第7話「職人の手」
三日後の昼、蹄の音は二つだった。
オスカーの黒い馬の後ろに、もう一頭。荷馬だ。背に道具箱と木材を括りつけた、ずんぐりとした茶色の馬。その隣を歩いてきたのは、オスカーとは正反対の体格をした男だった。背は低いが肩幅が広く、日焼けした腕は太い丸太のようだ。
「修繕には人手がいる。手配した」
オスカーはそれだけ言って馬を繋いだ。相変わらず短い。
太腕の男が門をくぐり、傾いた門柱を一瞥し、石畳を踏み、屋敷の壁を見上げて——鼻を鳴らした。
「ドルフだ。石工。壁はどこだ」
自己紹介はそれで終わりだった。名前と職種と用件。オスカーに負けず劣らず短い。
「アークライト家のエリシア。代理管理者です。壁は北側が最もひどいのですが、まず水路を——」
「水路は後だ。壁を見せろ」
遮られた。けれど今回は、セドリックの遮断でもオスカーの先回りでもない。職人が現場を自分の目で見たいという、ごく当然の要求だった。
「……わかりました。こちらです」
北壁に案内した。ドルフは壁の前にしゃがみ込み、太い指で目地をなぞった。析出物を爪で削り、鼻に近づけて匂いを嗅ぎ、舌で舐めた。
「硫酸塩だな。水が通ってる。目地が膨張してる。石自体はまだ生きてる——入れ替えなくていい」
私が二日かけて出した結論を、ドルフは三十秒で出した。ただし方法が違う。私は構造と図面で読んだ。ドルフは指と鼻と舌で読んだ。建築士の目と、職人の手。
「目地を打ち直すだけでいいと思います。ただ、その前に水路を通さないと——」
「当たり前だ。水が止まらなきゃ、直しても同じことの繰り返しだろ」
ドルフは立ち上がり、腰に手を当てて屋敷を見回した。
「水路はどっちだ」
「北側から東へ回って、南の井戸に繋がっています。途中で詰まりがあるはずです。測量図では——」
「図面は後で見る。まず現物だ」
ドルフは歩き出した。私はその背中を追いかけた。マルタが玄関先から小さく手を振っているのが見えた。荷馬の道具箱を下ろしているのはトーマスだ。
北側の地面は、踏むとぬかるんだ。水路の詰まりで地下水が上がり、表土が常に湿っている。ドルフは長靴で地面を何度か蹴り、泥の跳ね方を見て、匂いを確かめた。
「ここから二間半ほど先だな、詰まりは」
「え?」
「泥の粘度が変わるところがある。水が溜まって腐り始めてる匂いがする。石工を三十年やってりゃ、水の在処はわかる」
三十年。この男は三十年、石と水と泥に触れてきたのだ。私が図面と計算で推定した詰まりの位置を、ドルフは泥の匂いで当てた。
掘った。
私は作業着の袖をまくり、ドルフの横で土を掻いた。令嬢の手仕事ではない。泥だらけの、肉体労働だ。ドルフは最初、私が掘り始めたとき一瞬だけ手を止めた。
「……令嬢が掘るのか」
「水路が詰まっているなら掘るしかないでしょう。私が指示だけ出して立っていたら、いつ終わるかわからない」
ドルフは鼻を鳴らした。さっきと同じ音だったが、意味が違う気がした。
二間半ほど掘ったところで、詰まりが見つかった。
水路の石組みの間に、木の根と泥と崩れた石が絡み合って栓になっていた。二十年分の堆積物だ。ドルフが太い腕で石を引き抜き、私が根を切り、トーマスが黙って泥を運び出した。
「そこの石、動かさないでください。上の壁に荷重がかかっています」
私が止めた。ドルフの手が一つの石に触れかけたとき。
「……わかるのか、どの石に荷重がかかってるか」
「水路の石組みと壁の基礎石が共有されている部分があります。ここを抜くと、北壁の基礎が不安定になる」
ドルフは私の顔を見た。日焼けした顔に、初めて真剣な表情が浮かんだ。それから石を見て、壁を見て、私が指した位置を確認して——頷いた。
「確かに。よく見てるな、嬢ちゃん」
嬢ちゃん。さっきまで「令嬢」だった呼び方が変わった。職人が相手を認めたときの呼び方だ。私はそれを——少しだけ嬉しく思った。セドリックの「君」より、父の「エリシア」より、ドルフの「嬢ちゃん」の方が、私の仕事を見ている呼び方だった。
水路の栓を抜いた瞬間、水が流れた。
二十年間滞っていた水が、石組みの間を通って南の井戸に向かって動き始めた。濁った水だ。最初は泥混じりの茶色い水。けれどそれが流れ続ければ、やがて澄む。
「……流れたぞ」
ドルフが呟いた。太い腕の泥を拭いもせず、水路を流れる水を見ていた。石工にとって、水が正しく流れることは——何よりの報酬だ。職人の目がそう語っていた。
「流れた」
私も呟いた。修繕の第一歩。まず水。ここから始まる。
「お嬢様! お嬢様!」
マルタが走ってきた。エプロンの裾を両手で持ち上げて、泥に足を取られないように。
「井戸の水が——動いています! 水面が揺れて、濁りが——薄くなっている気がします!」
水路の復旧が、井戸に影響を与え始めている。まだ完全ではない。水路全体を掃除し、石組みを補修しなければ。けれど——動いた。水が、動いた。
「マルタ、お昼を。ドルフさんとトーマスにも」
「はい! 干し肉と硬いパンしかございませんが——」
マルタは泥だらけの私を見て、一瞬だけ目を丸くした。それから白いエプロンの端で私の額の泥を拭い、何も言わずに走って行った。
昼食を食べているとき、気づいた。
オスカーが——離れた場所にいた。
門の近くの石段に座り、壁にもたれて、こちらを見ている。水路の作業中、彼はずっとそこにいた。手伝いに来なかった。魔力で石を支えることもしなかった。ドルフと私が掘り、トーマスが泥を運ぶのを、ずっと見ていた。
「オスカー様。お昼を」
錫のコップに水を入れて持っていった。干し肉を一切れ添えて。
「ドルフの腕は確かだな」
オスカーは水を受け取りながら言った。壁を見ている——いつもの癖だ。
「ええ。水路の詰まりの位置を泥の匂いで当てました。三十年の経験って、すごい」
「……お前は楽しそうだった」
私は——何と返していいかわからなかった。楽しそう? 水路を掘っているとき?
「修繕が進むのは嬉しいです。ようやく、この屋敷を直し始められる」
「そうか」
オスカーは干し肉を一口で食べ、立ち上がった。
「北壁の目地に魔力を入れておく。水が引いた後の方が効きがいい」
壁に向かって歩いていった。背中が——いつもより少しだけ、硬い気がした。
(何か、気に障ることを言っただろうか)
わからない。人の顔を読むのは苦手だ。建物なら読めるのに。
午後、ドルフが屋根の崩落部分を見に上がった。私も一緒に上がろうとしたとき、冷たい風が首筋をかすめた。
「——妬いておるな、あの男」
声は壁の中から聞こえた。セレスティアだ。姿は見えない。声だけ。
「え?」
「聞こえなかったか。妬いておるのじゃ。お前が職人と楽しそうに泥を掘っていたのを見て」
「妬いて……? オスカー様が? 何を」
「何をって——まったく、お前は本当に壁しか見えぬのじゃな」
セレスティアの呆れた声が消えていった。冷気も引いた。
(……妬く? 何に?)
理解できなかった。建物を読むのは得意だ。壁の析出物も、梁の撓みも、水路の詰まりも読める。けれど人の感情は——特に、なぜ人が妬くのか、何に妬くのか、それが自分と関係しているのかどうかは、まるでわからない。
夕方、水路の一次清掃が終わった。
ドルフは道具を片付けながら、屋敷を見上げた。
「明日は屋根だ。瓦を葺き直す。嬢ちゃん、上で支えが要る箇所を出しておいてくれ」
「わかりました。測量図に書き込んであります」
「図面描きか。俺は図面を読むのは苦手でな。現物を見ながら嬢ちゃんに教えてもらうとするか」
ドルフは鼻を鳴らして笑った。初めて笑顔を見た。泥だらけの、日焼けした笑顔。
オスカーが馬に乗った。
「三日後に来る」
いつもの言葉。けれど今日はもう一言、付け加えた。
「ドルフは信頼できる。だが——何かあれば、巡回を待たずに呼べ」
呼ぶ手段がない、と言いかけて、気づいた。オスカーが馬の鞍袋から小さな石を取り出していた。薄い青色の、透き通った石。
「魔力石だ。砕けば、俺に伝わる」
石を受け取った。掌に収まるほどの小さな石。温かかった。オスカーの魔力が込められている石が、私の手の中にある。
「……ありがとうございます、オスカー様」
オスカーは頷いて馬を走らせた。今日は振り返らなかった。黒い背中が霧の中に消える。
手の中の青い石を見つめた。この石を砕けば、オスカーに届く。王都から馬で一日の距離を越えて。
小さな石なのに、掌の中がやけに温かい。
「お嬢様——」
マルタが横に来た。私の手の中の石を見て——今度こそ、何か言いたそうな顔をした。けれど言わなかった。代わりに。
「夕食の支度をいたしますね。ドルフさんの分も」
「ええ。ありがとう、マルタ」
東の角部屋に戻ると、床の温かさが足裏に伝わった。変わらない床下の熱。けれど今日は、その温度に——少しだけ安心した。
水路が動いた。明日は屋根を直す。壁の目地を打ち直す。一つずつ、この屋敷が住める場所に近づいていく。
建物を直す。人が住める場所にする。追放先を、居場所にする。
掌の中の青い石が、蝋燭の光に透けて光った。
砕かなくても——この石があるだけで、何かが繋がっている気がした。




