表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/21

第8話「商人の計算」

 干し肉が、残り三切れになった。

 朝、マルタが布に包んだ食料を広げたとき、私は思わず数えた。硬いパンが二つ。干し肉が三切れ。水筒の水は井戸から汲めるようになったが、食料は——有限だ。


「お嬢様。あと二日が限界かと」


 マルタは淡々と言った。恐怖に震えることはもうなくなったが、代わりに実務の心配が増えている。十年来の侍女は、令嬢の食事が尽きることを「事実」として報告できる人だ。


「ドルフさんの分も含めると、明日の夕食で——」

「わかってる。何か手を打たないと」


 修繕は進んでいる。水路は一次開通し、屋根の瓦葺き直しも半分が終わった。けれど建物を直しても、食べ物がなければ人は住めない。当然のことを、私は見落としていた。建物ばかり見て、暮らしの基盤を後回しにしていた。


 門の外から、聞いたことのない音がした。

 蹄の音ではない。車輪だ。重い荷を引く、木製の車輪が石畳を軋ませる音。

 霧の中から、幌付きの荷馬車が現れた。


 御者台に座っていたのは、四十がらみの痩せた男だった。茶色の外套を肩にかけ、帳面を片手に持っている。門をくぐる前に荷馬車を止め、屋敷を見上げ——帳面に何かを書きつけた。


「ここがグラオフェルトの廃領ですかな。北東交易路の宿場で、人が入ったと聞きましてね」


 声は柔らかいが、目が鋭い。商人の目だ。値踏みする目。建物を見るのではなく、値を見る目。


「ブラントと申します。行商でして。建材、食料、雑貨、なんでも扱います。何かお入り用では?」


 行商人。宿場の噂を聞いてやってきた。呪われた廃領に人が住み始めたという話が、もう外に漏れている。


「入り用です。食料を。それと——」


 私は代理管理証書を取りに戻った。

 王家の印が押された羊皮紙。父から渡されたとき、これは体のいい追放の判でしかなかった。けれど証書には、修復工事契約権と資材調達裁量権が明記されている。読み直したのは廃領に着いた翌日だ。いつか使うときが来ると思って、内容を頭に入れておいた。


「こちらが代理管理証書です。王家の印があります。この証書に基づき、廃領の修復に必要な資材と食料を正式に調達したい。取引の記録は私が管理し、支払いは——」


「ほう」


 ブラントの目が変わった。帳面をめくる手が止まった。証書の王家の印を確認し、文面を読み、私の顔を見た。


「代理管理者が直接交渉なさるとは。通常、王家の証書持ちなら、執事か代官を立てるものですがね」

「執事も代官もいません。私とマルタと、下男のトーマスと、メイドのリーネ。それと石工のドルフが一人」


 ブラントは帳面に何かを書いた。速い筆だ。


「つまり、人手がほぼない。資材は不足。食料も尽きかけている。けれど王家の証書がある」

「そうです」

「失礼ですが——なぜ、こんな場所に?」


 簡潔に答えた。婚約破棄の詳細は省いた。「追放先を修繕している」とだけ。


 ブラントは帳面を閉じ、荷馬車の幌を開けた。中には穀物の袋、塩漬け肉の樽、蝋燭の箱、釘の袋、漆喰の粉が積まれていた。


「北東交易路を回っていると、廃領の近くを通るのですよ。正直に申しまして、呪いの噂は聞いていました。立ち寄るつもりはなかった。ただ——宿場で『若い令嬢が一人で壁を直している』と聞きましてね。商売の匂いがしたのです」


 商売の匂い。建物の匂いを嗅ぐ私と、商売の匂いを嗅ぐこの男。似ているようで、まったく違う。


「穀物一袋、銀貨三枚。塩漬け肉の樽は——」

「銀貨二枚半なら買います。王都の相場は二枚です。輸送費を加味して半枚上乗せ」


 ブラントが——目を丸くした。


「相場をご存じで」

「大劇場の設計をしていたとき、資材の相場は全部調べました。食料も、職人の日当も」


 セドリックが見向きもしなかった作業だ。設計図を描くことと、それを実現するための金と人を計算することは、本来ひとつの仕事だ。けれどセドリックは図面の見栄えだけに興味があり、裏側の数字は——私に任せて、それごと盗んだ。


「……ほう」


 ブラントは二度目の「ほう」を言った。今度の「ほう」は、一度目より深かった。帳面を開き直し、穀物の値段を書き換えた。


「銀貨二枚半で結構です。長い取引になりそうですからな、最初の値段は正直にいきましょう」


 取引が成立した。マルタとトーマスが荷を運び入れる。リーネが穀物の袋を見て——初めて泣き以外の声を出した。


「パ、パンが焼ける……! パンが焼けるんですっ!」


 栗毛の三つ編みを揺らして、リーネが穀物の袋を抱きしめている。呪いの屋敷で幽霊に怯えていた少女が、小麦粉に抱きついて泣いている。ドルフが屋根の上から「うるせえな」と鼻を鳴らしたが、その声もどこか柔らかかった。


 午後、ブラントに屋敷を案内した。取引先の状況を把握したい、と言う。商人としては当然の行動だ。

 北壁の補修状況、水路の開通、屋根の瓦葺き——ブラントは帳面に記録しながら歩いた。


 東の角部屋に入ったとき、ブラントの足が止まった。


「……この部屋、温かいですな」

「床下から熱が上がっています。西から東へ流れている。原因はまだ特定できていません」


 ブラントは床に屈み、手を当てた。商人の手は、職人の手とも建築士の手とも違う。薄く、柔らかく、帳面を繰るための指だ。


「失礼。これは——湯脈ではありませんか」

「湯脈?」

「北東交易路の途中に温泉宿がありましてね。あそこの床も、こういう温かさだった。地下に温泉が通っていると、地表に熱が漏れるのですよ」


 温泉。

 床下の熱。白い霧。地表から上がる蒸気。硫酸塩の析出物。すべてが——繋がった。


(呪いの正体が、温泉だとしたら——)


「ブラントさん。その温泉宿は、繁盛していますか」

「ええ。冬場は特に。湯治客が切れません。温かい湯と、暖まる宿。それだけで商売になる」


 帳面を閉じて、ブラントは私を見た。商人の目が光っていた。


「もし、この廃領の地下に温泉脈があるのだとしたら——呪われた土地どころか、金脈ですよ」


 金脈。追放先が。呪いが。

 まだ確認はできていない。床下の熱が本当に温泉由来なのか、もっと掘って調べなければわからない。けれど——可能性が見えた。建物を直すだけではなく、この土地自体に価値があるかもしれないという可能性が。


 夕方、オスカーが巡回に来た。

 門をくぐり、見慣れない荷馬車を見て——わずかに歩みが遅くなった。


「商人が来ました。ブラントという行商人です。食料と資材を購入しました」


「……証書を使ったのか」


 驚いた声ではなかった。確認だった。けれどその確認の中に、何かが混じっていた。


「はい。代理管理証書の資材調達裁量権に基づいて」


 オスカーは黙って屋敷に入った。壁に手を当て、いつものように構造を検査する。けれど今日は——検査の後、ブラントの方を振り返った。


「行商人か。北東交易路を回っている?」

「はい。王都の建材問屋にも顔が利くそうです」


 オスカーはブラントを見た。ブラントもオスカーを見た。商人と検査官。どちらも値踏みする目だ。ブラントの方が先に視線を外した。


「……あの方、ただの巡回検査官ではありませんな」


 小声でブラントが言った。


「どういう意味です」

「魔力の気配が尋常ではない。王都の建材問屋で聞いたことがあります。グレイヴェルの公爵家に、強大な魔力の持ち主がいると——」


「公爵家?」


 グレイヴェル家のオスカー。巡回検査官。けれどブラントは「公爵家」と言った。


「いえ、噂ですがね。気にしないでください」


 ブラントは話を切り上げた。けれど私の頭には残った。公爵。オスカーが公爵家の人間だとしたら——巡回検査官という肩書きは、何なのだ。


 その夜、東の角部屋で測量図に書き込みをしていた。

 床下の熱の流れを、改めて記録する。西が強く、東が弱い。もし温泉脈なら、西側に源泉があるはずだ。屋敷の西——水路の延長線上に。


 オスカーが出発する前に、珍しく長い言葉を口にした。


「あの証書は、お前を縛るために作られたものだ。王家が責任を押しつけるための紙だ。けれどお前は——それを道具にした」


 私を見ていた。壁ではなく、私を。前回の巡回で、ドルフとの作業中は離れていた目が——今日は、真っ直ぐにこちらを向いていた。


「道具にしたのではなく、書いてある通りに使っただけです」

「……そういうところだ」


 そう言って、オスカーは背を向けた。


「何が、そういうところですか」


 答えはなかった。馬に乗り、霧の中へ去っていった。


「——聞いておったぞ」


 壁の中からセレスティアの声。


「何を」

「あの男、今のはな——褒めておったのじゃ。不器用にも程があるがの」


 褒めていた? あれが?


「壁しか見えぬお前と、言葉を知らぬあの男。似た者同士じゃな」


 セレスティアの声は呆れていたが、どこか——楽しそうだった。


 測量図に目を戻した。床下の熱。温泉の可能性。そして——西側の地下に、まだ何かがあるかもしれない。水路の先に。熱の源に。この廃領の、もっと深い場所に。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ