を配分する。湿気の逃げ道を壁に設けて、換気口と組み合わせれば——」


 言葉が止まらなかった。測量図の余白に、鉛筆が走る。温水の入口。管の経路。分岐点。排水口。換気口。一本の線が、もう一本を呼ぶ。


「——嬢ちゃん、また時間が消えてるぞ」


 ドルフの声で我に返った。いつの間にか陽が落ちかけている。測量図の余白は、床下暖房の設計図で埋まっていた。


「すみません。つい——」

「つい、じゃねえ。飯だ。リーネが、パンのおかわりを焼いたって騒いでる」


 ドルフは鼻を鳴らしたが、穴の底の青白い光を一度だけ振り返った。三十年石を触ってきた職人が、初めて見る光。何も言わなかったが、太い眉が少しだけ上がっていた。


 夕食はリーネが焼いたパンと塩漬け肉のスープだった。マルタが穀物から種を起こし、リーネが焼き方を覚えた。二回目のパンは一回目より丸く、焼きむらも少なかった。


「前よりふっくらしてるっ。ちゃんと膨らんだって、マルタさんも褒めてくれて——」


 リーネが三つ編みを揺らして笑っている。呪いに怯えて泣いていた少女が、パンを焼いて笑っている。建物を直すことの意味はここにある。壁を直せば人が住める。人が住めばパンが焼ける。パンが焼ければ——笑える。


 食後、東の角部屋で設計図を清書していると、オスカーが入口に立った。


「図面は」

「床下暖房の設計です。温泉水を陶管で屋敷全体に巡らせます。管の分岐点で流量を調整すれば、部屋ごとに温度を変えられる。換気口を壁の上部に設ければ、湿気もこもらない」


 オスカーは図面を覗き込んだ。肩が近い。蝋燭の光の中で、インクの染みた手が図面の管の経路を辿っている。


「……ここの分岐点、壁の荷重と干渉しないか」

「大丈夫です。北壁の基礎ラインから三十センチ外側に通します」


 オスカーは頷いた。短く、けれど確かに。同じ図面を読む目が二つ、蝋燭の灯りの中で重なっている。


「龍脈のことは——二人だけの話だ」


 二人だけ。その言葉が、図面の線より深く、胸に残った。


「……はい。二人だけの」


 オスカーが去った後も、床下の温もりは消えなかった。龍脈の熱。この土地の奥深くに眠る力が、足の裏からゆっくりと伝わってくる。

 呪いではなかった。この温もりは、大地が持っていた力だった。


 けれど——龍脈は希望であると同時に、危険でもあるとオスカーは言った。王都に知られてはいけないと。

 王都。大劇場。セドリック。あの劇場の地下にも——何かがあるのだろうか。


 図面の上の温水路の線が、蝋燭の光に揺れた。地下十二メートルの光が、この廃領の未来を照らし始めている。

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