第8話「商人の計算」
干し肉が、残り三切れになった。
朝、マルタが布に包んだ食料を広げたとき、私は思わず数えた。硬いパンが二つ。干し肉が三切れ。水筒の水は井戸から汲めるようになったが、食料は——有限だ。
「お嬢様。あと二日が限界かと」
マルタは淡々と言った。恐怖に震えることはもうなくなったが、代わりに実務の心配が増えている。十年来の侍女は、令嬢の食事が尽きることを「事実」として報告できる人だ。
「ドルフさんの分も含めると、明日の夕食で——」
「わかってる。何か手を打たないと」
修繕は進んでいる。水路は一次開通し、屋根の瓦葺き直しも半分が終わった。けれど建物を直しても、食べ物がなければ人は住めない。当然のことを、私は見落としていた。建物ばかり見て、暮らしの基盤を後回しにしていた。
門の外から、聞いたことのない音がした。
蹄の音ではない。車輪だ。重い荷を引く、木製の車輪が石畳を軋ませる音。
霧の中から、幌付きの荷馬車が現れた。
御者台に座っていたのは、四十がらみの痩せた男だった。茶色の外套を肩にかけ、帳面を片手に持っている。門をくぐる前に荷馬車を止め、屋敷を見上げ——帳面に何かを書きつけた。
「ここがグラオフェルトの廃領ですかな。北東交易路の宿場で、人が入ったと聞きましてね」
声は柔らかいが、目が鋭い。商人の目だ。値踏みする目。建物を見るのではなく、値を見る目。
「ブラントと申します。行商でして。建材、食料、雑貨、なんでも扱います。何かお入り用では?」
行商人。宿場の噂を聞いてやってきた。呪われた廃領に人が住み始めたという話が、もう外に漏れている。
「入り用です。食料を。それと——」
私は代理管理証書を取りに戻った。
王家の印が押された羊皮紙。父から渡されたとき、これは体のいい追放の判でしかなかった。けれど証書には、修復工事契約権と資材調達裁量権が明記されている。読み直したのは廃領に着いた翌日だ。いつか使うときが来ると思って、内容を頭に入れておいた。
「こちらが代理管理証書です。王家の印があります。この証書に基づき、廃領の修復に必要な資材と食料を正式に調達したい。取引の記録は私が管理し、支払いは——」
「ほう」
ブラントの目が変わった。帳面をめくる手が止まった。証書の王家の印を確認し、文面を読み、私の顔を見た。
「代理管理者が直接交渉なさるとは。通常、王家の証書持ちなら、執事か代官を立てるものですがね」
「執事も代官もいません。私とマルタと、下男のトーマスと、メイドのリーネ。それと石工のドルフが一人」
ブラントは帳面に何かを書いた。速い筆だ。
「つまり、人手がほぼない。資材は不足。食料も尽きかけている。けれど王家の証書がある」
「そうです」
「失礼ですが——なぜ、こんな場所に?」
簡潔に答えた。婚約破棄の詳細は省いた。「追放先を修繕している」とだけ。
ブラントは帳面を閉じ、荷馬車の幌を開けた。中には穀物の袋、塩漬け肉の樽、蝋燭の箱、釘の袋、漆喰の粉が積まれていた。
「北東交易路を回っていると、廃領の近くを通るのですよ。正直に申しまして、呪いの噂は聞いていました。立ち寄るつもりはなかった。ただ——宿場で『若い令嬢が一人で壁を直している』と聞きましてね。商売の匂いがしたのです」
商売の匂い。建物の匂いを嗅ぐ私と、商売の匂いを嗅ぐこの男。似ているようで、まったく違う。
「穀物一袋、銀貨三枚。塩漬け肉の樽は——」
「銀貨二枚半なら買います。王都の相場は二枚です。輸送費を加味して半枚上乗せ」
ブラントが——目を丸くした。
「相場をご存じで」
「大劇場の設計をしていたとき、資材の相場は全部調べました。食料も、職人の日当も」
セドリックが見向きもしなかった作業だ。設計図を描くことと、それを実現するための金と人を計算することは、本来ひとつの仕事だ。けれどセドリックは図面の見栄えだけに興味があり、裏側の数字は——私に任せて、それごと盗んだ。
「……ほう」
ブラントは二度目の「ほう」を言った。今度の「ほう」は、一度目より深かった。帳面を開き直し、穀物の値段を書き換えた。
「銀貨二枚半で結構です。長い取引になりそうですからな、最初の値段は正直にいきましょう」
取引が成立した。マルタとトーマスが荷を運び入れる。リーネが穀物の袋を見て——初めて泣き以外の声を出した。
「パ、パンが焼ける……! パンが焼けるんですっ!」
栗毛の三つ編みを揺らして、リーネが穀物の袋を抱きしめている。呪いの屋敷で幽霊に怯えていた少女が、小麦粉に抱きついて泣いている。ドルフが屋根の上から「うるせえな」と鼻を鳴らしたが、その声もどこか柔らかかった。
午後、ブラントに屋敷を案内した。取引先の状況を把握したい、と言う。商人としては当然の行動だ。
北壁の補修状況、水路の開通、屋根の瓦葺き——ブラントは帳面に記録しながら歩いた。
東の角部屋に入ったとき、ブラントの足が止まった。
「……この部屋、温かいですな」
「床下から熱が上がっています。西から東へ流れている。原因はまだ特定できていません」
ブラントは床に屈み、手を当てた。商人の手は、職人の手とも建築士の手とも違う。薄く、柔らかく、帳面を繰るための指だ。
「失礼。これは——湯脈ではありませんか」
「湯脈?」
「北東交易路の途中に温泉宿がありましてね。あそこの床も、こういう温かさだった。地下に温泉が通っていると、地表に熱が漏れるのですよ」
温泉。
床下の熱。白い霧。地表から上がる蒸気。硫酸塩の析出物。すべてが——繋がった。
(呪いの正体が、温泉だとしたら——)
「ブラントさん。その温泉宿は、繁盛していますか」
「ええ。冬場は特に。湯治客が切れません。温かい湯と、暖まる宿。それだけで商売になる」
帳面を閉じて、ブラントは私を見た。商人の目が光っていた。
「もし、この廃領の地下に温泉脈があるのだとしたら——呪われた土地どころか、金脈ですよ」
金脈。追放先が。呪いが。
まだ確認はできていない。床下の熱が本当に温泉由来なのか、もっと掘って調べなければわからない。けれど——可能性が見えた。建物を直すだけではなく、この土地自体に価値があるかもしれないという可能性が。
夕方、オスカーが巡回に来た。
門をくぐり、見慣れない荷馬車を見て——わずかに歩みが遅くなった。
「商人が来ました。ブラントという行商人です。食料と資材を購入しました」
「……証書を使ったのか」
驚いた声ではなかった。確認だった。けれどその確認の中に、何かが混じっていた。
「はい。代理管理証書の資材調達裁量権に基づいて」
オスカーは黙って屋敷に入った。壁に手を当て、いつものように構造を検査する。けれど今日は——検査の後、ブラントの方を振り返った。
「行商人か。北東交易路を回っている?」
「はい。王都の建材問屋にも顔が利くそうです」
オスカーはブラントを見た。ブラントもオスカーを見た。商人と検査官。どちらも値踏みする目だ。ブラントの方が先に視線を外した。
「……あの方、ただの巡回検査官ではありませんな」
小声でブラントが言った。
「どういう意味です」
「魔力の気配が尋常ではない。王都の建材問屋で聞いたことがあります。グレイヴェルの公爵家に、強大な魔力の持ち主がいると——」
「公爵家?」
グレイヴェル家のオスカー。巡回検査官。けれどブラントは「公爵家」と言った。
「いえ、噂ですがね。気にしないでください」
ブラントは話を切り上げた。けれど私の頭には残った。公爵。オスカーが公爵家の人間だとしたら——巡回検査官という肩書きは、何なのだ。
その夜、東の角部屋で測量図に書き込みをしていた。
床下の熱の流れを、改めて記録する。西が強く、東が弱い。もし温泉脈なら、西側に源泉があるはずだ。屋敷の西——水路の延長線上に。
オスカーが出発する前に、珍しく長い言葉を口にした。
「あの証書は、お前を縛るために作られたものだ。王家が責任を押しつけるための紙だ。けれどお前は——それを道具にした」
私を見ていた。壁ではなく、私を。前回の巡回で、ドルフとの作業中は離れていた目が——今日は、真っ直ぐにこちらを向いていた。
「道具にしたのではなく、書いてある通りに使っただけです」
「……そういうところだ」
そう言って、オスカーは背を向けた。
「何が、そういうところですか」
答えはなかった。馬に乗り、霧の中へ去っていった。
「——聞いておったぞ」
壁の中からセレスティアの声。
「何を」
「あの男、今のはな——褒めておったのじゃ。不器用にも程があるがの」
褒めていた? あれが?
「壁しか見えぬお前と、言葉を知らぬあの男。似た者同士じゃな」
セレスティアの声は呆れていたが、どこか——楽しそうだった。
測量図に目を戻した。床下の熱。温泉の可能性。そして——西側の地下に、まだ何かがあるかもしれない。水路の先に。熱の源に。この廃領の、もっと深い場所に。




